越後新発田藩 溝口家供養塔

越後新発田藩 溝口家供養塔は、和歌山県高野山奥の院24町石北東にある。
奥の院参道から、明智光秀供養塔の対面にある階段を、下野宇都宮藩 奥平家供養塔西横を通って約40m登った先に位置している。
史跡金剛峯寺境内(奥院地区)大名墓総合調査報告書によると、墓域内には大型五輪塔6基、中型五輪塔11基、宝篋印塔1基がある。
中央2基の五輪塔は、越後新発田藩第2代藩主 溝口宣勝供養塔(松嶽寺殿前伯州傑岑善英大居士)と同夫人供養塔(長壽院殿寶屋慶延大姉)である。

織田信長の家臣 丹羽長秀に仕えた溝口秀勝は、上杉家が会津に移った慶長3年(1598)に、越後新発田6万石の領主となった。
翌々年の関ヶ原の戦いでは東軍に属し、戦後徳川家康に所領を安堵された。
溝口宣勝(1582-1628)は、秀勝の長男で、慶長3年に父と加賀大聖寺(だいしょうじ)から越後に移り、関ヶ原の戦いに際しては、上杉景勝に扇動された越後一揆を父とともに制圧した。
慶長15年(1610)父の死により家督を継いで新発田藩第2代藩主となり、溝口家は明治維新まで新発田を統治した。
宣勝は、寛永5年(1628)10月29日に江戸で死去し、神田(後に本駒込に移転)の吉祥寺に葬られた。
溝口宣勝の正室は、織田信長の側近 堀秀政の娘である。
当地の五輪塔は、夫没後、逆修供養で夫人が寛永5年11月に建立している。



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