智泉大徳廟

智泉大徳廟は、和歌山県高野山の壇上伽藍東塔東側(総持院前)にある。
智泉(789-825)は、讃岐出身の平安時代の僧で、空海の甥にあたる。
父は、讃岐滝宮の宮使で、菅原氏、母は佐伯氏の出身で空海の姉である。
延暦8年(789年)に生まれ、16歳の時に大安寺を本寺として出家した。
大同年間(806-809)に、嵯峨天皇皇后橘嘉智子が皇孫誕生祈願を命じ、
山城国相楽郡報恩寺(現在の岩船寺)で、智泉が普賢菩薩を刻んで祈願したところ、
弘仁元年(810年)皇子(後の仁明天皇)が誕生した。
弘仁3年(812年)高雄山寺の三綱の一、羯摩陀那となる。
以降常に空海の側近として苦楽を共にし、真言宣布の事業を助け、空海十大弟子のひとりとなっている。
弘仁12年(821年)空海の指授で、諸天灌頂神、菩薩灌頂神を図写している。画技に優れ、その画風は智泉様と称せられた。
天長2年(825年)、智泉大徳が37歳で高野山東南院にて入寂した時、空海は次の文を残している。

「亡弟子智泉が為の達嚫(だつしん)の文」
(略)吾飢うれば汝飢う、吾楽しめば汝ともに楽しぶ(略)
哀(あわれ)なる哉、哀なる哉 哀れの中の哀れなり
悲しき哉、悲しき哉 悲しみの中の悲しみなり (略)
哀なる哉、哀なる哉、復哀なる哉
悲しい哉 悲しい哉 重ねて悲しい哉(略)

達嚫(だつしん)とは、サンスクリットのdaksinaの音写で、供物を捧げるときに読む文である。
江戸時代寛政8年(1796)に作成された高野全山絵図には、東塔東側に東南院があり、「智詮廟」が描かれている。
(下記写真参照。写真出典 日野西眞定「高野山古絵図集成」))
大正13年(1924年)9月14日一千百年忌に際し、石碑が新造され、昭和43年(1968年)には参道が修築された。
南海高野線高野山駅からバスで金剛峯寺前下車、徒歩5分。



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