藤田邸跡公園(桜之宮公園)

藤田邸跡公園(桜之宮公園)は、大阪市都島区にある。
この公園は、明治時代 藤田傳三郎(でんざぶろう)男爵邸の一部で、当時の邸宅は、公園周辺の旧大阪市公館、藤田美術館、太閤園などとともに広大な敷地を有していた。
藤田傳三郎(1841-1912)は、長州藩の萩(山口県萩市)出身で、明治初期 藤田組を組織して建設業ほか各種の事業を手掛け、大阪商法会議所の創設にも参画し、第二代会頭を務めるなど大阪経済の基礎を築いた実業家である。
藤田邸跡は、築山や石積みなど当時をしのばせる庭園の一部が良好な状態で残っていたことから、庭園遺構部分を出来る限り保存または復元して、桜之宮公園の一部として整備した。
作庭者は、梅園梅叟(ばいえんばいそう)という庭師で、平坦な場所に起伏に富んだ地形を人工的につくり、南北方向の築山、滝、流れなどを基本的な構成としている。
この庭園は、平成15年に「旧藤田邸庭園」として、大阪市の名勝の指定を受けている。

江戸時代、この公園と藤田美術館の辺りは、浄土宗の大長寺の敷地となっていた。
享保5年(1720)10月14日、天満の紙屋の主人 治兵衛と曽根崎の遊女 小春が当時網島にあった大長寺の裏で心中し、この事件に取材して近松門左衛門が浄瑠璃の名作「心中天網島(てんのあみじま)」を発表して有名となった。
心中天の網島の名残りの橋尽くしで、大長寺への道行が次のように語られる。→ 心中天の網島ゆかりの地

野田の入江の水煙、山の端(は)白くほのぼのと、あれ寺々の鐘の声こうこう、かうしていつまでか、とてもながらへ果てぬ身を、
最期急がんこなたへと、手に百八の玉の緒を、涙の玉にくりまぜて、南無あみ島大長寺、薮の外面(そとも)のいさら川、
流れみなぎる樋の上を、最期、所と着きにける。
(出典 日本古典文学全集 75 近松門左衛門集(2))

明治18年(1885)の淀川の大洪水で大長寺は莫大な被害を受けたため、明治42年(1909)藤田傳三郎が寺領を買い取り、約400m北の中野町(現在の大長寺)に移転した。
現在の公園の正面入口は、大長寺の山門であったと伝えられている。



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