橋本街中ウォーク 2020年高野口街中ウォーク
東家渡場大常夜燈籠

東家渡場大常夜燈籠は、和歌山県橋本市東家にある。
高野街道は京都、大阪、堺から河内長野を経て高野山へ向かう道で、
古くは九度山町の慈尊院から町石道を登った。
その後、御幸辻から南下して、東家で紀ノ川を渡り学文路から高野山へ登っていく道が開かれ、
室町時代後期にはもっぱらこの道が使われた。
橋本の地名の由来となった橋は、天正15年(1587)に応其上人によって架けられたが、
3年後に紀ノ川の増水によって流失し、舟による横渡(よこわたし)が行われるようになった。
その紀ノ川北岸渡し場に建てられたのが、この大常夜燈籠である。
この石燈籠が建てられたのは文化11年(1814)で、永く「無銭横渡」の渡し場を伝えてきたが、
その後、河川改修のため現在地に移築された。
元は同型の燈籠2基が相対して建てられていたが、うち1基は紀ノ川の洪水により流失した。
台座四面の銘文によると、阿波国藍商人の連中をはじめ、
京都、難波、堺の商人および和歌山の川舟仲間ほか多人数の講社、信者などの浄財によって建てられたもので、
当時の弘法大師信仰の広がりと、かつての紀ノ川渡し場の賑わいを現在に伝えている。
紀伊名所図会の橋本・東家・陵山にも、「橋本わたし」の舟が描かれており、対岸には三軒茶屋大常夜燈籠が残されている。
昭和56年に橋本市の文化財に指定されている。
南海高野線橋本駅下車、徒歩約10分。



東家の追分石

東家の追分石は、和歌山県橋本市東家にある。
追分とは、道が左右に分かれるところをいう。
伊勢(大和)街道と高野街道が交差する四つ辻に旅人の便宜を図るためにもうけられた道標石である。
東面に「右 京大坂道」、西面に「右 こうや 左 京大坂道」
南面に「南無大師遍照金剛 施主 阿州一楽村 藍屋元次郎 
     世話人 当邑 河内屋次右エ門」
北面に「右 わかやま こかわ
     左 い勢 なら はせ よしの 追分」
と刻まれている。
阿州とは、徳島のことで、徳島県の北の粟の生産地で「粟の国」、南の「長の国」と呼ばれ、大化の改新の後に「粟国」に統一された。
和銅6年(713年)、元明天皇の命により、地名を二字で表記するため、粟は「阿波」に変更された。
南海電鉄高野線橋本駅下車、徒歩10分。

橋本戎神社

橋本戎神社は和歌山県橋本市川原町にある。
えびすは、生業を守護し福利をもたらす神として、日本の民間信仰の中で広く受け入れられている。
語源は定かでないが、夷、つまり異郷人に由来すると考えられ、来訪神、漂着神的性格が濃い。
現在一般にえびすの神体として考えられている烏帽子をかぶり鯛と釣り竿を担いだ神像からうかがえるように、
元来は漁民の間でより広範に信仰されていたものが、海産物の売買により市の神、商売繁盛の神として、次第に商人や農民にも受け入れられた。
七福神の一つとして、大黒天と並び祀られることが多い。

橋本戎神社は、古くは「市戎(いちえびす)」と呼んでいたもので、元々市脇で行われていた塩市を橋本町へ移し塩市発展の神として祀ってきたものである。

紀伊続風土記の橋本町の項に、次のように知るされている。
〇市衣比須社
町内にあり 昔此地に一六三八の日市ありしとそ 今猶塩市あり 故に土人市夷といふ

現在は、「川原のえべっさん」と呼び、周辺の商店で順番を決めて祀っている。
1月9日の宵戎には、福笹を求めて多くの人がお参りする。
南海高野線橋本駅から徒歩約10分。



旧橋本町道路元標

旧橋本町道路元標は和歌山県橋本市にある。
道路元標は、道路の起点、終点、経過地を標示するための標示物である。
旧道路法により各市町村に1個設置することとされ、その位置は知事が定めるとしていた。
大正11年(1922)の内務省令は、その材質について、石材その他の耐久性のものを使用すること、
正面に市町村名を記すことを定めるとともに、寸法なども明示していた。
現行の道路法では、道路の付属物としているだけで、設置義務、材質、様式などの定めはない。
和歌山県では、県下各市町村に設置され、全部で200基余り作られたが、現在では17基を残すのみである。
橋本町道路元標は、かつて紀陽銀行橋本支店前の交差点西側に設置されていたが、国道24号線の拡幅整備により撤去されていた。
平成元年、この道路元標が交差点北西に放置されているのが発見され、本来の設置場所に近い、紀陽銀行橋本支店前に再び設置された。
平成9年に橋本市の文化財に指定されている。
南海高野線橋本駅から徒歩約10分。



応其寺

応其寺は、和歌山県橋本市にある真言宗の寺院である。
1587年に応其によって創建され、山号は中興山と号する。
応其は、1537年近江国蒲生郡観音寺に生まれた。俗姓は佐々木順良(むねよし)といい、主家の大和の国高取城主の越智泉が没落したため、紀伊の国伊都郡相賀荘に移り住んだ。
37歳の時、出家して高野山に登り、名を日斎房良順のちに応其と改めた。
高野山では米麦を絶ち木の実を食べて13年間仏道修行を積んだため、木食上人と呼ばれた。
1585年豊臣秀吉が根来寺の攻略の後、高野山攻撃を企てた時、高野山を代表して和議に成功し、秀吉の信任を得て高野山再興の援助を受けた。
応其は、全国を行脚して寺社の勧進に努めたほか、学文路街道を改修し、紀ノ川に長さ130間(236m)の橋を架けた。橋本市の地名はこの橋に由来する。
境内には、本堂、庫裏、鐘楼、山門があり、寺宝として木像応其上人像、木食応其上人画像、古文書応其寺文書などがある。
高野山奥の院には、「興山応其上人廟」、興山上人一石五輪塔がある。
南海電鉄高野線及びJR和歌山線橋本駅から徒歩5分。(Y.N)



鎌倉大将軍社 延命地蔵尊 元浄泉寺塩市の燈籠

鎌倉大将軍社は、和歌山県橋本市にある。
西隣には、廃浄泉寺延命地蔵尊と塩市仲間の石燈籠がある。

紀伊続風土記の古佐田村の項に、次のように記されている。
〇小祠四社
 大将軍社 森周三十三間
 若宮三社
〇浄泉寺 浄土宗西山派名草郡梶取村総持寺末
 鐘楼 鎮守社
村の南にあり 縁起に本尊地蔵尊は延暦中田村将軍奥州征伐の時 守本尊とし深く祈請して遂に夷賊を退治し
大同中此地に七堂伽藍を建立して此本尊を安置すといへり
恵心僧都か書けりといふ阿弥陀像信誉上人の六字名號あり

大将軍(たいしょうぐん、だいしょうぐん)とは陰陽道の八将神(八将軍)の一つで、金曜星の神格である。
3年同じ方位に留まるため三年塞がりといい万事に大凶である。
鎌倉の意味は不明である。

元浄泉寺塩市の燈籠は、古佐田の浄泉寺境内にあったとされ、明治43年(1910)に浄泉寺が廃寺となった際に、丸山公園内の庚申堂前に移された。
その後、延命地蔵尊が新しく建てられたのを機に当地に移された。
各面には次のように刻されている。
 東面 正徳五乙未年六月廿四日
     古佐田村陵山浄泉寺義建代
 南面 奉寄進地蔵前石灯籠
 西面 橋本町塩市仲間

橋本町の塩市は、天正15年(1587)応其上人が橋本町を開き、豊臣秀吉に願い出て永代諸役免除と塩市の特権が与えられたことに始まる。
当初、一と六のつく日に市が開かれる一六塩市が行われ、のち徳川頼宜の紀州入国(1619年)以降、
現在の和歌山市にあった三葛村の塩舟関係者からの願いにより、月6回の塩市が12回に増やされた。
橋本町塩市仲間が寄進し、当地が紀の川中流の塩市として栄えたことを示すもので、橋本市の文化財に指定されている。


日本聖公会橋本キリスト教会

日本聖公会橋本キリスト教会は、和歌山県橋本市にある。
日本聖公会は、プロテスタント教会の一宗派で、英国国教会の系統をひいている。
安政6年(1859)米国の宣教師ウィリアムズとリギンズによって伝道を開始した。
明治20年(1887)に米国監督協会、英国の宣教協会および福音宣布協会の三派が合同して日本聖公会を創立した。
当地では土曜日午後7時30分から夕の礼拝、日曜日午前9時30分から朝の礼拝が行われている。
新礼拝堂の東側に牧師の住まいを兼ねた旧礼拝堂の建物がある。
この旧礼拝堂は、奈良県吉野地方にあった農家を明治33年(1900)に現在地に移築して教会としたもので、
大棟、隅棟には十字架を刻した鬼瓦がある。
旧礼拝堂は、平成17年(2005)に国の登録祐文化財に指定されている。

太神社 一里塚(一里松)  橋本川船仲間中石灯籠

太神社(だいじんじゃ)と一里塚(一里松)は、和歌山県橋本市にある。
江戸時代に旅人の便宜を図るために、街道の両側に一里(約4㎞)毎に土を盛り、里程の目標として塚を築いて「一里塚」と呼んでいた。
その広さは五間四方(約81㎡)とかなり大きく、塚の代わりに榎や松を植えたところもあった。
紀州藩では、和歌山城下の京橋北詰を起点に紀の川に沿って1里(約4㎞)毎に設けられていた。
当地は11里目にあたり、10里の松は高野口町名古曽、12里は隅田町中島にあったとされているが、現存していない。
多くの一里松が失われた中で、当地の一里松は戦前まで残っていたが、現在は一里松を再現した松が植えられ、近くに一里塚の石柱が建てられている。
江戸時代初期から当地は川原町と呼ばれ、船宿や紀の川を行き来する川船仲間の舟運業者が軒を並べていた。
太神社は天正年間(1573-92)に木食応其上人が松ケ枝橋の東詰に勧進したものと伝えられ、
地元では「ゴウシンサン」と呼ばれている。
祠前にはほぼ同型同規模の二基の石灯籠が建ち、右側(東)の石灯籠一基は、寛政8年(1796)当地川船仲間が神前に奉納したもので、橋本市の文化財に指定されている。
竿部には次の通り刻まれている。
 右、東面 寛政八丙辰十二月 日
 正、南面 太神社夜灯
 左、西面 橋本川船仲間中
拝殿に向かって左側には、16年後に建てられた石灯籠がある。
竿部に次の銘文がある。
 右、東面 文化九年壬申九月吉日
 正、南面 太神社
 左、西面 町内中
南海高野線橋本駅下車、徒歩10分。

巡礼観音

巡礼観音は、和歌山県橋本市東家にある。
地元では「かんのんさん」と呼び親しまれている。
脚の痛みを治してくれる観音といわれる。
行き倒れた巡礼者が死んだため、村人がお堂を建て、背中に背負っていた観音さんを祀ったという。
初午には近辺の有志から寄付を集めて餅を搗き、般若心経を唱えた後、この境内と広場で餅まきをしている。
また9月20日前後の日曜日に有志が集まり、千部観音経を唱えて拝んでいる。
巡礼観音の西側に、藤紫大明神と書かれた社がある。
南海高野線橋本駅下車、徒歩10分。

妙楽寺

丹生山薬師院妙楽寺は、和歌山県橋本市にある真言律宗の寺院である。
弘仁11年(820年)嵯峨天皇の勅願寺で、大森の社の西に七堂伽藍を草創したといわれる。
その後、永仁年間(1293-98)に最明寺時頼が再興して現在地に移したが、寛正4年(1463年)に焼失した。
文明5年(1473年)僧悟阿が諸方に勧進して再建したが、天正年間、織田氏高野攻めの時、高野山の衆徒が焼き払ったといわれる。
当寺は、創建の頃僧空海の姪「如一尼」の居たところで、以後尼寺となり、永仁6年(1298年)関東から祈祷寺三十四箇寺を定めた内、尼寺七箇寺の一つである。
本堂が焼失したため、妙楽寺再建・再興委員会が一石一経による再建を目指している。
本尊の木造薬師如来坐像は、橋本市郷土資料館に保管されている。
また、嵯峨天皇の女御とち姫宮に供奉して当寺に移った青待之衆一二人の記録の写しが残されている。
南海高野線、JR和歌山線橋本駅下車、徒歩7分。




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