石上神宮

石上神宮は、奈良県天理市布留町にある。
桜井市の大神神社と並ぶ日本最古の神社で、古くは石上坐布留御魂(いそのかみにますふるのみたま)神社、また布都(ふつ)御魂神社、布瑠社などとも呼ばれた。

祭神は、神武天皇東征のときに国土平定に偉功のあった天剣(平国之剣(くにむけしつるぎ))とその霊威を「布都御魂大神(ふつのみたまのおおかみ)」、
鎮魂(たまふり)の主体である天璽十種瑞宝(あましるしとくさのみづのたから)の起死回生の霊力を「布留御魂大神(ふるのみたまのおおかみ)」、
素戔嗚尊(すさのおのみこと)が八岐大蛇(やまたのおろち)を退治した天十握剣(あめのとつかのつるぎ)の威霊を「布都斯魂大神(ふつしみたまのおおかみ)」と称え、
総称して石上大神(いそのかみのおおかみ)としている。
相殿に、五十瓊敷命(いにしきのみこと)、宇摩志麻治命(うましまじのみこと)、白河天皇、市川臣命(いちかわおみのみこと)を配祀している。

記紀によると、神武天皇即位元年、建国にあたって功績のあった天剣の威霊を布都御魂大神として宮中に奉祀したが、
その後の崇神天皇7年11月、物部の祖、伊香色雄命(いかがしこおのみこと)が勅により布都御魂大神を、当地の石上布留高庭(たかにわ)に移し祀ったのを当宮の初めとしている。
以来、物部氏歴代が奉仕するところとなり、垂仁天皇39年に五十瓊敷命が剣1000口をつくり、神倉(ほくら)に納めた。
平安時代後期の永保元年(1081)には、白河天皇が当宮の鎮魂際のため、宮中の神嘉殿(しんかでん)を寄進し、現在の拝殿(国宝)となっている。

中世には、戦乱による社頭の破壊や、社録の没収などで衰微したが、明治期に神祗の国家管理が行われることになり、明治4年(1871)官幣大社となり、明治16年に神宮号復称が許された。
当神宮には、かつては本殿がなく拝殿後方の禁足地を御本地(ごほんち)と称し、その中央に主祭神が埋斎され、諸神は拝殿に配祀されていた。
明治7年(1874)に、大宮司(だいぐうじ)菅政友(かんまさとも)が官許を得て禁足地は発掘され、玉類、武具、装飾具など多数の宝物類が発見されて、石上神宮禁足地出土品として重要文化財に一括指定されている。

摂社として、出雲建雄神社(延喜式内社)、天神社、七座社がある。
出雲建雄(いずもたけお)神社の拝殿は、内山永久寺(現在廃寺)の鎮守社の拝殿を同寺廃寺後大正3年(1914)に移築したものである。
中央に一間の「馬道(めどう)」と呼ぶ通路を開く割拝殿(わりはいでん)の典型的なもので、国宝に指定されている。
鏡池のワタカという淡水魚は、草を食べることから馬魚とも呼ばれ、奈良県の天然記念物に指定されている。→ 奈良(天理)の昔話 馬魚 馬の顔をした魚

東回廊には、石上神宮の代表的な宝物である国宝「七支刀(しちしとう/ななつさやのたち)」の写真が掲出されている。
この刀は、刀身の左右に段違いに3本の枝が出ている全長74.8cmの鉄剣で、鉄身両面には金象嵌の銘が刻まれている。
中国の東晋の太和4年(西暦369年)に、百済王が倭王(わおう)に献じたものではないかと考えられている。
JR及び近鉄天理駅から徒歩30分。参拝者用の駐車場がある。



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