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橋本駅前万葉歌碑

橋本駅前万葉歌碑は、和歌山県橋本市にある。
万葉時代の宮廷人たちは、紀伊国に深い憧れを持っていたといわれる。
大和には海がないため、黒潮踊る紀伊国の風景には殊の外感動することが多かった。
万葉集の中には橋本に関する和歌が10首収められており、橋本市内各地に万葉歌碑が建立されている。
南海高野線及びJR和歌山線の橋本駅前には、次の歌碑がある。

白栲(しろたへ)に にほふ信土(まつち)の 山川に
 わが馬なづむ 家恋ふらしも  作者不詳 巻7-1192
(意味)信土山の川で 私の乗る馬が行き悩んでいる(難渋している)。家人が私を思っているらしい。

右側の歌碑説明文には、次のように記されている。
第8回橋本万葉まつり と併せて
JR和歌山線全線の開通百周年を記念し
大阪大学名誉教授 甲南女子大学名誉教授 文化功労者
文学博士 故犬養孝先生の著書「紀ノ川の万葉」より
その遺墨を刻し 郷土のためにこれを建つ
 2000年11月 第8回橋本万葉まつり実行委員会

紀ノ川の万葉の文章は次のとおりである。
こんにちは草ぼうぼうになった古い小道をくだると、
土地の古老らが神代の渡り場と称している落合川(真土川)の渡り場に出る。
ふだんは水の少ない涸川(かれがわ)だから、
大きな石の上をまたいで渡るようになっている。
ここがおそらく古代の渡り場であったろう。

橋本電気株式会社発電所跡

橋本電気株式会社発電所跡は、和歌山県橋本市古佐田にある。
レンガ造りの建物は、明治時代に建てられたもので、橋本市で最初の発電所である。
平成11年に村木聰男氏家屋解体中に、発電所建設に関する資料が発見された。
電気事業経営の逓信大臣からの許可書と命令書、電燈設置目論見書、竣工祝いの記念写真などである。
発電許可書は、明治43年(1910)2月23日付のもので、橋本電気株式会社宛てに出されたもので、命令書で、6カ月以内に施工認可申請を出し、認可日から1年以内に営業を開始するよう定められた。
約2万2千円の工事費で、500戸分の電燈に必要な電力を発電していた。



小林家住宅

小林家住宅は、和歌山県橋本市古佐田にある。
橋本駅西側踏切から南下する道と駅前から西進する上本町通りが交差するT字路に東に面して建てられている。
平成16年に国の登録有形文化財に指定された。
屋敷地周囲は、低い土塀が設置されている。
屋敷両端には主屋と向かい合って、三つの土蔵が建っている。
主屋は入母屋造桟瓦葺の2階建てで江戸時代末期(嘉永3年頃)の建築である。
玄関から通り土間を経て、背後の炊事場へと続いている。
通り土間北側床上部は田の字形に4室が設けられている。
1階正面に繊細な格子を、2階には虫籠窓を入れ、軒裏は塗り込められ、正面裾には犬矢来が設置されている。
土蔵は、三棟が一体となった切妻造りで明治時代中期の建物である。

日本聖公会橋本キリスト教会

日本聖公会橋本キリスト教会は、和歌山県橋本市にある。
日本聖公会は、プロテスタント教会の一宗派で、英国国教会の系統をひいている。
安政6年(1859)米国の宣教師ウィリアムズとリギンズによって伝道を開始した。
明治20年(1887)に米国監督協会、英国の宣教協会および福音宣布協会の三派が合同して日本聖公会を創立した。
当地では土曜日午後7時30分から夕の礼拝、日曜日午前9時30分から朝の礼拝が行われている。
新礼拝堂の東側に牧師の住まいを兼ねた旧礼拝堂の建物がある。
この旧礼拝堂は、奈良県吉野地方にあった農家を明治33年(1900)に現在地に移築して教会としたもので、
大棟、隅棟には十字架を刻した鬼瓦がある。
旧礼拝堂は、平成17年(2005)に国の登録有形文化財に指定されている。


鎌倉大将軍社 延命地蔵尊 元浄泉寺塩市の燈籠

鎌倉大将軍社は、和歌山県橋本市にある。
西隣には、廃浄泉寺延命地蔵尊と塩市仲間の石燈籠がある。

紀伊続風土記の古佐田村の項に、次のように記されている。
〇小祠四社
 大将軍社 森周三十三間
 若宮三社
〇浄泉寺 浄土宗西山派名草郡梶取村総持寺末
 鐘楼 鎮守社
村の南にあり 縁起に本尊地蔵尊は延暦中田村将軍奥州征伐の時 守本尊とし深く祈請して遂に夷賊を退治し
大同中此地に七堂伽藍を建立して此本尊を安置すといへり
恵心僧都か書けりといふ阿弥陀像信誉上人の六字名號あり

大将軍(たいしょうぐん、だいしょうぐん)とは陰陽道の八将神(八将軍)の一つで、金曜星の神格である。
3年同じ方位に留まるため三年塞がりといい万事に大凶である。
鎌倉の意味は不明である。当地の利生護国寺の改修や血縄の説話で知られる、鎌倉幕府執権の北条時頼(1227-1263)のことを指しているのではないかとの説もある。

元浄泉寺塩市の燈籠は、古佐田の浄泉寺境内にあったとされ、明治43年(1910)に浄泉寺が廃寺となった際に、丸山公園内の庚申堂前に移された。
その後、延命地蔵尊が新しく建てられたのを機に当地に移された。
各面には次のように刻されている。
 東面 正徳五乙未年六月廿四日
     古佐田村陵山浄泉寺義建代
 南面 奉寄進地蔵前石灯籠
 西面 橋本町塩市仲間

橋本町の塩市は、天正15年(1587)応其上人が橋本町を開き、豊臣秀吉に願い出て永代諸役免除と塩市の特権が与えられたことに始まる。
当初、一と六のつく日に市が開かれる一六塩市が行われ、のち徳川頼宜の紀州入国(1619年)以降、
現在の和歌山市にあった三葛村の塩舟関係者からの願いにより、月6回の塩市が12回に増やされた。
橋本町塩市仲間が寄進し、当地が紀の川中流の塩市として栄えたことを示すもので、橋本市の文化財に指定されている。



応其寺

応其寺は、和歌山県橋本市にある真言宗の寺院である。
天正15年(1587)に応其上人は古佐田村の荒れ地を開き、ここに草庵を作った。
この草庵が現在の応其寺で、旧名を惣福寺といった。中興山普門院応其寺と呼ばれる。

応其は、1537年近江国蒲生郡観音寺に生まれた。俗姓は佐々木順良(むねよし)といい、主家の大和の国高取城主の越智泉が没落したため、紀伊の国伊都郡相賀荘に移り住んだ。
37歳の時、出家して高野山に登り、名を日斎房良順のちに応其と改めた。
高野山では米麦を絶ち木の実を食べて13年間仏道修行を積んだため、木食上人と呼ばれた。
1585年豊臣秀吉が根来寺の攻略の後、高野山攻撃を企てた時、高野山を代表して和議に成功し、秀吉の信任を得て高野山再興の援助を受けた。
応其は、全国を行脚して寺社の勧進に努めたほか、学文路街道を改修し、紀ノ川に長さ130間(236m)の橋を架けた。橋本市の地名はこの橋に由来する。
境内には、本堂、庫裏、鐘楼、山門があり、寺宝として木像応其上人像、木食応其上人画像、古文書応其寺文書などがある。
高野山奥の院には、「興山応其上人廟」、興山上人一石五輪塔がある。また、滋賀県甲賀市飯道山には、木食応其上人入定窟がある。
南海電鉄高野線及びJR和歌山線橋本駅から徒歩5分。山門南に参拝者用の駐車場がある。



みそや別館

みそや別館は、和歌山県橋本市橋本1丁目にある。
橋本は、東西に走る伊勢(大和)街道沿いに多数の町家が建ち並び、町並みを形成していた。
みそや別館はこの伊勢街道沿いに建つ町家の一つで、もとは谷口家住宅であったが、今はみそや呉服店となっている。
幕末までは味噌を扱っていたのでこの屋号となっている。
街道沿いの主屋は、切妻造桟瓦葺の建物で、屋根をコの字形にかけ、西半は中庭とし、2階には数寄家風の座敷を設けている。
明治17年(1884)に京都の大工を招いて建てられたもので、緩い起り屋根、虫籠窓風の2階窓など京町家のたたずまいを伝えている。
土地区画整理事業(曳家工法)によって、仮移転を経てほぼ元の位置に戻された。
平成16年に、国の登録有形文化財に指定されている。



火伏医院

火伏医院は、和歌山県橋本市橋本1丁目にある。
伊勢(大和)街道に接して南側に建てられていた。
火伏家は、江戸時代は塩問屋に名を連ね、醤油醸造も業とした。
大正6年(1917)に医院を開業している。
主屋は切妻造り桟瓦葺つし二階建の町家建築である。
西部分を中土間とし、東部分の2室の座敷は落棟で江戸時代末期の改築とみられている。
享保6年の棟札が残り、建築年代が明らかな和歌山県内で最も古い町家である。
主屋の西側に隣接して大正10年(1921)に建てられた木造2階建ての洋館建築があり、医院として用いられている。
外壁は下見板張りの洋館建てで、縦長の窓が設置されている。
高床式の床は、洪水対策のためで、たびたび洪水に見舞われた橋本の町で、当地の特徴が良くあらわれた造りである。
土地区画整理事業(曳家工法)により、現在地に移転した。
平成16年に国の登録有形文化財となっている。

太神社 一里塚(一里松)  橋本川船仲間中石灯籠

太神社(だいじんじゃ)と一里塚(一里松)は、和歌山県橋本市にある。
江戸時代に旅人の便宜を図るために、街道の両側に一里(約4㎞)毎に土を盛り、里程の目標として塚を築いて「一里塚」と呼んでいた。
その広さは五間四方(約81㎡)とかなり大きく、塚の代わりに榎や松を植えたところもあった。
紀州藩では、和歌山城下の京橋北詰を起点に紀の川に沿って1里(約4㎞)毎に設けられていた。
当地は11里目にあたり、10里の松は高野口町名古曽、12里は隅田町中島にあったとされているが、現存していない。
多くの一里松が失われた中で、当地の一里松は戦前まで残っていたが、現在は一里松を再現した松が植えられ、近くに一里塚の石柱が建てられている。
江戸時代初期から当地は川原町と呼ばれ、船宿や紀の川を行き来する川船仲間の舟運業者が軒を並べていた。
太神社は天正年間(1573-92)に木食応其上人が松ケ枝橋の東詰に勧進したものと伝えられ、
地元では「ゴウシンサン」と呼ばれている。
祠前にはほぼ同型同規模の二基の石灯籠が建ち、右側(東)の石灯籠一基は、寛政8年(1796)当地川船仲間が神前に奉納したもので、橋本市の文化財に指定されている。
竿部には次の通り刻まれている。
 右、東面 寛政八丙辰十二月 日
 正、南面 太神社夜灯
 左、西面 橋本川船仲間中
拝殿に向かって左側には、16年後に建てられた石灯籠がある。
竿部に次の銘文がある。
 右、東面 文化九年壬申九月吉日
 正、南面 太神社
 左、西面 町内中


東家の追分石

東家の追分石は、和歌山県橋本市東家にある。
追分とは、道が左右に分かれるところをいう。
伊勢(大和)街道と高野街道が交差する四つ辻に旅人の便宜を図るためにもうけられた道標石である。
東面に「右 京大坂道」、西面に「右 こうや 左 京大坂道」
南面に「南無大師遍照金剛 施主 阿州一楽村 藍屋元次郎 
     世話人 当邑 河内屋次右エ門」
北面に「右 わかやま こかわ
     左 い勢 なら はせ よしの 追分」
と刻まれている。
阿州とは、徳島のことで、徳島県の北の粟の生産地で「粟の国」、南の「長の国」と呼ばれ、大化の改新の後に「粟国」に統一された。
和銅6年(713年)、元明天皇の命により、地名を二字で表記するため、粟は「阿波」に変更された。
南海電鉄高野線橋本駅下車、徒歩10分。



東家渡場大常夜燈籠

東家渡場大常夜燈籠は、和歌山県橋本市東家にある。
高野街道は京都、大阪、堺から河内長野を経て高野山へ向かう道で、
古くは九度山町の慈尊院から町石道を登った。
その後、御幸辻から南下して、東家で紀ノ川を渡り学文路から高野山へ登っていく道が開かれ、
室町時代後期にはもっぱらこの道が使われた。
橋本の地名の由来となった橋は、天正15年(1587)に応其上人によって架けられたが、
3年後に紀ノ川の増水によって流失し、舟による横渡(よこわたし)が行われるようになった。
その紀ノ川北岸渡し場に建てられたのが、この大常夜燈籠である。
この石燈籠が建てられたのは文化11年(1814)で、永く「無銭横渡」の渡し場を伝えてきたが、
その後、河川改修のため現在地に移築された。
元は同型の燈籠2基が相対して建てられていたが、うち1基は紀ノ川の洪水により流失した。
台座四面の銘文によると、阿波国藍商人の連中をはじめ、
京都、難波、堺の商人および和歌山の川舟仲間ほか多人数の講社、信者などの浄財によって建てられたもので、
当時の弘法大師信仰の広がりと、かつての紀ノ川渡し場の賑わいを現在に伝えている。
紀伊名所図会の橋本・東家・陵山にも、「橋本わたし」の舟が描かれており、対岸には三軒茶屋大常夜燈籠が残されている。
昭和56年に橋本市の文化財に指定されている。
南海高野線橋本駅下車、徒歩約10分。



橋本橋

橋本橋は和歌山県橋本市の紀の川に架かる橋梁である。
北岸西側に「橋本橋竣工記念碑」(和歌山県知事 仮谷志良書)が建てられ、裏面に橋本橋の沿革と工事概要が記されている。
    橋本橋の沿革
日本最多雨地帯の大台ケ原を水源とする紀の川のこの地に、天正十三年(一五八五年)橋本開基の名僧
木食応其上人によって、はじめて長さ二三五メートル(一三〇間)の橋が架けられた。
以降、高野参詣者の往路として利用され、宿場や塩市が開けて、橋本市発祥の源となった。
 しかし、たび重なる水害により、この橋も流失し それから後は渡し船が往来して、人々に親しまれてきた。
昭和七年に本格的な鉄骨造りの橋が架設され、文化、産業、交通などの要路として重要な役割を果たしてきたが、
このたび紀の川堤防改修工事と並行して、近代的な橋の架け替え工事により、昭和五三年八月に完成した。
    工事概要
事業名称  国道三七一号線橋本橋橋梁整備事業
工事位置  橋本市一丁目橋本市向副地内
総事業費  九億一千万円
橋梁延長  二五六メートル
橋梁幅員  全幅員十一メートル 車道七メートル 歩道各二メートル
工事期間  着工 昭和四六年 月 竣工 昭和五三年八月
事業主体  和歌山県
工事担当  橋本土木事務所

前畑秀子資料展示館

前畑秀子資料展示館は、和歌山県橋本市にある。
前畑秀子(1914-1995)は、日本人女性初のオリンピック金メダリストで、昭和11年(1936年)ベルリンオリンピックの200m平泳ぎで優勝した。
NHKラジオ実況中継で、「前畑がんばれ!」と23回連呼した河西三省アナウンサーの実況音声が良く知られている。
前畑秀子は、大正3年(1914年)に橋本市紀ノ川近くの豆腐屋の長女として生まれた。
当時は、橋本橋の上流付近の紀ノ川で水泳の練習をしていた。
大正14年(1925年)には、11歳で50m平泳ぎの日本学童新記録を出し、13歳で100m平泳ぎの日本新記録を樹立するなど早くから注目されていた。
昭和4年(1929年)に愛知県の椙山女学園に編入し、昭和7年(1932年)には、ロサンゼルスオリンピック200m平泳ぎで銀メダルを獲得した。
現役引退後も、積極的に水泳に関わり、後進の指導に努め、53歳の時に日本初の「ママさん水泳教室」を開校した。
前畑秀子資料展示館は、橋本市まちの歴史資料保存会付属の橋本まちかど博物館の展示として一般公開されている。
資料館では、「前畑がんばれ」の実況音声の録音を聴くことが出来る。また、オリンピック優勝の瞬間の写真(白黒写真からカラー写真に補正)なども展示されている。



御剱大明神神社

御剱大明神神社は、和歌山県橋本市にある神社である。
かつては代官所跡にあった伊都地方事務所や橋本町役場の前にあったが、
区画整理事業に伴い、紀陽銀行は橋本支店の西側に移転した。
いつ頃からこの地に奉祀されたか、文献もなく明らかでないが、
一対の燈籠の竿部に「嘉永元年(1848)戊申(ツチノエサル)十一月日 一色孫左衛門義隆」
「嘉永元年(1848)戊申十一月日 木村喜太郎永成」の銘が刻まれている。
一色家と木村家は東家に住んでおり、この二人が浄財を寄進したものである。
また一対の狛犬台座に「嘉永二年己酉(ツチノトトリ)五月」の銘があり、施主等の名が刻まれている。
高野山を往還したり、橋本町と取引のあった大阪の人々も名を連ねている。
当地は伊都郡の代官所(橋本御殿)のあったところである。
神社は、大正初期に古佐田の丸山公園に移されたが、昭和初期に信仰者の有志によって現在地に戻され、
昭和20年(1945)に戦後の復興と橋本町の発展を祈念して、当時の橋本町長平野熊太郎などの努力で、新しい社を造り、盛大な遷宮式が挙行された。
南海高野線橋本駅下車、徒歩10分。

橋本戎神社

橋本戎神社は和歌山県橋本市川原町にある。
えびすは、生業を守護し福利をもたらす神として、日本の民間信仰の中で広く受け入れられている。
語源は定かでないが、夷、つまり異郷人に由来すると考えられ、来訪神、漂着神的性格が濃い。
現在一般にえびすの神体として考えられている烏帽子をかぶり鯛と釣り竿を担いだ神像からうかがえるように、
元来は漁民の間でより広範に信仰されていたものが、海産物の売買により市の神、商売繁盛の神として、次第に商人や農民にも受け入れられた。
七福神の一つとして、大黒天と並び祀られることが多い。

橋本戎神社は、古くは「市戎(いちえびす)」と呼んでいたもので、元々市脇で行われていた塩市を橋本町へ移し塩市発展の神として祀ってきたものである。

紀伊続風土記の橋本町の項に、次のように知るされている。
〇市衣比須社
町内にあり 昔此地に一六三八の日市ありしとそ 今猶塩市あり 故に土人市夷といふ

現在は、「川原のえべっさん」と呼び、周辺の商店で順番を決めて祀っている。
1月9日の宵戎には、福笹を求めて多くの人がお参りする。
南海高野線橋本駅から徒歩約10分。



旧橋本町道路元標

旧橋本町道路元標は和歌山県橋本市にある。
道路元標は、道路の起点、終点、経過地を標示するための標示物である。
旧道路法により各市町村に1個設置することとされ、その位置は知事が定めるとしていた。
大正11年(1922)の内務省令は、その材質について、石材その他の耐久性のものを使用すること、
正面に市町村名を記すことを定めるとともに、寸法なども明示していた。
現行の道路法では、道路の付属物としているだけで、設置義務、材質、様式などの定めはない。
和歌山県では、県下各市町村に設置され、全部で200基余り作られたが、現在では17基を残すのみである。
橋本町道路元標は、かつて紀陽銀行橋本支店前の交差点西側に設置されていたが、国道24号線の拡幅整備により撤去されていた。
平成元年、この道路元標が交差点北西に放置されているのが発見され、本来の設置場所に近い、紀陽銀行橋本支店前に再び設置された。
平成9年に橋本市の文化財に指定されている。
南海高野線橋本駅から徒歩約10分。



旧橋本本陣 池永家住宅

旧橋本本陣 池永(洋三)家住宅は和歌山県橋本市橋本2丁目にある。
平成10年に国登録有形文化財に指定された。
国道24号線の南側に接し、紀ノ川との間に建てられている。
国道に接して主屋、表門を挟んで西側に土蔵、その南側に中庭をおいて、紀ノ川を眼下に見下ろす離座敷が配されている。
主屋は入母屋造本瓦葺つし2階建の建物で、大棟鬼瓦銘から宝暦2年(1752)の建築と推定されている。
1階玄関西側に格子、2階には虫籠窓が入る重厚な建物である。
離座敷は襖の木箱銘から享和3年(1803)の建築と推定され、文化2年(1805)には紀伊藩八代藩主徳川重倫が宿泊した。
弘化3年(1846)2月1日久野丹波守が田丸帰国の際に本陣を務め、離座敷を利用したという。
土地区画整理事業が実施され、曳家工法で当初の位置から南に約6m移転した。



愛宕大権現

愛宕大権現は、和歌山県橋本市古佐田にある。
愛宕信仰は、愛宕神社の祭神にかかわる火伏せ、防火の信仰である。
根本社は、京都市右京区の愛宕山に鎮座し、伊弉冉尊(いざなみのみこと)、迦俱槌神(かぐつちのかみ)、雷神(いかづちのかみ)ほか数神を祀っている。
愛宕の語源は、「背面」「日隠」の意味を持つ「あて」による(柳田国男「地名の研究」)とも、
母神の伊弉冉尊を焼死させた火神の迦俱槌神が仇子(あたご)であるから(本居宣長「古事記伝」)ともいう。
愛宕信仰では、火伏せの信仰と地蔵信仰との結びつきが認められ、これは、神仏分離以前の愛宕山の本地仏として勝軍地蔵が祀られていたことに由来する。
勝軍地蔵は、戦の守護神として武将などから厚く信仰され、同時に京都愛宕山が平安京を守護する神であったように、境の神として塞(さえ)の神の性格を持っていた。
千日詣でと称して、旧暦6月24日(現7月31日)に参詣すれば、千日分に当たるといわれる。
南海高野線及びJR和歌山線の橋本駅下車、徒歩10分。

飛び込み岩

飛び込み岩は、和歌山県橋本市の紀ノ川にある。
前畑秀子と古川勝は、ともに橋本市出身の水泳選手で、オリンピックで金メダルを獲得するなど輝かしい業績を残した選手である。
大正年間、昭和初期は、紀ノ川の水量は今よりも多く、子どもたちは紀ノ川で泳いでいた。
前畑秀子(1914-1995)の生家は、紀ノ川北岸で、この飛び込み岩付近で水泳の練習をしていた。
小学校4年生で水泳部に入部し、高等科1年生(現中学1年生)で100m平泳ぎの日本新記録を樹立している。
その後、室内プールを完備した名古屋の椙山高等女学校に編入し、昭和7年(1932)のロサンゼルスオリンピック200m平泳ぎで銀メダルを獲得した。
4年後の昭和11年(1936)のベルリンオリンピック200m平泳ぎで、日本人女性初となる金メダルを獲得し、ラジオ中継で「前畑ガンバレ」と、ガンバレを23回連呼した伝説のアナウンスは後世にも語り伝えられている。
古川勝(1936-1993)は伊都郡橋本町(現在の橋本市)で生まれ、紀ノ川に潜って幼少期を過ごした。
中学校の水泳大会で優勝し、前畑秀子から平泳ぎに専念するように指導を受けた。
その後、橋本高等学校、日本大学で水泳を続け、昭和31年(1956)のメルボルンオリンピック200m平泳ぎで優勝し、水泳競技で戦後初の金メダリストとなった。



伊勢(大和)街道 古佐田道標石

伊勢(大和)街道 古佐田道標石は、和歌山県橋本市にある。
平成9年に橋本市の文化財に指定された。
各面に、次の銘文が刻されている。
(東面) 左 かうや 古かわ
       き三井寺 わか山
(南面) 右 いせ 山上 よしの
        なら はせ たへま
(北面) 銘なし
(西面) 塀に接しており不明
昭和50年刊行の橋本市史下巻の金石文調査によると、嘉永3年(1850)建立とされている。
道路拡張の際に現在位置に置かれた。伊勢街道は、現在の道路と同じくここでかぎ型に曲がっていたと伝えられている。


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