深江稲荷神社 

深江稲荷神社は、大阪市東成区にある神社である。
旧深江村の氏神で、和銅年間(8世紀前期)に創建された。
笠縫部(かさぬいべ)との関係が深く、境内が「笠縫邑跡」「深江菅笠ゆかりの地」として、大阪府、大阪市から史跡に指定されている。
万葉歌人の高市黒人(たけちのくろひと)の歌碑が建てられ、次の通り 深江歴史文化委員会の説明文がある。

四極山(しはつのやま)打ち越え見れば 笠縫の 島漕ぎ隠る 棚無小舟

住吉の浜の磯(石ころ)の果てるところ(四極)から小高い丘を上り切ると
難波潟に昔から笠縫の人々が住んでいる島が見え その島影に棚板のない小舟が隠れていくよ

碑の和歌の作者は、万葉歌人高市黒人です。生没年月は不詳。大和国高市郡(やまとのくにたかいちごおり)の出身。
持統天皇の吉野行幸や三河行幸に随身し歌を詠んだ。また、越中、尾張、近江、山城、摂津を旅し歌を作る。

「四極山」については、国学者 賀茂真淵は、摂津国西生(にしなり)郡にあると述べられ、また国学者本居宣長も住吉の山坂神社辺りが四極山だと書いている。
住吉津から大和の竜田に通ずる磯歯津(しはつ)路があり、その途中住吉より喜連に行く間の小高い丘が四極山と言われ、ここから河内湖(かわちこ)の笠縫島を眺めて読んだと推測されます。
「笠縫の島」については、本居宣長は、古事記伝の中で「摂津国の笠縫の島という所は東生(ひがしなり)郡の深江村である」と述べている。
この深江村に(宮浦・水鶏田(すいなだ)、菅島(すげじま)、島ノ岸)という字名(あざな)があり、これが島であったことを彷彿させます。

約二千年前、大倭(やまと)に在った笠縫邑(かさぬいむら)で、現在は伊勢神宮に祀られている御神体を護りながら、菅で笠、その他神事に使用される祭具等を作っていました。
そして第十一代垂仁天皇の御代に御神体が伊勢に遷幸(せんこう)された後、祭具の需要は減りましたが、菅笠が高貴な人々のためだけでなく、一般の人も使用し始め需要が増えましたので、菅草(すげくさ)の豊富な場所を求め、生駒の山並みを越えました。
そこで小さな島の辺りに良質の菅が豊かに生えているのを見つけここを安住の地と定めました(深江村)。
そして時代が進み、経済文化が発展するに伴い、菅笠の需要がますます多くなり、中世には奈良興福寺の大乗院が支配した「座」四十八の中に「菅笠座」があり、畿内の菅笠を独占していました。
江戸時代にお伊勢詣りが全国的に盛んになり、暗峠越奈良街道を通る人が、月間四、五萬人があったと言われています。
街道沿いには数軒の菅笠屋があり人々は旅の安全を祈って菅笠を買い求め、参詣したといわれています。伊勢音頭の中にも歌われ摂津名所図会にもその賑わいが描かれています。

しかもなによりも重要なことは、平安時代の法令集「延喜式」にも、「摂津国笠縫氏に調達」とあるように、伊勢神宮式年遷宮の当初(持統天皇・690年)から二十年ごとに「御笠」及び「御翳(さしほ)」を奉納されていたと考えられます。
この「深江菅細工」の伝承が平成十一年に大阪市指定無形文化財に認定されています。また人間国宝角谷一圭氏の下でも、昭和四十八年以降代々御神鏡を謹作されています。
そして天皇の御即位に際し侍従が後方からご身体に差し掛け、汚れから守る御菅蓋(かんがい)(菅笠)を献納できる栄誉を代々担っているのが東生深江村笠縫の島であります。

大阪市営地下鉄千日前線新深江駅下車、徒歩10分。



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