「街道(古道)歩き」資料 





菅生神社 

菅生神社は、堺市美原区にある神社である。
平安時代に編纂された延喜式神名帳に載る丹比(たじひ)郡「菅生(スカフノ)神社」に比定される。
中世には、菅原道真を祀るようになり、菅生天満宮ないし天神社と称するようになった。
現祭神は主神が天児屋根命・菅原道真で、配神は天照皇大神・素盞嗚尊・誉田別命・広国押武金日命。
素盞嗚尊は八阪(やさか)神社(野田村、現堺市)、天照皇大神は天照大神宮(現堺市)を明治
40年(1907年)に合祀した際の祭神。旧郷社。
奈良時代初期に、菅生朝臣(すごうのあそん)一族が本拠地に創建した。
境内地には、神門、拝殿、幣殿、本殿の他、神宮寺であった高松山天門寺の本堂(現在は境内社恵比寿神社本殿)の他、道真ゆかりの菅澤等が現在も伝わっている。
本殿は、一間社春日造で正面に軒唐破風をつけている。建築年代は、高欄擬宝珠に「河州丹南郡 野田庄天神 御寶前 万治四辛丑季三月吉祥日」の銘があり、琵琶板・軒桁などからも同じ年号の墨書が見られることから、万治4年(1661年)に建築されたもので、堺市有形文化財に指定されている。
南海高野線北野田駅から、近鉄バスで「東野」下車、徒歩3分。参拝者用の駐車場がある。


阿保神社 

阿保神社は、大阪府松原市にある神社である。
阿保の地名は、平安初期に平城天皇の皇子の阿保親王が干害の地に親王池などを作り善政をされた阿保親王住居跡に親王社が建てられ、やがて阿保村と呼ばれた。
阿保神社は、本殿に菅原道真公を祀り、本殿右側に阿保親王と厳島姫神(いつくしまひめがみ)(弁財天)を祀る。
本殿は、拝殿の奥にある覆屋の中にある一間社流造りで側面も一間の浜縁付で上に古風な蟇股がある。また木鼻には渦文が二つ、庇木鼻には古い竜の彫り物があり、江戸中期造りを残す建築である。
神社の創建は、大宰府で薨去された道真公のため、各地に天満宮が建立された頃(10世紀中頃)といわれている。
祭神である道真公が、大宰府に行く際、伯母覚寿尼のいる土師寺に立ち寄られた時に、阿保の地で休息された由来で祀られたと伝えられている。
本殿の裏には、高さ16m、幹回り4.5m根株張6mにも及ぶ神木の楠がそびえ立っていて、市内名木にあげられている。
神社南側には、「阿保の地と海泉池(かいずみいけ)」の石碑が建てられている。
阿保親王は、この地に稚児ケ池(ちごがいけ)を作ったと伝えられる。
海泉池は、丹比野(たじひの)の谷筋を堰き止めた溜池で、立部の阿湯戸池から上の池、今池、小治ケ池、樋野ケ池、寺池、稚児ケ池と不整形な池が一列に並ぶ群池である。
海泉池の名称は、地底に湧水があり、大きい池を海にたとえ、その池を誉めたたえた名である。
近鉄南大阪線河内松原駅下車、徒歩12分。


屯倉神社 

屯倉神社(みやけじんじゃ)は、大阪府松原市にある神社である。
開運松原六社参りの一つ。平安時代前半の天慶5年(942年)8月18日、菅原道真を祭神として創始されたと伝える。
他に須佐之男命(すさのおのみこと)、品陀別命(ほんだわけのみこと応神天皇)も祀られている。

この地は、古墳時代天皇家の直轄とされた依羅(依綱)屯倉の旧跡と伝え、屯倉(三宅)の名もこれによる。
道真を祀る以前は、土師氏(のちに菅原氏に改姓)の祖神である天穂日命を祀る穂日の社があった。
旧社殿は、寛政4年(1792年)に建てられていたが、現社殿は昭和63年(1988年)に氏子の寄付で造営された。
本殿には、等身大の菅原道真坐像が安置され、挿首形式の頭部は南北朝時代のものである。
近世に後補された胎内には、元和8(1622)に書かれた丹生講式や柿経の法華経8巻、舎利2粒が納められていた。
また、近世初頭の近衛信尋(のぶひろ)自画賛の渡唐天神像、後陽成天皇宸筆の菅原道真画像、近衛基煕の「南無天満大自在天神」名号など道真に関わる伝承品も多い。
拝殿前には、穂日の社時代、道真は九州に左遷の折、同社に立ち寄り座したという石が残る。
「神形石」と呼ばれ、妻屋氏が、文久
2年(1862年)に標石を建立している。
他にも、南北朝時代の阿弥陀三尊画像や弘法大師像、江戸時代に皇室で用いられていた草履「おめぶと」などがある。
西方寺に移されている平安時代後期の十一面観音像は、同社の神宮寺であった梅松院(現社務所の地)の本尊であった。
本殿北側には、同じく三宅「西の口」に鎮座した延喜式内社の酒屋神社を合祀(明治40年(1907年))している。
酒屋神社の祭神は、中臣酒屋連の祖神である津速魂命を祀っている。
例祭は、10月1日で夏祭りが7月25日に行われる。境内の枝垂れ梅が有名。
近鉄南大阪線河内松原駅から徒歩21分。


瓜破天神社 

瓜破天神社は、大阪市平野区にある神社である。
祭神は、素戔嗚命、菅原道真、平維盛である。
元文元年(1736年)に書かれた「船戸録」によると、大化年中(645-650)に、丹比(たじひ)郡の人で日本法相宗の祖 船氏道昭が三密の教法観念のとき、天神の像が現れた。
道昭は朝廷に上申したところ方八丁の宮地を賜り、社殿を造営し像を祀り、西の宮又方八丁の宮と称したのが当社の起源とされている。
その後、慶長年中(1596-1615)に北の宮と称した牛頭天王社を合祀した。
寛永年間(1624-1643)に耕作の都合で集団移住し西川村(旧西瓜破)を形成し、そこに氏神として祀った天満宮(祭神 菅原道真 創立鎮座年月不詳)、さらに東北部に東の宮と称した小松大明神(祭神 平維盛)があった。
この社は、壽永年間(1182-1183)平重盛に大恩を受けた源氏の武将 湯浅七郎兵衛宗光が、京都守護職として赴く際、当地で重盛の嫡子、維盛が熊野浦で入水したと聞いたため、追悼慰霊し神領五十歩を寄進して宮居を建てたのが起源とされている。
その後、天和年間(1681-1683)当地本郷地、村民の熱意によって現在の地に勧請され氏神(小松神社)となった。
明治43年(1910年)に上記各社が合祀され、昭和時代に村民の希望で、再び各社に分霊鎮座された。
現在社殿は、流造檜皮葺で東面しており、境内は旧中高野街道に面している。
大阪市営地下鉄谷町線喜連瓜破駅下車、徒歩15分。


式内楯原神社 

式内楯原神社は、大阪市平野区にある神社である。
「延喜式」神名帳に載る摂津国住吉郡の同名社に比定される。旧村社。
祭神は、武甕槌大神(たけみかづちのおおかみ)・菅原道真公・大国主大神・素盞嗚尊・十種神宝大神(とぐさのかんだからのおおかみ)である。
社伝によれば、崇神天皇六年、当地の支配者が武甕槌大神を「楯之御前社」に鎮祀したことに始まる。
「住吉大社神代記」の子神住道神の項に、「河内国丹治比郡楯原里」がみえる。
桓武天皇の時、字十五の龍王社を合祀し、境内別殿として奥の宮と称した。
文明13年(1481年)に現社地の近くに社殿をつくって旧社地より遷り、元和年間(1615-24)風雨により破損し、現社地に遷座したという。
「摂津志」の楯原神社の項に「在西喜連村、今称天神、」とあるように、近世には喜連(きれ)村の天神社や菅原道真を合祀して天神社・天満宮とよばれた。
明治43年(1910年)現社地へ東西神社・春日神社・天神社を合祀して式内楯原神社と社名が改められた。
明治以前の神宮寺は如願(によがん)寺で、絵馬堂の釣鐘には「摂津国住吉郡杭全庄喜連天神宮」の銘がある。例祭日は10月15日。
大阪市営地下鉄喜連瓜破駅下車、徒歩10分。


全興寺

全興寺は、大阪市平野区平野本町にある真言宗の寺院である。
野中山と号する。開基は聖徳太子で、野の中にこの薬師堂が建てられ野堂と呼ばれた。
ここから人が住み始め平野の町が次第に広がっていったと言われ、旧町名の平野野堂町の起源となっている。
本尊は聖徳太子自作といわれる薬師如来像で、本堂に上がる階段上の蟇股(かえるまた)にタコの彫刻があるため、蛸薬師と呼ばれる。
現在の本堂は、1576年坂上利治によって再建されたもので、1614年の大坂冬の陣では、徳川秀忠の陣所となった。
当寺には、真田幸村が樋ノ尻口地蔵堂に仕掛けた地雷によって飛来したという「首の地蔵尊」が安置されており、1月8日の初薬師と9月の観月会には、本尊とともに公開される。
また、杭全神社の奥の院と仰がれ、毎年7月14日には「みこし渡御」の神事が行われる。
JR大和路線平野駅から徒歩12分。


大念佛寺

大念佛寺は、大阪市平野区にある融通念佛宗の総本山である。
大源山諸仏護念院大念佛寺と号し、俗に亀鉦寺(かめがねでら)と称する。
融通念佛とは、一人の念仏がすべての人(一切人)におよび、ともどもに念仏を唱和する中に、阿弥陀如来の本願力と自分と一切人と念仏の功徳が、互いに融通して絶大な力になると教えるものである。
この地は、坂上氏の菩提所修楽寺別院であったが、1127年に開祖聖應大師良忍上人が鳥羽上皇の勅願により、念仏の根本道場を創建した。
本尊は、画像十一尊天得如来である。
現在の本堂は1938年の建立で、大阪府内で最大規模の木造建築物である。
寺宝に、菅原道真が、中国の毛詩(詩経)を写したとされる毛詩鄭箋残巻1巻(国宝)、良忍上人自筆の外題がある浄土論2巻や、後鳥羽上皇の鏡で鋳造した亀鉦などがある。
1月5月9月には、5400個の数珠を繋いだ大数珠くりが行われる。
JR大和路線平野駅から徒歩7分。参拝者用の駐車場がある。(Y.N)

万部おねり(平野のおねり)

「万部おねり」万部会菩薩来迎練供養は、聖聚来迎会と阿弥陀経万部会が融合された大念佛寺最大の伝統行事で、毎年5月1日から5日まで催される。
平安時代以降、極楽浄土への往生を願う信仰が人々に浸透し、阿弥陀仏や二十五菩薩といった聖聚の来迎を模した法会が多くの寺院で催されている。
万部おねりはそうした儀式の一つで、1349年に法明が始めたと伝えられ、当時来迎会と称された。
江戸時代中頃に法会に阿弥陀経の一万部読誦が加わり、行事全体を「万部法会」と呼ぶようになった。
行事では、本堂外側に架けられた橋の上を、踊躍念仏の大和禅門講の人々が渡り、献茶、献花、本尊の掛軸、御詠歌、導師、楽人、菩薩が本堂に入る。
本堂内では雅楽が奏される中、菩薩が造花を伝供する所作が行われ、参詣者が納めた経木が読み上げられる。
当寺の本尊である画像十一尊天得如来が立体化した姿として、参詣者は橋上や本堂の菩薩を見ることが出来る。(Y.N)




杭全神社

杭全神社は、大阪市平野区にある神社である。
当社は坂上田村麻呂の子、広野麿がこの付近の地を賜り、その子当道(とうどう)が862年に氏神として素戔嗚尊ほかを祀った(第一殿)のが最初といい、杭全荘の惣社として栄えた。
その後、熊野信仰が流行して1190年に熊野権現を勧請した。(第三殿)
さらに1321年、後醍醐天皇の勅命により、熊野三所権現を祀った。(第二殿)
神社名は、かつて牛頭天王社(ごずてんのうしゃ)あるいは熊野三所権現と呼ばれていたが、明治の神仏分離令で、寺院関係のものは長寶寺に移され、1870年に杭全神社と改称された。
第一殿は、春日大社本殿の移築で、第二、第三殿は、1513年に再建されたものである。
杭全神社連歌所は、室町時代に建てられたが、大坂冬の陣で焼失し、1708年に再建されたもので、1585年から明治初期まで連歌会が行われた。
参道西側には、くすの大樹があり、樹齢600年以上で、大阪府の天然記念物に指定されている。
年中行事では、1190年から伝わる4月13日の御田植神事と、「けんか祭」といわれる勇壮な夏祭りが知られている。
JR大和路線平野駅から徒歩7分。駐車場はないが、参道への駐車は可能である。



第3回街道(古道)歩き資料 狭山駅から平野駅 (旧)

1 菅生神社(すごうじんじゃ)

「延喜式」神名帳に載る丹比(たじひ)郡「菅生(スカフノ)神社」に比定される。現祭神は主神が天児屋根命・菅原道真で、配神は天照皇大神・素盞嗚尊・誉田別命・広国押武金日命。素盞嗚尊は八阪(やさか)神社(野田村、現堺市)、天照皇大神は天照大神宮(現堺市)を明治40年(1907年)に合祀した際の祭神。旧郷社。
奈良時代初期に、菅生朝臣(すごうのあそん)一族が本拠地に創建した。
「河内名所図会」によると祭神は天穂日命で、天満天神と称しており、土地の人が菅神降誕の地というのは誤りとする。例祭は615日、秋祭は811日、火焼は1115日。
近郷八ヵ村の本居神で宮寺を金剛院と号し真言律僧がこれを守っていた。祭神が天穂日命であるのは、おそらく菅原道真の祖神であることによる。鎌倉時代の木造道真像もあり、中世から天神信仰の影響を受け菅原道真が祭神になりつつあった。

2 丹比神社(たじひじんじゃ)

「延喜式」神名帳に載る丹比郡「丹比(タチヒノ)神社」に比定される。
祭神は火明命(ほあかりのみこと)、配祀として瑞歯別命(櫟本神社ほか一社)・大山祇命(日吉神社)・伊邪那岐命・伊邪那美命、凡河内倭女姫命(清水神社)・菅原道真公(菅原神社ほか二社)。旧村社。
当地一帯は反正天皇の名代(なしろ直轄民)の丹比部(たじひべ)が設置されていたといわれ、神社はその管理者の丹比連(たじひのむらじ)を祀ったとみられる。
のち宣化天皇の後裔丹比公(たじひきみ)(のちに真人)の支配地に変わったため、多治比真人(のち丹墀(たじひ)真人に改姓)一族の祖神を加えた。
近世には若松(わかまつ)天神と称し多治井村の産土神で、例祭は820日。
境内に「おかげ 太神宮」と記した文政13年(1830年)の灯籠(おかげ灯籠)や反正天皇産湯と伝える井戸がある。境内北辺からは平安時代の瓦が出土し、神宮寺跡とも考えられている。

3 堺市立みはら歴史博物館

『カタチ造りの達人』をグランドコンセプトに、「河内鋳物師」と「黒姫山古墳」を、メインテーマとした常設展示室、およびミニ展・特別展が開催できる特別展示室と、講演会・音楽会・映画会等の催しや、研修会・レセプション等の催しなど、文化・芸術にふれ、交流できるホールとの複合施設である。
(平成15330日に旧美原町立みはら歴史博物館として開館した。愛称のMCみはらは、Museum(博物館)と、Community(交流)をイメージしたもの。)

4 櫟本神社(いちいもとじんじゃ)

祭神は瑞歯別命(反正天皇)。旧地は住宅地の中であるが小祠がある。創立の時この地に櫟の大木があり、応神天皇の御孫瑞歯別皇子(反正天皇)が、この大樹を賞して「丹比の櫟本」と名づけたのに由来すると伝えられている。中世、この地に眞福寺と称する宮寺が存在したが、中世の兵乱で焼失したという。明治401223日丹比神社に相殿合祀された。

5 阿保神社(あおじんじゃ)

阿保の地名は、平安初期に平城天皇の皇子の阿保親王が干害の地に親王池などを作り善政をされた阿保親王住居跡に親王社が建てられ、やがて阿保村と呼ばれた。
阿保神社は、本殿に菅原道真公を祀り、本殿右側に阿保親王と厳島姫神(いつくしまひめがみ)(弁財天)を祀る。
本殿は、拝殿の奥にある覆屋の中にある一間社流造りで側面も一間の浜縁付で上に古風な蟇股がある。また木鼻には渦文が二つ、庇木鼻には古い竜の彫り物があり、江戸中期造りを残す建築である。
神社の創建は、大宰府で薨去された道真公のため、各地に天満宮が建立されたころと思われる。
祭神である道真公が、大宰府に行く際、伯母覚寿尼のいる土師寺に立ち寄られた時に、阿保の地で休息された由来で祀られたと伝えられている。
本殿の裏には、高さ16m、幹回り4.5m根株張6mにも及ぶ神木の楠がそびえ立っていて、市内名木にあげられている。

6 屯倉神社 (みやけじんじゃ)

開運松原六社参りの一つ。平安時代前半の天慶5年(942年)、菅原道真を祭神として創始されたと伝える。他に素戔嗚命、品陀別命も祀られている。
この地は、古墳時代天皇家の直轄とされた依綱屯倉の旧跡と伝え、屯倉(三宅)の名もこれによる。
道真を祀る以前は、土師氏(のちに菅原氏に改姓)の祖神である天穂日命を祀る穂日の社があった。
本殿には、等身大の菅原道真坐像が安置され、挿首形式の頭部は南北朝時代のものである。
近世に後補された胎内には、元和8(1622)に書かれた丹生講式や柿経の法華経8巻、舎利2粒が納められていた。
また、近世初頭の近衛信尋(のぶひろ)自画賛の渡唐天神像、後陽成天皇宸筆の菅原道真画像、近衛基煕の「南無天満大自在天神」名号など道真に関わる伝承品も多い。
拝殿前には、穂日の社時代、道真は九州に左遷の折、同社に立ち寄り座したという石が残る。「神形石」と呼ばれ、妻屋氏が、文久2年(1862年)に標石を建立している。
他にも、南北朝時代の阿弥陀三尊画像や弘法大師像、江戸時代に皇室で用いられていた草履「おめぶと」などがある。
西方寺に移されている平安時代後期の十一面観音像は、同社の神宮寺であった梅松院(現社務所の地)の本尊であった。
本殿北側には、同じく三宅に鎮座した延喜式内社の酒屋神社を合祀している。
境内の枝垂れ梅が有名。

7 高野大橋(こうやおおはし)

旧高野大橋は、現橋より200mほど上流側で、現在の守口市本町と大阪狭山市茱萸木を結ぶ「中高野街道」が大和川をわたるところに架けられていた。
明治6年(1873年)に植田橋として架けられた私設橋が当初の架設であると思われ、明治初頭には、橋名が確定していなかったようであるが、大正年間にはすでに高野大橋と呼ばれていた。
昭和29(1954)5月府道平野守口線の整備に伴い橋は近代化され、現在の位置に新しくかけられたが、新橋の架設後も中高野街道筋の延長線上には、旧高野大橋の橋杭が残り、昔日の面影を偲ばせていた。

8 式内楯原神社(しきないたてはらじんじゃ)

「延喜式」神名帳に載る摂津国住吉郡の同名社に比定される。旧村社。祭神は武甕槌大神・菅原道真公・大国主大神・素盞嗚尊・十種神宝大神。社伝によれば、崇神天皇六年、当地の支配者が武甕槌大神を「楯之御前社」に鎮祀したことに始まる。
近世には喜連(きれ)村の天神社や菅原道真を合祀して天神社・天満宮とよばれた。明治43年(1910年)現社地へ東西神社・春日神社・天神社を合祀して式内楯原神社と号した。明治以前の神宮寺は如願(によがん)寺で、絵馬堂の釣鐘には「摂津国住吉郡杭全庄喜連天神宮」の銘がある。例祭日は1015日。

9 全興寺(ぜんこうじ)

真言宗の寺院で、野中山と号する。開基は聖徳太子で、野の中にこの薬師堂が建てられ野堂と呼ばれた。
ここから人が住み始め平野の町が次第に広がっていったと言われ、旧町名の平野野堂町の起源となっている。
本尊は聖徳太子自作といわれる薬師如来像で、本堂に上がる階段上の蟇股(かえるまた)にタコの彫刻があるため、蛸薬師と呼ばれる。
現在の本堂は、1576年坂上利治によって再建されたもので、1614年の大坂冬の陣では、徳川秀忠の陣所となった。
当寺には、真田幸村が樋之尻口の地蔵堂に仕掛けた地雷によって飛来したという「首の地蔵尊」が安置されており、18日の初薬師と9月の観月会には、本尊とともに公開される。
また、杭全神社の奥の院と仰がれ、毎年714日には「みこし渡御」の神事が行われる。

10 長寶寺(ちょうほうじ)

王舎山長生院長寶寺といい、高野山真言宗の寺院である。
開基は、桓武天皇の妃で坂上田村麻呂の娘春子で、桓武天皇亡きあと慈心尼となり、大同年間(806-809)に尼寺の本寺を建て、天皇の冥福を祈った。
本尊の十一面観音像は、坂上田村麻呂の守護仏で、春日作と伝わる。
のちに後醍醐天皇が、吉野に皇居を移す時、当寺を仮皇居として、「王舎山」の山号が授与された。
寺の堂宇は、元弘の乱(1331年)、建武元和の兵火で焼失し、現在の本堂は天保年間(1830-44)に再建されたものである。
寺宝の絹本着色「仏涅槃図」、京都東山金光寺の鐘であった「銅鐘」は、ともに国の重要文化財に指定され、大阪市立美術館に寄託されている。
毎年518日には秘仏の十一面観音像、閻魔大王木像が開帳され、「えんま王の御判」を押捺する法会がある。
杭全神社との由縁から、毎年714日の夏祭りには、「みこし渡御」の神事が行われている。

11 杭全神社(くまたじんじゃ)

当社は坂上田村麻呂の子、広野麿がこの付近の地を賜り、その子当道(とうどう)が862年に氏神として素戔嗚尊ほかを祀った(第一殿)のが最初といい、杭全荘の惣社として栄えた。
その後、熊野信仰が流行して1190年に熊野権現を勧請した。(第三殿)
さらに1321年、後醍醐天皇の勅命により、熊野三所権現を祀った。(第二殿)
神社名は、かつて牛頭天王社(ごずてんのうしゃ)あるいは熊野三所権現と呼ばれていたが、明治の神仏分離令で、寺院関係のものは長寶寺に移され、1870年に杭全神社と改称された。
第一殿は、春日大社本殿の移築で、第二、第三殿は、1513年に再建されたものである。
杭全神社連歌所は、室町時代に建てられたが、大坂冬の陣で焼失し、1708年に再建されたもので、1585年から明治初期まで連歌会が行われた。
参道西側には、くすの大樹があり、樹齢600年以上で、大阪府の天然記念物に指定されている。
年中行事では、1190年から伝わる413日の御田植神事と、「けんか祭」といわれる勇壮な夏祭りが知られている。


5回街道歩き資料(No.3

1124日(木)狭山駅からJR平野駅へ
出  発  橋本駅 734分(金剛駅で各停に乗換)列車後部車両が良い
到着予定  橋本駅 430分頃

中高野街道
大阪には、古くから高野山に向かう3本の街道があった。
その中ほどに位置する「中高野街道」は、大阪から南にのびて松原市を経て大阪狭山市で下高野街道、河内長野市で西高野街道と合流していた。

菅生神社(すごうじんじゃ)
奈良時代初期に、菅生朝臣(すごうのあそん)一族が本拠地に創建した。
中世には、菅原道真を祀るようになり、菅生天満宮ないし天神社と称した。
現祭神は主神が天児屋根命・菅原道真である。
本殿は、一間社春日造で正面に軒唐破風をつけている。(堺市有形文化財)

阿保神社(あおじんじゃ)・海泉池(かいずみいけ)
阿保の地名は、平安初期に平城天皇の皇子の阿保親王住居跡に親王社が建てられ、やがて阿保村と呼ばれた。
本殿に菅原道真公を祀り、本殿右側に阿保親王と厳島姫神、弁財天を祀る。
創建は、道真公のため各地に天満宮が建立された頃(10世紀)といわれる。
神社南側には、「阿保の地と海泉池(かいずみいけ)」の石碑が建てられている。
海泉池は、丹比野(たじひの)の谷筋を堰き止めた溜池で、海泉池の名称は、地底に湧水があり、大きい池を海にたとえ、その池を誉めたたえた名である。

屯倉神社(みやけじんじゃ)
開運松原六社参りの一つ。平安時代前半の天慶5年(942年)、菅原道真を祭神として創始されたと伝える。他に須佐之男命(すさのおのみこと)、品陀別命(ほんだわけのみこと応神天皇)も祀られている。
本殿には、等身大の菅原道真坐像が安置されている。
例祭は、101日で夏祭りが725日に行われる。境内の枝垂れ梅が有名。

瓜破天神社(うりわりてんじんしゃ)
祭神は、素戔嗚命、菅原道真、平維盛である。元文元年(1736年)に書かれた「船戸録」によると、大化年中(645-650)に、丹比(たじひ)郡の人で日本法相宗の祖 船氏道昭が三密の教法観念のとき、天神の像が現れた。
道昭は朝廷に上申したところ、方八丁の宮地を賜り、社殿を造営し像を祀り、西の宮又方八丁の宮と称したのが当社の起源とされている。

高野大橋(こうやおおはし)
旧高野大橋は、現橋より200mほど上流側で、現在の守口市本町と大阪狭山市茱萸木を結ぶ「中高野街道」が大和川をわたるところに架けられていた。
昭和29(1954)5月府道平野守口線の整備に伴い橋は近代化され、現在の位置に新しくかけられたが、新橋の架設後も中高野街道筋の延長線上には、旧高野大橋の橋杭が残り、昔日の面影を偲ばせていた。

全興寺(ぜんこうじ)
本尊は聖徳太子自作といわれる薬師如来像で、本堂に上がる階段上の蟇股(かえるまた)にタコの彫刻があるため、蛸薬師と呼ばれる。
当寺には、真田幸村が樋ノ尻口地蔵堂に仕掛けた地雷によって飛来したという「首の地蔵尊」が安置されており、18日の初薬師と9月の観月会には、本尊とともに公開される。

大念佛寺(だいねんぶつじ)
大念佛寺は、大阪市平野区にある融通念佛宗の総本山である。
大源山諸仏護念院大念佛寺と号し、俗に亀鉦寺(かめがねでら)と称する。
融通念佛とは、一人の念仏がすべての人(一切人)におよび、ともどもに念仏を唱和する中に、阿弥陀如来の本願力と自分と一切人と念仏の功徳が、互いに融通して絶大な力になると教えるものである。
この地は、坂上氏の菩提所修楽寺別院であったが、1127年に開祖聖應大師良忍上人が鳥羽上皇の勅願により、念仏の根本道場を創建した。
本尊は、画像十一尊天得如来である。
現在の本堂は1938年の建立で、大阪府内で最大規模の木造建築物である。
寺宝に、菅原道真が、中国の毛詩(詩経)を写したとされる毛詩鄭箋残巻1巻(国宝)、良忍上人自筆の外題がある浄土論2巻や、後鳥羽上皇の鏡で鋳造した亀鉦などがある。
1月5月9月には、5400個の数珠を繋いだ大数珠くりが行われる。




(旧資料)




(当初計画)

街道歩きタイムテーブル
 
4km/1H
距離 時間 休憩 計画時刻 当日
Km 到着 出発 到着 出発
狭山駅 8:45 9:00 トイレ
2.1 32
1 菅生神社 10 9:32 9:42
2.2 33
2 丹比神社 10 10:15 10:25
0.75 11
3 MCみはら 15 10:35 10:45 トイレ
0.85 13
4 檪本神社 10:58 11:00
3.6 54
松原中央公園 40 11:54 12:34 トイレ
1.2 18
5 阿保神社 10 12:52 13:02
1.0 15
6 屯倉神社 10 13:17 13:27
1.5 23
7 高野大橋 13:50 13:50
1.8 27
8 式内楯原神社 10 14:17 14:27
1.5 23
9 全興寺 10 14:50 15:00
0.35 5
10 長寶寺 10 15:05 15:15
0.65 10
11 杭全神社 20 15:25 15:45
0.4 6
JR平野駅 15:51 トイレ
歩行合計 17.9 270 145
全体時間 270+145=415分 6時間55分
土曜時刻 平野発 15:36 15:51 16:05
新今宮発 15:47 16:02 16:26
橋本着 16:36 16:50 17:14
平日時刻 平野発 15:36 15:51 16:05
新今宮発 15:48 16:02 16:26
橋本着 16:36 16:51 17:14
土曜平野駅発 14:06 14:21 14:36 14:51
15:06 15:21 15:36 15:51
16:05 16:20 16:26 16:35 16:50
平日平野駅発 14:06 14:21 14:36 14:51
15:06 15:21 15:36 15:51
16:05 16:20 16:26 16:35 16:50




 


平野郷ひらのごう

摂津国住吉郡の在郷町(現,大阪市平野区)。中世には平等院領杭全荘(くまたのしよう)などがあったが,戦国期に環濠都市として発展,七名家といわれる末吉,土橋(つちはし),三上,成安,辻葩(つじはな)らが年寄として支配した。自治意識が強く,三好氏の代官本庄加賀守の排斥や,織田信長にも堺と連合して抵抗し,その代官蜂屋頼隆の下代排斥を行った。織田政権下では年貢定金納,地下請(じげうけ),市津料(ししんりよう)・陣夫(じんぷ)免除,徳政免除などの特権を認められ,豊臣前期にもその多くが継続された。1594年(文禄3)太閤検地で高480585升となる。郷内は本郷7町で,惣年寄5名と各町年寄が行政を担った。また末吉孫左衛門のように,江戸幕府の代官を務め朱印船貿易を行う豪商を出した。領有関係は織田・豊臣の直轄領,秀吉夫人(高台院)領,徳川直轄領をへて,柳沢吉保領となって以後,一時,幕領になったが,松平,本多,松平,土井と譜代大名領が続いた。

 平野郷は大城下町大坂の建設でかなりの住民が移住したが,在郷町として発展した。大坂南部綿作地帯の中心で,17世紀後半には木綿市がたち,竹屋など関東へ繰綿(くりわた)を数百駄も送る商人もでている。戸口は古軒役(こけんやく)552軒であるが,1704年(宝永1)の戸数2543,人口9272人であり,0610686人をピークに停滞する。名産は木綿で,05年綿作率は田方51%,畠方80.7%,このころの木綿関係商工業者は繰屋166軒をはじめ286軒であり,紡車,つむ,綿繰機の道具がつくられている。酒造も1697年(元禄10)造石株(ぞうこくかぶ)561石余があり,多くの商工業をもっていた。また上層民を中心に杭全神社連歌所にみられる文芸活動があり,1717年(享保2)には惣年寄土橋友直らが郷学の含翠堂(がんすいどう)を創立し儒学による教化運動を行った。明治期には綿作は衰退するが平野紡績などができ,大阪南郊の経済的中心となった。1925年大阪市に編入される。
[脇田 修]

 巽神社

旧巽村

清見原神社 

天武天皇の飛鳥浄御原からの社名と伝える

 

布施戎神社

もとは都留弥神社の地

 

足代(あじろ)安産地蔵

もとは聖源寺(明治5年廃寺)に祀られていた。

 

暗峠奈良街道交差点

奈良街道(暗峠越)

ならかいどう

 

大阪と奈良を結ぶ街道はこのほかに幾つかあり、大阪から大和川の旧河道に沿って南東に行き、八尾(やお)市・柏原(かしわら)市・奈良県北葛城(きたかつらぎ)郡王寺(おうじ)町を経て奈良市に至る道も奈良街道とよぶが、生駒山地中、標高四五六メートルの暗(くらがり)峠(東大阪市と奈良県生駒市の境)を越え、諸道中最短距離で大阪市と奈良市とを結ぶこの街道は、明治時代までは人馬の往来が盛んであった。近世段階のルートは、大坂三郷玉造(たまつくり)各町(現東区)に接する中道(なかみち)村(現東成区)の二軒茶屋(にけんぢやや)を街道口とし(東成区の→二軒茶屋跡)、大今里(おおいまざと)村・深江(ふかえ)村(現東成区)、新喜多(しぎた)新田・御厨(みくりや)村・新家(しんけ)村・菱江(ひしえ)村・松原(まつばら)村・水走(みずはい)村・豊浦(とようら)村(現東大阪市)と東進、暗峠を越えて大和に入った。大和側の起点は奈良で、二軒茶屋―奈良間八里八町という。大和側では大坂街道とよんだ。なお大坂の起点を八軒家(はちけんや)(現東区)とする説もあり(枚方市史)、近代には高麗(こうらい)橋(現東区)が起点とされた。松原にある道標に「暗越奈良街道 距高麗橋元標壱里」とある。

古代では「古事記」雄略天皇段や「万葉集」巻六の一首に日下の直越(くさかのただごえ)道のことがみえ、「古事記伝」以来それを暗峠越にあてる説があるが、「古事記」や「万葉集」では峠道から河内の平野や難波の海が展望できるように叙述されているのに、暗峠道からはそれらは観望しがたいとして反対する説もある。中世には「中臣祐定記」嘉禎二年(一二三六)一〇月九日条に「注進 御供用途可令運上路々事」として、「大板(坂カ)路・亀瀬路・信貴路・生馬越路・上津鳥見路」があげられているが、うち「生馬越路」は暗峠越とみてよかろう。近世にはこの街道は大坂の繁栄とともに栄えた。井原西鶴の「世間胸算用」には、浪人四人がくらがり峠で大坂より帰る人を待伏せして追剥をし、奪ったものをあけてみると数の子であったという話がある(奈良の庭竈)。また「西鶴名残の友」には、玉造稲荷(現東区)の社地にたつと「東にかづらき山、あきしのゝ里、高安につゞきてくらがり峠、平岡明神も手ちかふ見えわたりぬ」とある。松尾芭蕉は元禄七年(一六九四)九月九日に奈良を発ち、その暮に大坂についたことを弟子の杉風にあてた書簡に記しているが、このときの作、

菊の香にくらがり登る節句かな

によって、暗峠越の道をとったことがわかる。寛政一一年(一七九九)一二月街道の側にこの句碑が建てられたことが「河内名所図会」にみえる。いまは東大阪市豊浦町勧成(かんじよう)院境内に移築されている。

街道の交通頻繁のため、明暦元年(一六五五)松原村に宿駅が設けられ、松原・水走両村が人馬を供給したが、寛文一〇年(一六七〇)末に豊浦・額田(ぬかた)両村(現東大阪市)も加わり、松原宿は四ヵ村の構成となった。元禄一四年の額田村明細帳(額田家文書)によると、人足五〇人・馬五〇匹を備えていた。峠には大和郡山藩の本陣や宿屋・茶店が軒を並べた。しかし明治二五年(一八九二)に国鉄関西本線の前身の大阪鉄道が、大正三年(一九一四)に近鉄奈良線の前身の大軌鉄道が開通してからはしだいに繁栄を奪われ、宿屋も茶店も退転し、明治初年に二〇戸近くあった民家も数戸となり、石畳の道や道標・石碑がわずかに昔の賑いをしのばせている。また信貴生駒スカイラインが峠の上を立体交差でよぎっている。暗峠の名は、松・杉などの大木が茂り、昼なお暗いほどであったことによるとする説、生駒山の山続きの小椋(おぐら)山の下にあるので椋が根峠といったことによるとする説(河内名所図会)、鞍ヶ嶺の意とする説などがある。峠道の大木は豊臣秀長の郡山築城の際に伐採されたという(同図会)。なお現在国道一七〇号(東高野街道)との交差点以東の当街道は国道三〇八号となっている。

 

念唱寺

寺の前に聖源寺ゆかりの碑がある。

 

函館戦争(五稜郭の戦い)での官軍の大砲と砲弾

 

菅公腰掛石

大宰府へ配流される途中で、菅原道真は、竜田越奈良街道曽井の新家天満宮、紀州街道沿いの船待神社でも休憩している。

 

諏訪神社

 

新田橋

長瀬川にかけられた橋。旧大和川の本流で、すぐ下流で寝屋川に合流する。

 

阿遅速雄神社

阿遅速雄神社

あちはやおじんじや

 

[現]鶴見区放出東三丁目 水剣

第二寝屋川に長瀬(ながせ)川が合流する地点の北側に鎮座。阿遅高日子根神を主神とし、現在は草薙剣の分霊正一位八剣大明神を配祀する。往古は八剣(やつるぎ)大明神と称した。旧郷社。「延喜式」神名帳に載る東生(ひがしなり)郡の同名社に比定される。社伝によれば、天智天皇七年(六六八)に熱田(あつた)神宮(現名古屋市熱田区)の神剣草薙剣を盗みだした新羅の沙門道行は、当地付近で暴風雨に遭遇したことから、神罰をおそれて神剣を投げすてた。この神剣は一時当社に奉安され、やがて皇居に移送されたが、朱鳥元年(六八六)熱田神宮へ返納されたという。草薙剣の盗難事件については「日本書紀」「扶桑略記」「熱田宮旧記」などに散見するが、当社の祭神が出雲系の神であり、現社地付近の往古の地勢を勘案すると、その由緒は放出の地名説話に帰結すると思われる。近世には放出村の産土神。例祭日の一〇月二二日には熱田神宮より代表者が参拝し、同宮の例祭日六月五日には当社の代表が参拝する。境内の北東隅に菖蒲池がある。往時は七月九日の夏祭、現在は五月五日に菖蒲刈神事を行う。災難除けの菖蒲と伝える。境内の細砂は脚の病気に効験ありとする。境内には相殿社・大将軍社・稲荷社・護国社があり、樟の大樹は白竜大権現を祀る神木で、遠方からも望見できる。府の天然記念物。

 

正因寺

 

鶴見緑地

 

八幡大神宮(不焼宮)

 

護念寺(世木御堂)

大塩平八郎の門弟の橋本忠兵衛(ほおずき忠兵衛)の墓がある。

護念寺

ごねんじ

 

[現]守口市高瀬町五丁目

世木(せぎ)御堂ともよばれる。山門向いの道路に「御堂前橋」の石碑が建ち、かつては寺の前を高瀬(たかせ)川が流れていた。真宗大谷派、本尊阿弥陀如来。寺伝によると、本願寺八世蓮如の子で加賀国若松本泉(わかまつほんせん)寺(現石川県金沢市)の四世実悟は、永禄年中(一五五八―七〇)河内地方で布教、土居(どい)坊(現清沢寺)を創建後、加賀国一向一揆で享禄四年(一五三一)焼失した本泉寺を世木に復興したという。「大谷一流諸家分脈系図」の実悟の条に「永禄中創河州茨田郡土居坊、又創同郡世木之坊」とあり、本泉寺復興とは「世木之坊」創建のこととみられる。本泉寺は実悟の子で五世教恵のとき大坂天満(てんま)(現北区)に移転、その跡地に支坊として建立されたのが護念寺で、護念寺は本泉寺の懸所とされた。境内墓地に永禄六年の五輪塔、大塩平八郎の乱の参加者の墓碑がある。また本堂東側に、行基が造った高瀬大橋(行基年譜)の橋桁石と伝える石と千林(せんばやし)(現旭区)の道端にあったというキリシタン灯籠一基が置かれている。

 

 

高瀬川跡

 

高瀬神社

 

 

 

 

東大阪[市]

ひがしおおさか

大阪府東部,大阪市の東に隣接する市。1967年布施市(1937市制),河内(かわち)市(1955市制),枚岡(ひらおか)市(1955市制)が合体,改称。人口5095332010)。大阪~奈良間の最短コースとして知られた暗越(くらがりごえ)奈良街道と東高野街道の交点にあたり,古くから交通の要衝であった。西部の布施,中部の河内は旧大和川が北流して淀川に合流していたため,低湿地が多かったが,1704年(宝永1)大和川の付替工事によって新田開発が進み,綿作が盛んになった。明治中期以降は,綿に代わって野菜,花卉が栽培された。1914年に大阪電気軌道(現,近鉄)奈良線が,24年に同大阪線が開通して以後,大阪市寄りの布施を中心に商工業が発達し,都市化が始まった。一方,東部の枚岡では生駒山麓の渓谷で近世以降水車を利用して胡粉(ごふん)製造,搾油,石加工などが行われた。また古くからの伸線工業(鉄線,針金など)は,現在は電力を使用し,全国的に高いシェアをもっている。そのほか,撚糸,鋳物,作業工具などの地場産業に加え,1930年代ころから金属,機械,化学を中心とした工場も増加している。中央環状線,外環状線,築港枚岡線,近畿自動車道などの道路が市域を通るため,近年,沿線にトラックターミナル,倉庫,卸売施設をもつ東大阪流通センターが造成され,機械卸業団地,紙・文具流通センターなどがセンター内に立地した。

 市域には縄文時代の日下貝塚,弥生時代の瓜生堂(うりゆうどう)遺跡,ほとんどが円墳からなる山畑古墳群などがあり,南北に走る東高野街道沿いには条里制の地割りがみられる。また河内国一宮の枚岡神社や式内社の石切剣箭(いしきりつるぎや)神社があり,市内から出土した遺物を展示する市立郷土博物館もある。
[秋山 道雄]

 

法明寺

ほうみようじ

 

[現]東成区深江南三丁目

旧深江(ふかえ)集落の南西部にあり、浄土宗、山号深江山、本尊阿弥陀如来。寺伝によると、文保二年(一三一八)法明房良尊が開創したという。法明は融通念仏の大念仏(だいねんぶつ)寺(現平野区)中興の祖としてしられ(融通念仏三祖略伝)、二五歳で出家後高野山・比叡山で修学、のち当寺を建立したと伝える。また彼は深江の出身で、晩年の正平二年(一三四七)当寺に隠居したといい、現平野区にも法明隠居寺の伝をもつ融通念仏宗法明寺がある。法明を開基とするところから、当初は大念仏寺と深く関係があったと推察できるが史料を欠く。ただ境内には法明と同時代の暦応二年(一三三九)銘の石造層塔があり、施主が「念仏講衆等」となっているのが注目される。寺は戦国期より荒廃し、慶安元年(一六四八)浄土宗の僧善誉夢白が再建、寛文三年(一六六三)京都知恩院末となった。境内には前記層塔と並んで弘長二年(一二六二)銘の塔もある。二基の塔は雁(がん)塚といわれ、二羽の雁夫婦を葬ったと伝える。また龕塚(摂津名所図会)とも書き、法明没後その龕を埋めた塚という伝承もある。

 

深江村

ふかえむら

 

[現]東成区深江北(ふかえきた)一―三丁目・深江南(ふかえみなみ)一―三丁目

左専道(させんどう)村(現城東区)の南にあり、東は河内国若江郡高井田(たかいだ)村(現東大阪市)、南は同渋川郡東足代(ひがしあじろ)村(現同上)。東端を守口(もりぐち)町(現守口市)方面への道が、南端を奈良街道(暗峠越)が通り、村の南東隅で両道が交差。この交差地付近に新家(しんけ)(通称深江新家)と称する小集落があり、「摂津志」には「新家」の村名がみえ、「深江及河州渋川郡足代両村出戸」と注記。宝暦八年(一七五八)の深江村検地帳(川田家文書)には、延宝検地分として新家の一八戸がみえるから、この頃までに集落の形成が進んでいたことがわかる。

付近は「万葉集」巻三に歌われる「笠縫の島」の地で、「延喜式」(内匠寮)に伊勢斎宮の菅蓋の材料を供給したとある摂津国笠縫氏の居住地といわれ、現在、深江稲荷神社境内が摂津笠縫邑跡として府の史跡に指定されている。「古事記伝」に「此地など今は島に非れども、古は凡て此郡内など、川々多く流れ合て広く沼にて海の如く、舟の往来て、まことに島にてありしなり」とされるように、古代の深江一帯は玉造(たまつくり)江の一部をなす沼沢地が広がるなかに、居住可能な高所があるという地勢であったのであろう。深江村の中心集落地の小字が菅島(すげじま)・島(しま)ノ岸(きし)・水鶏田(くいなだ)・宮(みや)ノ浦(うら)であることも、こうした地勢を示すものと思われ、江戸時代にも一帯は低潤な土地柄で、度々洪水に見舞われている(川田家文書・幸田家文書)。中世は新開(しんかい)庄に含まれたと考えられる。

慶長九年(一六〇四)後八月二二日の木下浄英黒印状(足守木下家文書)に「かけのこほりのうち」として「ふ可ゑむら」がみえ、同一〇年の摂津国絵図には東成郡「深江村」が記される。浄英黒印状によると「ふ可ゑむら」五七四石余は豊臣秀吉の室北政所(高台院)領で、うち二〇〇石は侍女孝蔵主分。寛永元年(一六二四)高台院の死去に伴い幕府領となる。幕末には京都所司代領(役知)。延宝五年(一六七七)の深江村検地帳(川田家文書)によると、文禄検地の高六四九石余・反別四六町余、延宝検地の結果は高七六〇石余・反別五九町余。慶応四年(一八六八)の家数人別奥寄帳(同文書)によると、新田一二石余、他村からの入作一〇六石、家数一二二(高持三五・無高八〇・寺五・医師一・無高尼一)・人数五四八。

当村では大正頃まで菅作りが盛んで、古くから菅笠の産地として知られていた。その歴史は先述の笠縫氏と不可分の関係にあり、伊勢神宮の式年遷宮に用いる菅笠・菅翳、天皇即位式の大嘗祭に用いる菅蓋や円座は代々深江から調進されたという。中世には深江の菅笠座があり、堺、天王寺(現天王寺区)、奈良・京都を中心として畿内一円に専売権を獲得していた。菅笠座には殿下渡領の本座と二条家領の新座があったが、明応五年(一四九六)頃には、両座の権益は一問屋に握られていた(「和長卿記」内閣文庫蔵、大乗院寺社雑事記)。近世になると深江の菅笠は旅行用や作業用などの一般庶民向け特産品としてさらに広まった。「摂津名所図会」にも「名産深江菅笠 深江村及び隣村多く莎草をもつてこれを造る、只深江笠と称して名産とす」とみえる。隣接する河内の農村でも笠作りが盛んで、足代笠ともよんだが、一般にはこれらをも含めて深江笠あるいは難波笠と称した。とくに伊勢参詣に向かう旅人たちは、奈良街道沿いに位置する深江村で菅笠を買求めるのが習慣であったといわれる。一方、儀式用の製造も続いており、大嘗祭のための調進や讃岐高松藩の御菅御用を代々の庄屋が担当していたといい、「玉勝間」も「此所、菅田多く有て、其菅他所より勝れたり、里人むかしより笠をぬふことを業として名高く、童謡にもうたへり、今も里長幸田喜右衛門といふ者の家より、御即位のをりは、内裏へ菅を献る、又讃岐の殿へも、円座の料の菅をまゐらすとぞ」と記す。

字角田の光栄(かくだのこうえい)寺、字宮(みや)ノ浦(うら)の長龍(ちようりゆう)寺は、いずれも真宗大谷派。長龍寺北方の真行(しんぎよう)寺は浄土真宗本願寺派。深江稲荷神社の祭神は宇賀御魂神・下照姫命ほか四神。縁起によれば、垂仁天皇の代に笠縫氏の祖がこの地に居を定め、下照姫命を奉祀したことを起源とし、その後和銅年間(七〇八―七一五)に山城国稲荷社(現京都市伏見区)の分霊を勧請したと伝える。また一説には元亀―天正(一五七〇―九二)の頃、大坂玉造稲荷神社(現東区)が兵火にかかり、当地に避難してきたことが起源ともいう。当地の産土神で、かつては村内に社家と称する三六戸からなる宮座があったという。境内には笠縫部の祖を祀る笠縫神社と、御食津(みけつ)神社がある。

 

 

 

東足代村

ひがしあじろむら

 

[現]東大阪市足代(あじろ)一―三丁目・足代北(あじろきた)一―二丁目・足代新(あじろしん)町一―二丁目・東足代

渋川郡に属し、東は荒川(あらかわ)村。北の村境を暗(くらがり)峠越奈良街道が東西に通り、村域北東部で十三(じゆうさん)街道が分岐して南東に向かう。条里制の坪数を表す一ノ坪・戸(十)ノ坪・十六・虫坪(むしつぼ)などの小字名が残る。「四天王寺御手印縁起」の寺領書上のなかに、渋川郡「足代地弐万参仟漆佰陸拾捌代」とあり、八条梓里三六坪・同里外十二坪があげられる。

慶長一七年(一六一二)の村高五八四石余(同年「検地帳写」塩川家文書)。正保郷帳の写とみられる河内国一国村高控帳・延宝年間(一六七三―八一)河内国支配帳ともに五八三石余、幕府領。天和元年(一六八一)の河州各郡御給人村高付帳でも同高で京都所司代戸田忠昌領。元文二年(一七三七)河内国高帳では五六八石余、幕府領。宝暦一〇年(一七六〇)には幕府領(瀬川家文書)、寛政六年(一七九四)には幕府領で高槻藩預地となる(「高槻永井氏預り所村々高付帳」中村家文書)。幕末には幕府領。東足代村書上(行松家文書)によると、文化五年(一八〇八)の家数六三で、うち本村二四、枝郷北(きた)ノ所(ところ)一七、街道筋にできた新家二二。寺は蓮信(れんしん)寺(現真宗大谷派)・法華宗聖源(せいげん)寺・禅宗東禅寺・同直指庵・同弥勒寺が記される。農間余業は菅笠稼(岩崎太郎家文書)。足代の村名は当地一帯特産の菅笠(網代)から生じたともいう。当村の塩川氏は、粉河寺縁起(粉河寺蔵)に「河内国渋河郡馬馳市有佐太夫」、また「元亨釈書」巻二九に「河内渋川郡有佐大夫者」、塩川家蔵の粉河寺縁起に「河内国しふかハの郡に長者有りけり」とみえる渋川郡長者にあたると伝え、当地に粉河地(こかわち)の小字名がある。しかし粉河寺縁起の一本には讃良(さらら)郡の長者と記される。

 


平野郷 ひらのごう

摂津国住吉郡の在郷町(現,大阪市平野区)。中世には平等院領杭全荘(くまたのしよう)などがあったが,戦国期に環濠都市として発展,七名家といわれる末吉,土橋(つちはし),三上,成安,辻葩(つじはな)らが年寄として支配した。自治意識が強く,三好氏の代官本庄加賀守の排斥や,織田信長にも堺と連合して抵抗し,その代官蜂屋頼隆の下代排斥を行った。織田政権下では年貢定金納,地下請(じげうけ),市津料(ししんりよう)・陣夫(じんぷ)免除,徳政免除などの特権を認められ,豊臣前期にもその多くが継続された。1594年(文禄3)太閤検地で高480585升となる。郷内は本郷7町で,惣年寄5名と各町年寄が行政を担った。また末吉孫左衛門のように,江戸幕府の代官を務め朱印船貿易を行う豪商を出した。領有関係は織田・豊臣の直轄領,秀吉夫人(高台院)領,徳川直轄領をへて,柳沢吉保領となって以後,一時,幕領になったが,松平,本多,松平,土井と譜代大名領が続いた。

 平野郷は大城下町大坂の建設でかなりの住民が移住したが,在郷町として発展した。大坂南部綿作地帯の中心で,17世紀後半には木綿市がたち,竹屋など関東へ繰綿(くりわた)を数百駄も送る商人もでている。戸口は古軒役(こけんやく)552軒であるが,1704年(宝永1)の戸数2543,人口9272人であり,0610686人をピークに停滞する。名産は木綿で,05年綿作率は田方51%,畠方80.7%,このころの木綿関係商工業者は繰屋166軒をはじめ286軒であり,紡車,つむ,綿繰機の道具がつくられている。酒造も1697年(元禄10)造石株(ぞうこくかぶ)561石余があり,多くの商工業をもっていた。また上層民を中心に杭全神社連歌所にみられる文芸活動があり,1717年(享保2)には惣年寄土橋友直らが郷学の含翠堂(がんすいどう)を創立し儒学による教化運動を行った。明治期には綿作は衰退するが平野紡績などができ,大阪南郊の経済的中心となった。1925年大阪市に編入される。
[脇田 修]

東大阪[市]ひがしおおさか

大阪府東部,大阪市の東に隣接する市。1967年布施市(1937市制),河内(かわち)市(1955市制),枚岡(ひらおか)市(1955市制)が合体,改称。人口5095332010)。大阪~奈良間の最短コースとして知られた暗越(くらがりごえ)奈良街道と東高野街道の交点にあたり,古くから交通の要衝であった。西部の布施,中部の河内は旧大和川が北流して淀川に合流していたため,低湿地が多かったが,1704年(宝永1)大和川の付替工事によって新田開発が進み,綿作が盛んになった。明治中期以降は,綿に代わって野菜,花卉が栽培された。1914年に大阪電気軌道(現,近鉄)奈良線が,24年に同大阪線が開通して以後,大阪市寄りの布施を中心に商工業が発達し,都市化が始まった。一方,東部の枚岡では生駒山麓の渓谷で近世以降水車を利用して胡粉(ごふん)製造,搾油,石加工などが行われた。また古くからの伸線工業(鉄線,針金など)は,現在は電力を使用し,全国的に高いシェアをもっている。そのほか,撚糸,鋳物,作業工具などの地場産業に加え,1930年代ころから金属,機械,化学を中心とした工場も増加している。中央環状線,外環状線,築港枚岡線,近畿自動車道などの道路が市域を通るため,近年,沿線にトラックターミナル,倉庫,卸売施設をもつ東大阪流通センターが造成され,機械卸業団地,紙・文具流通センターなどがセンター内に立地した。

 市域には縄文時代の日下貝塚,弥生時代の瓜生堂(うりゆうどう)遺跡,ほとんどが円墳からなる山畑古墳群などがあり,南北に走る東高野街道沿いには条里制の地割りがみられる。また河内国一宮の枚岡神社や式内社の石切剣箭(いしきりつるぎや)神社があり,市内から出土した遺物を展示する市立郷土博物館もある。
[秋山 道雄]

 法明寺 ほうみようじ

[現]東成区深江南三丁目

旧深江(ふかえ)集落の南西部にあり、浄土宗、山号深江山、本尊阿弥陀如来。寺伝によると、文保二年(一三一八)法明房良尊が開創したという。法明は融通念仏の大念仏(だいねんぶつ)寺(現平野区)中興の祖としてしられ(融通念仏三祖略伝)、二五歳で出家後高野山・比叡山で修学、のち当寺を建立したと伝える。また彼は深江の出身で、晩年の正平二年(一三四七)当寺に隠居したといい、現平野区にも法明隠居寺の伝をもつ融通念仏宗法明寺がある。法明を開基とするところから、当初は大念仏寺と深く関係があったと推察できるが史料を欠く。ただ境内には法明と同時代の暦応二年(一三三九)銘の石造層塔があり、施主が「念仏講衆等」となっているのが注目される。寺は戦国期より荒廃し、慶安元年(一六四八)浄土宗の僧善誉夢白が再建、寛文三年(一六六三)京都知恩院末となった。境内には前記層塔と並んで弘長二年(一二六二)銘の塔もある。二基の塔は雁(がん)塚といわれ、二羽の雁夫婦を葬ったと伝える。また龕塚(摂津名所図会)とも書き、法明没後その龕を埋めた塚という伝承もある。

深江村 ふかえむら

 [現]東成区深江北(ふかえきた)一―三丁目・深江南(ふかえみなみ)一―三丁目

左専道(させんどう)村(現城東区)の南にあり、東は河内国若江郡高井田(たかいだ)村(現東大阪市)、南は同渋川郡東足代(ひがしあじろ)村(現同上)。東端を守口(もりぐち)町(現守口市)方面への道が、南端を奈良街道(暗峠越)が通り、村の南東隅で両道が交差。この交差地付近に新家(しんけ)(通称深江新家)と称する小集落があり、「摂津志」には「新家」の村名がみえ、「深江及河州渋川郡足代両村出戸」と注記。宝暦八年(一七五八)の深江村検地帳(川田家文書)には、延宝検地分として新家の一八戸がみえるから、この頃までに集落の形成が進んでいたことがわかる。

付近は「万葉集」巻三に歌われる「笠縫の島」の地で、「延喜式」(内匠寮)に伊勢斎宮の菅蓋の材料を供給したとある摂津国笠縫氏の居住地といわれ、現在、深江稲荷神社境内が摂津笠縫邑跡として府の史跡に指定されている。「古事記伝」に「此地など今は島に非れども、古は凡て此郡内など、川々多く流れ合て広く沼にて海の如く、舟の往来て、まことに島にてありしなり」とされるように、古代の深江一帯は玉造(たまつくり)江の一部をなす沼沢地が広がるなかに、居住可能な高所があるという地勢であったのであろう。深江村の中心集落地の小字が菅島(すげじま)・島(しま)ノ岸(きし)・水鶏田(くいなだ)・宮(みや)ノ浦(うら)であることも、こうした地勢を示すものと思われ、江戸時代にも一帯は低潤な土地柄で、度々洪水に見舞われている(川田家文書・幸田家文書)。中世は新開(しんかい)庄に含まれたと考えられる。

慶長九年(一六〇四)後八月二二日の木下浄英黒印状(足守木下家文書)に「かけのこほりのうち」として「ふ可ゑむら」がみえ、同一〇年の摂津国絵図には東成郡「深江村」が記される。浄英黒印状によると「ふ可ゑむら」五七四石余は豊臣秀吉の室北政所(高台院)領で、うち二〇〇石は侍女孝蔵主分。寛永元年(一六二四)高台院の死去に伴い幕府領となる。幕末には京都所司代領(役知)。延宝五年(一六七七)の深江村検地帳(川田家文書)によると、文禄検地の高六四九石余・反別四六町余、延宝検地の結果は高七六〇石余・反別五九町余。慶応四年(一八六八)の家数人別奥寄帳(同文書)によると、新田一二石余、他村からの入作一〇六石、家数一二二(高持三五・無高八〇・寺五・医師一・無高尼一)・人数五四八。

当村では大正頃まで菅作りが盛んで、古くから菅笠の産地として知られていた。その歴史は先述の笠縫氏と不可分の関係にあり、伊勢神宮の式年遷宮に用いる菅笠・菅翳、天皇即位式の大嘗祭に用いる菅蓋や円座は代々深江から調進されたという。中世には深江の菅笠座があり、堺、天王寺(現天王寺区)、奈良・京都を中心として畿内一円に専売権を獲得していた。菅笠座には殿下渡領の本座と二条家領の新座があったが、明応五年(一四九六)頃には、両座の権益は一問屋に握られていた(「和長卿記」内閣文庫蔵、大乗院寺社雑事記)。近世になると深江の菅笠は旅行用や作業用などの一般庶民向け特産品としてさらに広まった。「摂津名所図会」にも「名産深江菅笠 深江村及び隣村多く莎草をもつてこれを造る、只深江笠と称して名産とす」とみえる。隣接する河内の農村でも笠作りが盛んで、足代笠ともよんだが、一般にはこれらをも含めて深江笠あるいは難波笠と称した。とくに伊勢参詣に向かう旅人たちは、奈良街道沿いに位置する深江村で菅笠を買求めるのが習慣であったといわれる。一方、儀式用の製造も続いており、大嘗祭のための調進や讃岐高松藩の御菅御用を代々の庄屋が担当していたといい、「玉勝間」も「此所、菅田多く有て、其菅他所より勝れたり、里人むかしより笠をぬふことを業として名高く、童謡にもうたへり、今も里長幸田喜右衛門といふ者の家より、御即位のをりは、内裏へ菅を献る、又讃岐の殿へも、円座の料の菅をまゐらすとぞ」と記す。

字角田の光栄(かくだのこうえい)寺、字宮(みや)ノ浦(うら)の長龍(ちようりゆう)寺は、いずれも真宗大谷派。長龍寺北方の真行(しんぎよう)寺は浄土真宗本願寺派。深江稲荷神社の祭神は宇賀御魂神・下照姫命ほか四神。縁起によれば、垂仁天皇の代に笠縫氏の祖がこの地に居を定め、下照姫命を奉祀したことを起源とし、その後和銅年間(七〇八―七一五)に山城国稲荷社(現京都市伏見区)の分霊を勧請したと伝える。また一説には元亀―天正(一五七〇―九二)の頃、大坂玉造稲荷神社(現東区)が兵火にかかり、当地に避難してきたことが起源ともいう。当地の産土神で、かつては村内に社家と称する三六戸からなる宮座があったという。境内には笠縫部の祖を祀る笠縫神社と、御食津(みけつ)神社がある。


 奈良街道(暗峠越)ならかいどう

 大阪と奈良を結ぶ街道はこのほかに幾つかあり、大阪から大和川の旧河道に沿って南東に行き、八尾(やお)市・柏原(かしわら)市・奈良県北葛城(きたかつらぎ)郡王寺(おうじ)町を経て奈良市に至る道も奈良街道とよぶが、生駒山地中、標高四五六メートルの暗(くらがり)峠(東大阪市と奈良県生駒市の境)を越え、諸道中最短距離で大阪市と奈良市とを結ぶこの街道は、明治時代までは人馬の往来が盛んであった。近世段階のルートは、大坂三郷玉造(たまつくり)各町(現東区)に接する中道(なかみち)村(現東成区)の二軒茶屋(にけんぢやや)を街道口とし(東成区の→二軒茶屋跡)、大今里(おおいまざと)村・深江(ふかえ)村(現東成区)、新喜多(しぎた)新田・御厨(みくりや)村・新家(しんけ)村・菱江(ひしえ)村・松原(まつばら)村・水走(みずはい)村・豊浦(とようら)村(現東大阪市)と東進、暗峠を越えて大和に入った。大和側の起点は奈良で、二軒茶屋―奈良間八里八町という。大和側では大坂街道とよんだ。なお大坂の起点を八軒家(はちけんや)(現東区)とする説もあり(枚方市史)、近代には高麗(こうらい)橋(現東区)が起点とされた。松原にある道標に「暗越奈良街道 距高麗橋元標壱里」とある。

古代では「古事記」雄略天皇段や「万葉集」巻六の一首に日下の直越(くさかのただごえ)道のことがみえ、「古事記伝」以来それを暗峠越にあてる説があるが、「古事記」や「万葉集」では峠道から河内の平野や難波の海が展望できるように叙述されているのに、暗峠道からはそれらは観望しがたいとして反対する説もある。中世には「中臣祐定記」嘉禎二年(一二三六)一〇月九日条に「注進 御供用途可令運上路々事」として、「大板(坂カ)路・亀瀬路・信貴路・生馬越路・上津鳥見路」があげられているが、うち「生馬越路」は暗峠越とみてよかろう。近世にはこの街道は大坂の繁栄とともに栄えた。井原西鶴の「世間胸算用」には、浪人四人がくらがり峠で大坂より帰る人を待伏せして追剥をし、奪ったものをあけてみると数の子であったという話がある(奈良の庭竈)。また「西鶴名残の友」には、玉造稲荷(現東区)の社地にたつと「東にかづらき山、あきしのゝ里、高安につゞきてくらがり峠、平岡明神も手ちかふ見えわたりぬ」とある。松尾芭蕉は元禄七年(一六九四)九月九日に奈良を発ち、その暮に大坂についたことを弟子の杉風にあてた書簡に記しているが、このときの作、

菊の香にくらがり登る節句かな

によって、暗峠越の道をとったことがわかる。寛政一一年(一七九九)一二月街道の側にこの句碑が建てられたことが「河内名所図会」にみえる。いまは東大阪市豊浦町勧成(かんじよう)院境内に移築されている。

街道の交通頻繁のため、明暦元年(一六五五)松原村に宿駅が設けられ、松原・水走両村が人馬を供給したが、寛文一〇年(一六七〇)末に豊浦・額田(ぬかた)両村(現東大阪市)も加わり、松原宿は四ヵ村の構成となった。元禄一四年の額田村明細帳(額田家文書)によると、人足五〇人・馬五〇匹を備えていた。峠には大和郡山藩の本陣や宿屋・茶店が軒を並べた。しかし明治二五年(一八九二)に国鉄関西本線の前身の大阪鉄道が、大正三年(一九一四)に近鉄奈良線の前身の大軌鉄道が開通してからはしだいに繁栄を奪われ、宿屋も茶店も退転し、明治初年に二〇戸近くあった民家も数戸となり、石畳の道や道標・石碑がわずかに昔の賑いをしのばせている。また信貴生駒スカイラインが峠の上を立体交差でよぎっている。暗峠の名は、松・杉などの大木が茂り、昼なお暗いほどであったことによるとする説、生駒山の山続きの小椋(おぐら)山の下にあるので椋が根峠といったことによるとする説(河内名所図会)、鞍ヶ嶺の意とする説などがある。峠道の大木は豊臣秀長の郡山築城の際に伐採されたという(同図会)。なお現在国道一七〇号(東高野街道)との交差点以東の当街道は国道三〇八号となっている。

 東足代村 ひがしあじろむら

 [現]東大阪市足代(あじろ)一―三丁目・足代北(あじろきた)一―二丁目・足代新(あじろしん)町一―二丁目・東足代

渋川郡に属し、東は荒川(あらかわ)村。北の村境を暗(くらがり)峠越奈良街道が東西に通り、村域北東部で十三(じゆうさん)街道が分岐して南東に向かう。条里制の坪数を表す一ノ坪・戸(十)ノ坪・十六・虫坪(むしつぼ)などの小字名が残る。「四天王寺御手印縁起」の寺領書上のなかに、渋川郡「足代地弐万参仟漆佰陸拾捌代」とあり、八条梓里三六坪・同里外十二坪があげられる。

慶長一七年(一六一二)の村高五八四石余(同年「検地帳写」塩川家文書)。正保郷帳の写とみられる河内国一国村高控帳・延宝年間(一六七三―八一)河内国支配帳ともに五八三石余、幕府領。天和元年(一六八一)の河州各郡御給人村高付帳でも同高で京都所司代戸田忠昌領。元文二年(一七三七)河内国高帳では五六八石余、幕府領。宝暦一〇年(一七六〇)には幕府領(瀬川家文書)、寛政六年(一七九四)には幕府領で高槻藩預地となる(「高槻永井氏預り所村々高付帳」中村家文書)。幕末には幕府領。東足代村書上(行松家文書)によると、文化五年(一八〇八)の家数六三で、うち本村二四、枝郷北(きた)ノ所(ところ)一七、街道筋にできた新家二二。寺は蓮信(れんしん)寺(現真宗大谷派)・法華宗聖源(せいげん)寺・禅宗東禅寺・同直指庵・同弥勒寺が記される。農間余業は菅笠稼(岩崎太郎家文書)。足代の村名は当地一帯特産の菅笠(網代)から生じたともいう。当村の塩川氏は、粉河寺縁起(粉河寺蔵)に「河内国渋河郡馬馳市有佐太夫」、また「元亨釈書」巻二九に「河内渋川郡有佐大夫者」、塩川家蔵の粉河寺縁起に「河内国しふかハの郡に長者有りけり」とみえる渋川郡長者にあたると伝え、当地に粉河地(こかわち)の小字名がある。しかし粉河寺縁起の一本には讃良(さらら)郡の長者と記される。

 阿遅速雄神社 あちはやおじんじや

 [現]鶴見区放出東三丁目 水剣

第二寝屋川に長瀬(ながせ)川が合流する地点の北側に鎮座。阿遅高日子根神を主神とし、現在は草薙剣の分霊正一位八剣大明神を配祀する。往古は八剣(やつるぎ)大明神と称した。旧郷社。「延喜式」神名帳に載る東生(ひがしなり)郡の同名社に比定される。社伝によれば、天智天皇七年(六六八)に熱田(あつた)神宮(現名古屋市熱田区)の神剣草薙剣を盗みだした新羅の沙門道行は、当地付近で暴風雨に遭遇したことから、神罰をおそれて神剣を投げすてた。この神剣は一時当社に奉安され、やがて皇居に移送されたが、朱鳥元年(六八六)熱田神宮へ返納されたという。草薙剣の盗難事件については「日本書紀」「扶桑略記」「熱田宮旧記」などに散見するが、当社の祭神が出雲系の神であり、現社地付近の往古の地勢を勘案すると、その由緒は放出の地名説話に帰結すると思われる。近世には放出村の産土神。例祭日の一〇月二二日には熱田神宮より代表者が参拝し、同宮の例祭日六月五日には当社の代表が参拝する。境内の北東隅に菖蒲池がある。往時は七月九日の夏祭、現在は五月五日に菖蒲刈神事を行う。災難除けの菖蒲と伝える。境内の細砂は脚の病気に効験ありとする。境内には相殿社・大将軍社・稲荷社・護国社があり、樟の大樹は白竜大権現を祀る神木で、遠方からも望見できる。府の天然記念物。


 護念寺 ごねんじ

[現]守口市高瀬町五丁目

世木(せぎ)御堂ともよばれる。山門向いの道路に「御堂前橋」の石碑が建ち、かつては寺の前を高瀬(たかせ)川が流れていた。真宗大谷派、本尊阿弥陀如来。寺伝によると、本願寺八世蓮如の子で加賀国若松本泉(わかまつほんせん)寺(現石川県金沢市)の四世実悟は、永禄年中(一五五八―七〇)河内地方で布教、土居(どい)坊(現清沢寺)を創建後、加賀国一向一揆で享禄四年(一五三一)焼失した本泉寺を世木に復興したという。「大谷一流諸家分脈系図」の実悟の条に「永禄中創河州茨田郡土居坊、又創同郡世木之坊」とあり、本泉寺復興とは「世木之坊」創建のこととみられる。本泉寺は実悟の子で五世教恵のとき大坂天満(てんま)(現北区)に移転、その跡地に支坊として建立されたのが護念寺で、護念寺は本泉寺の懸所とされた。境内墓地に永禄六年の五輪塔、大塩平八郎の乱の参加者の墓碑がある。また本堂東側に、行基が造った高瀬大橋(行基年譜)の橋桁石と伝える石と千林(せんばやし)(現旭区)の道端にあったというキリシタン灯籠一基が置かれている。



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