氣比神宮

氣比神宮は、福井県敦賀市曙町にある。
祭神は、伊奢沙別命(いざさわけのみこと)(気比大神、御食津(みけつ)大神)を主神に、仲哀天皇、神功皇后、応神天皇、日本武命(やまとたけるのみこと)、玉妃命(たまひめのみこと)、武内宿禰(たけのうちのすくね)を配祀する。
主神の伊奢沙別命は古くからこの地方開発の神として尊崇され、大宝2年(702)勅に依り社殿の修営を行い仲哀天皇神功皇后を合祀した。日本武命をはじめ四柱神を別殿(四社の宮)に奉斎した。
仲哀天皇は即位の後まもなく当社に参詣し、神功皇后とともにいわゆる「三韓征伐」の成功を祈り、帰朝後皇后は、皇子(後の応神天皇)を当社に参拝させたといわれ、歴代朝廷の崇敬は極めて厚かった。
延喜式には、「祭神七座並名神(みょうじん)大社」とあり、越前国一宮(いちのみや)となり、中世以降は武将からの領地寄進も相次いだ。
明治28年(1895)神宮号宣下により気比神宮と称し、官幣大社となった。

慶長19年(1614)に結城秀康が寄進した本殿は、桃太郎の彫刻があって有名であったが、昭和20年(1945)戦災で焼失し、5年後に復興した。
本殿の四周に東殿宮、総社宮、平殿宮、西殿宮があり、四社の宮と称する。

気比の大鳥居は、当初 弘仁元年(810)の造営時に東参道口に創建されたが、災害で倒壊したため、正保2年(1645)に西門に礎石を移し、社領の佐渡から奉納されたアスナロの木一本で両柱を建て再建された。
小浜藩初代藩主 酒井忠勝が神明桶皮胴(しんめいおけかわどう)形式で両部型の独特の形(気比型)に修復した。
高さ10.9m、柱間7.45mで、木造の鳥居では厳島神社、春日大社とともに日本三大鳥居と呼ばれる。
明治34年に(旧)国宝に指定され、昭和25年に施行された文化財保護法のもと、現在は国の重要文化財となっている。

平成28年(2016)氣比神宮境内地の全域が、「国指定名勝 おくのほそ道の風景地 けいの明神」に指定された。
元禄2年(1689)、加賀を経て福井に入った芭蕉は、「名月はつるがのみなと」で鑑賞したいと、敦賀を目指した。
仲秋の名月前日の8月14日に敦賀に到着した芭蕉は、その夜「けいの明神」に参拝している。
氣比神宮には、鎌倉時代末期に遊行二世(ゆぎょうにせい)他阿上人が自ら砂を運んで参道を整備したという「お砂持ち」の逸話が伝わっている。
芭蕉はこの「お砂持ち」の神事と月夜を「月清し遊行のもてる砂の上」と詠んだ。
翌日は雨で名月を見ることが叶わず、その心持を「名月や北国日和定めなき」の句に残している。
中鳥居正面には、芭蕉像と句碑が建立されている。

例祭は9月4日で、2日の宵宮祭(よいみやさい)から15日の月次祭まで続くので、氣比の長祭(けえさんまつり)と呼ばれる。
また3月6日の御誓祭(みちかいまつり)、3月8日の御名易祭(みなかえまつり)、6月15日の御田植祭、6月16日の牛腸祭(ごちょうさい)、7月21日の寅(とらの)神事、7月22日の総参祭(そうさいまつり)などの特殊神事が行われる。




角鹿神社(つぬがじんじゃ)

摂社(式内社)。祭神は都怒我阿羅斯等命(つぬがあらしとのみこと)。
崇神天皇の御代、任那の皇子 都怒我阿羅斯等が氣比の浦に上陸し貢物を奉る。
天皇は氣比大神宮の司祭と当国の政治を任せられた。
その政所の後にこの命を祀ったのが当神社で、現在の敦賀のもとの地名は「角鹿」でこの御名による。
往古東門口が表参道であったため氣比神宮本社の門神といわれる。



末社 金神社(かねのじんじゃ)(気比明神)

素戔嗚尊(すさのおのみこと)を祀り、家内安全の神とされている。
延暦23年(804)8月28日、僧空海当宮に詣で、大般若経一千巻を轉読求法にて渡唐を祈る。
弘仁7年(816)に再び詣でて当神宮の霊鏡を高野山に遷し鎮守の社とした。
即ち紀州高野山の気比明神はこれである。→ 高野山壇上伽藍 御社(みやしろ)



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