有間皇子岩代の結松

有間皇子岩代の結松は、和歌山県みなべ町にある和歌山県史跡である。
徳富蘇峰筆の有間皇子結松記念碑と200m北側に沢潟久孝(おもだかひさたか)筆の万葉歌碑が建てられている。
斉明天皇4年(658年)、斉明天皇と皇太子中大兄皇子(後の天智天皇)は紀の湯(白浜湯崎温泉)に行幸した。
孝徳天皇の遺児 有間皇子は、蘇我赤兄の口車に乗せられ、謀反のかどで捕えられ、白浜の天皇・中大兄皇子のもとに護送された。
その途中紀の湯を眼前に望み、当地の松の枝を結び岩代の神に自分の命の平安無事を祈って次の和歌を詠んだ。

      有間皇子自ら傷みて松が枝を結ぶ歌
  磐代の浜松が枝を引き結び
    真幸くあらば また還り見む
  家にあらば笥に盛る飯を草枕
    旅にしあれば 椎の葉に盛る  (万葉集 巻二)

有間皇子は、紀の湯で中大兄皇子の訊問に対して「天と赤兄と知る吾全知らず」と答えたが、帰路11月11日藤白坂(海南市)で絞殺された。
2番目の歌は、聖徳太子の次の歌を踏まえた有間皇子の祈りが込められている。

  家にあれば妹が手まかむ草枕
   旅に臥(こや)せる この旅人あはれ (万葉集巻三)

聖徳太子が、飢えて死にかかっている若者の姿に目をとめ、食物と上着をかけていたわった。
その甲斐もなく若者は亡くなり、墓を建てたが、数日後墓に行くと、墓は空になり上着が畳まれていた。
太子は、その若者を聖人と考えたといわれる。
有間皇子は、自分も聖人となって復活したいとの願いを込めて、わざと聖徳太子の歌に似せて詠んだものといわれている。
JR紀勢本線岩代駅下車、徒歩15分。


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