御廟橋

御廟橋は、和歌山県高野山奥の院にある。
日野西眞定氏「お大師さんと高野山[奥の院]」によると、御廟川にかかり、しかも御廟に一番近いので御廟橋(ごびょうばし)という。→ 一の橋 中の橋
そのほか、「玉川」にかかる「みびょうの橋(御廟橋)(日本国語大辞典)」、みみょうの橋、無明(むみょう)の橋、迷悟橋(めいごきょう)(高野山名所圖會)とも呼ばれる。
無明(むみょう)とは、「真理を知らないという無知」で、無明を滅することによって生死の苦から解脱することが仏教の最終目的であるとされる。無明という煩悩を取るありがたい橋という唱導から無明の橋と名付けられた。
この場所に初めて臨時の橋がかけられたのは、永承3年(1048)関白の藤原頼通が参詣した時で、その後天治元年(1124)の鳥羽上皇参詣時には、平素も橋がかけられていたという。
その後も浄域である御廟に至る前に、御廟川で手足をすすぐ習俗は残っている。

紀伊国名所図会には、「此橋板三十七枚は、蓋(けだし)金剛界會の三十七尊に表(ひょう)し、裏面に一々其種子(しゅじ)を書す」と記されており、木製の橋の時代には37枚の橋板があった。
現在は、36枚の石板(裏面に種子)で構成され、橋全体を一と数えて、37尊を表している。

同じく紀伊国名所図会には、上記の種子の記載に続けて、(仏の種子が書かれた橋の上を歩く)「故に犯罪障碍(しょうげ)ある人は、是を渡ることをえず。」とあり、豊臣秀吉登山の際の次の逸話が紹介されている。
秀吉公が高野山に来たとき、夜に応其上人ただ一人を共にしてこの橋を渡られたが、すぐに帰ろうとした。
応其上人が「あれこそが御廟でございます」と申上げたところ、太閤が仰るには、
「罪障深い者はこの橋を越えられないと聞いている。私は今天下を掌握したといえども、そのために数多の人を害してきた。
明日諸大名を率いて参詣するとき、この橋を渡れなければ、どれほどの恥辱であろうか。それ故今夜試したのだ。
私が万民のために悪者を退治したことは、仏意にも適っていると思われているならば、なお束帯してこそ礼拝しよう」と言って引き返された。
その翌日、橋を渡られた後に御供の諸侯を返り見て、「皆も橋を渡られたか。秀吉に罪がないことも知れ渡っただろう。」と仰った。



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