紀見峠資料

紀伊見峠宿場跡

橋本市史 下巻

 

 紀伊見峠は紀伊と河内の境にある峠の名称であり、古い歴史につながった一つの宿駅でもある。この峠の宿駅がいつごろできたかはさだかではない。しかし延暦15年(796年)南海駅路の新路として開かれた道は、まさしくこの峠を越える道であったし、また弘仁7年(816年)空海の高野山開創によって、京都から高野山に通ずる道もまた、この峠を越えた道であったことは、古代史によって明らかである。交通の不便な時代、この峠を越えて南海道や高野山に至る旅人の苦難は、恐らく我々の想像外であったろう。昔の旅人にとっても峠のもつ意義と価値は大きかった。それはあえぎあえぎ登った山上の峠は何よりの休息地であり、また大自然の展望に心を慰められる地点でもあった。そこに休息の茶店や宿が自然に発生するのが峠である。このように考える時、天下の官道が通るこの峠、大師結戒(界)の聖地を訪う権者、庶民の往還したこの峠の起原はかなり古い時代であったことが推定される。おそらく平安後期にさかのぼるのではなかろうか。

 「紀伊名所絵図」によると、

東家村より十七町許(1.9キロメートル)これより河内国三日市まで二里、葛城連峯の中、この處最も卑(ひく)くして平易なれば、北方の諸州より本國に入る通路とす。河内國錦部(にしきべ)郡天見村に接せり。むかし諸帝高野山に行幸し給へるも皆この峠を越えさせ給う。永承年(自10461052)中、関白頼道公御参拝の記に、「おの山を越ゆるよし見えたるも猶この道なり、おの山は葛城続きの北山の総名なれば、こゝををもしかいへる事他にも證あり」(「お」は口へんに猿のつくり、「の」は口へんに、於)かくて南山登詣の緇素(しそ)(僧と俗人)年々歳々に多きをもって、いつの頃よりか山嶺に茶店をひらき、客舎を建てつらねしかば、酒旗春風になびき、にくからぬ袖に、往来の旅人を招くもあるべし。

 なお、「新撰長禄寛正記」によると

寛正4314日、嶽山の寄手の中、奈良の成(じょう)真院がはかりごとにて、國見山の頂に陣とり、城中南の口の道路を指留ければ、忽ちに兵糧つきて、籠城不叶(ろうじょうかなわず)義就(よしなり)(畠山)共嶽山を落ちらるゝ、御供の侍紀伊見峠にてかくぞ口號(くちずさみ)ける。

夏おつる 紀のみ峠のゆく末も ひとにまかせて さく花を見む

(「紀州名所図会」)

またこの峠は紀河国境の地にあって、軍事上の要地でもあった。

「正慶年中(1332-33)湯浅孫六赤坂城に籠り、楠木正成が寄手を防ぎ、糧米を紀州阿瀬川(有田)より運ばしむ、正和和田、恩地、安間、高安等三百人に命じて、湯浅が兵を紀伊見峠に破る。云々」(「太平記」三楠実録)

 今、同地岡氏裏藪に大小二、三基の五輪塔があり、「一結衆二十七人墓、元中三年(1386年)三月」との銘文のみ判読することができるが、ほかは風雪にさらされ不明である。

 これらの古碑は、南都復興のために、この地で戦死した武士や土民を祭ったものであろう。

 なおこの峠が公認の「伝馬所」となって、人馬物資輸送の宿駅となったのは慶安元年(1648)である。

 このころは、峠の最も繁盛した時代で、茶店、宿舎も数十軒にも及んだと伝えられる。

 ちなみに紀河の国境には「三本松」があった。現在は、一本の老松が残ってわずかに昔の面影をとどめている。

 


紀見峠きみとうげ

"きみとうげ【紀見峠】和歌山県:橋本市/柱本村", 日本歴史地名大系,

 

大阪府との境にあり、紀伊見(きいみ)峠(きのみ峠とも)ともいった。高野山開創により京・大坂からの参詣道の峠となり、葛城修験の行場でもあった。南北朝時代、東北に楠木正成の千早(ちはや)城(現大阪府南河内郡)があり、戦略の要地となった。峠の民家裏に「一結衆二十七人墓、元中三年三月」銘の石造五輪塔がある。寛正四年(一四六三)三月一四日、河内竜泉寺(りゆうせんじ)城(現大阪府富田林市)を追われた畠山義就は紀見峠を越えて高野山へ遁走しているが、「長禄寛正記」は義就の侍者の歌として「夏落ル木ノ実峠ノ行末ヲシラヌハゲニモ道理也ケリ」を載せる。

慶安元年(一六四八)和歌山藩の伝馬所が設けられた。同四年の上組在々田畠小物成改帳控(土屋家文書)に紀見峠新家として家数一七、人数五九、馬二〇が記され、物資輸送に携わる者の住居や茶店なども建てられたことがうかがえる。江戸時代初期の烏丸資慶の紀行「高野山路之記」は峠の様子を次のように記す。

 

紀の見の峠にこえかゝる。道に木たかくふりたる松三本ぞたてる。故あるさまなるをとへば。紀の国河内の境のしるしといふ。

たよりあらば紀のぢのさかひけふこえてしるしの松もみきとつげばや

峠にのぼりぬれば。旅人の為にむすびをけるいほりあり。やすらひてそこらとひきけば。此山なんかつらぎの峰つゞきにて。むかひのしげれる嶽にても。行者のおこなひすなるといへば。

しら雲のよそにかけこしかつらぎのみねのつゞきをけふぞこえぬる


紀見峠

「高野街道と熊野街道」西岡博史氏私家版

私の生まれ故郷は、高野街道に沿った紀見峠の海抜4百メートルの山頂で、河内と紀伊の国境の宿場で戸数は多いときは50戸位、今は半分になっている。

この峠の国境には御影石の苔むした道標があり、これより女人堂六里と刻まれている。この道標は、三本松の根方にあるが、ここは昔、藩の番所のあった跡で、その跡には小生の長兄とは碁仇の従兄で数学者の岡潔の家がある。

私の家は、この宿場で代々「虎屋源兵衛」と言う旅籠で山林を業としていた。この家からは高野の山々が紀の川をはさんで一望できるところで、高野山詣の巡礼路であった。

「源兵衛と名乗り幾秋古峠」

「行き暮れて乞わるるままに秋の宿」

「秋の嶺誰が末なりや隠れ棲む」

「秋の嶺延暦の雲越え行くよ」

この句は「風太郎」と号する兄の句である。

紀見峠のことが歴史書に現れるのは、桓武天皇の延暦15年(西暦796年)、南海道新線として官道に認定された。空海が高野山を開創されたのは、西暦816年(弘仁7年)であるので、これより20年後のことである。

私の青少年時代は大正から昭和初期にかけての農村不況の頃で、木材や蚕価格が暴落し、どん底の時代であった。その頃この山里は、春休みは山の杉の間伐の山仕事から始まる。

これは、四人一組で、一番先頭の人が間引く木を選定し、二番目がその木を削って矢立で番号を書く。三番目は目印のためその木を藁でくくり、四番目が根元を削って刻印を打つ。

昼食時になると、谷川のほとりで焚き火をしながら、握り飯をほおばる。ふりかけてあるゴマ塩とたくあんが妙に調和してうまい。

この間伐した木材は、山林業者が家に集まって入札する。先日久しぶりに帰ってみると、この山の木は太さ三尺ちかい大木に育っていた。

夏休みは養蚕の桑摘み、毎日大所帯の米搗きが日課であった。

このあたりは、田が少ないので屋根ふき職を副業として農閑期に河内、摂津へ出稼ぎにゆく。秋は松茸山の季節、松茸やしめじ等大籠に一杯とれた。秋祭りの前後は山小屋に寝泊りして山々を探しまわった。

採れた松茸を古新聞を濡らして包み焚き火にくべて、あつあつの焼松茸を引き裂いて、醤油と柚子の絞り汁で食べる味はまた格別で、かしわの入った松茸飯としめじ汁は、顎が落ちるほど美味しい。良質の松茸は河内の市場から買い集めに来るので、唯一の現金収入で家ではバレたものばかり食べたものである。

私は、七人兄弟の末っ子で兄の尻について山を駆け巡り、松茸の新しい寝宿を見つけるのが得意であった。この辺りは、朝食は「茶粥」で、「柿の葉ずし」が名物である。峠の道端の古い渋柿の黄色い葉にお握りと塩鯖を包んで、木箱に入れて石で押し付ける。これはこのあたりから、大和、吉野にかけての名産となっている。

 

西高野街道

大阪の街道と道標 改訂版 武藤善一郎

西高野街道は、堺を起点とする高野山への道で、堺の発展とともに成立する幹線道路である。

東高野街道が、京から高位高官族の往来に始まって、利用されてきたことに比べると、西高野街道は商人から庶民にいたる、広い階層にわたって利用されてきたのとでは、旅の仕方にも違いがあったものと考えられる。(略)

南海線に沿って天見を過ぎる頃から上り坂となり、やがてヘアピン坂となって峠へと向かう。以前は、峠下に食堂が一かたまりになって並んでいたが、昭和45年に見坂から柱本まで紀見トンネルが開通してから無くなっている。

紀見峠から旧峠への道が左に最後の登りとなって向かっている。その岐路に女人堂六里の標識があり、そばに岡潔生誕地の石標がある。岡潔は、数学者で京大教授をされ、既に個人となられたがこの地の出身(生まれは大阪)であった。紀見峠は葛城28越の一つである。

紀見トンネルの真上に当たる和歌山県橋本市域に、十数軒の家々が国道を見下ろすように建っていて、それを通り抜けた旧道は急坂となって下り、沓掛の家並みを通り国道に合流する。(略)

 

石標図

130 上岩瀬  25×26×150 上が左

南無大師遍照金剛

高野山女人堂 江 七里

安政四丁巳年二月

 

131 紀見峠 25×25×150

南無大師遍照金剛

高野山女人堂 江 六里

安政四丁巳年二月 発願主 ○○

(橋本市史 下巻  現在 発願主等深埋のため不明  茱萸木村 小左衛門 五兵衛
(2016.5.27 現地確認  南無大師遍照金剛 施主 河州野村 大喜多重○門)

 

132 橋谷 23×23×135

安政四丁巳 月立之 施主 堺 和泉屋伊右エ門

是ヨリ 高野山 女人堂 江 五里

南無大師遍照金剛

  (橋本市史 下巻 施主 和泉屋伊右エ門 同 吉右エ門)

 

高野街道―京・大坂道―

てくころ文庫VOL2 高野街道

 

一 東高野街道 京都からの道

古来、「高野街道」と呼ばれてきたいくつかの高野参詣道の中で、歴史も古く交通量の多かったのが、京都から高野への東高野街道(京街道)と、河内長野でこれに合流する堺からの西高野街道で、京・大坂道として多くの人々に慣れ親しまれてきた。

京都から八幡市を経て、大阪府の枚方市に入り、生駒・金剛山系の西麓を南下し、河内長野市から紀見峠を越えて橋本市に入るルートは、延暦15年(796年)に、それまでの真土峠(紀和国境)越えから、路線変更になった南海道とほぼ同じであったと言われている。

南海道は間もなく和泉国から雄ノ山越えとなり、やがて官道としての機能を失うが、この道は、弘仁7年(816年)弘法大師空海の高野開山により、都と高野を結ぶ信仰の道としてよみがえることとなった。

 東高野街道が名実共に高野参詣道となるのは、平安時代後期11世紀末から12世紀初め頃と言われるが、中世以降村落の発達につれ、北・中・南河内を縦貫するこの街道は、単なる信仰の道だけでなく、村々を結ぶ重要な生活道路であり、また、生駒・金剛の山なみを越えて東西に走るいく筋もの街道を縫い合わせる役目を果たした。それらのことが紀見峠越えまでの緩やかな地形と相まって、高野街道としての立地条件をよくし、旅人の数は年を追って増加し、高野参詣の大動脈に発展していった。

 現在、そのルートは国道1号で洞ヶ峠から枚方市に入り、そこから南へ交野・寝屋川・四条畷・大東・東大阪・八尾・柏原・藤井寺・羽曳野・富田林・河内長野の諸都市を貫き、府道、国道170号線・371号線などによって結ばれている。多くは近代的な道路の下に埋没してしまったが、それでも諸都市の裏通りのたたずまいや、街角に残る「かうや道」と刻まれた道標などに旧街道の面影を宿しているところが少なくない。

 

2 西高野街道 大坂・堺からの道

 堺から河内長野までの西高野街道は、本来は熊野街道と東高野街道を結ぶもので、その成立は平安時代末期から鎌倉時代初期の頃と思われる。中世以降寺社詣が庶民の間に広まるにつれ、西国方面からこの街道を高野へ向かう人々が多くなったが、室町時代には京都方面からでも淀川を船で下ってこの道を行く者もあり、次第に交通量も増加していった。

 しかし、西高野街道が全盛期を迎えるのは近世以降であり、これには大阪や堺の繁栄と深い関係がある。江戸時代の寺社詣は庶民のレクリエーションであり、高野参詣の旅程の中に大坂見物を組み込むことが多かった。それらの人々が海上から堺の港に上陸した人々を合わせて、西高野街道に繰り込んだ。江戸時代後半には、この街道を通る人は東高野街道を通る人を上廻り、ついにはそのお株を奪って河内長野以南までも西高野街道と呼ばれる始末であった。

 江戸時代の西高野街道は、堺の土居川に架る大小路橋から南へ仁徳陵の東側を通り、下茶屋、中茶屋などの地名を今に残しながら、大阪狭山市を南へ貫通して河内長野に入り、楠町で大阪平野から松原を経て狭山池の東側を通る中高野街道を合わせ、原の辻で東高野街道に合流するものであった。現在、このルートには国道310号線が走り、往年の高野街道はこれに吸収されたかにみえる。しかし、国道からそれた脇道、たとえば、堺市の関茶屋の古い家並みの間の小路や、大阪狭山市の開発から取り残された水路に沿った農道などいくつかの場所は、幕末に茱萸木村(大阪狭山市)の小左衛門と五兵衛が発願して建てられた一里道標石とともにこの街道の歴史を今に伝えている。

 

3 紀見峠越え

 紀見峠越えの道も東高野街道と呼ばれてきた。峠越えの古道は紀見峠北口からすぐ「巡礼坂」を矢倉脇に下って慶賀野に出るもので峠の上を南北に縦断し、南口から「馬ころがし坂」を下って沓掛から慶賀野への新道が整備されたのは近世以降のこと。慶安元年(1648年)に紀州藩がここに伝馬所を置いたのが契機となって集落が形成され、やがて峠の宿場が栄えた。今も本陣北村家をはじめ、古い家並みが往時を偲ばせてくれる。

 明治31年(1898年)現在のJR和歌山線が五條から延長されて橋本駅が開設されると、紀見峠を通る高野参詣客は減少し、大正4年(1915年)今の南海高野線が橋本まで入るにおよんで、峠の道は高野街道としての機能を全く失ってしまった。現在国道371号は昭和44年に開通した紀見トンネルを抜けるので、峠に登って柱本に下る旧国道は静かな散策道となっている。



西高野街道ガイド

河内長野市観光協会

 

平安遷都後の延暦15年(796)に紀見峠越えの新しい道が開かれその後、弘仁7年(816)には、空海が高野山を開いたので、この街道はますます重要性を増し沿道の村々は発展しました。
 高野山に参る道には、初めは山城国(京都府)から洞ヶ峠を越えて、河内国(大阪府)に入り生駒山脈の西麓を南に下って、紀見峠から慈尊院につき、高野山町石道をのぼって大門へ通じる東高野街道が発達しました。その後、大坂からの街道は、平野から松原を経て河内長野に出る中高野街道と堺から狭山を経て河内長野に至る西高野街道が開け、江戸時代(16031867)には大変賑わいました。また江戸時代末には西高野街道には旅人の便宜をはかるために一里ごとに道標石が堺から高野山の女人堂まで13基建てられました。
 西高野街道は平安時代末から鎌倉時代初期に開かれ、室町時代には高野聖の納骨や庶民の参詣の道となり、江戸時代には天下の台所といわれた大坂、堺の町人の米・酒・綿など通商の幹線道としてにぎわい全盛期をむかえました。明治35年(1902)堺市草尾の辻に大阪府が建立した道標に「西高野街道」と刻んでいるのをみても、この道の繁栄ぶりを伝えています。
 現在、西高野街道の起点は堺市役所近くの大小路橋で、高野山女人堂とを結び、その間に堺・榎元町の十三里道標石から高野山神谷の一里道標石まで、ほぼ1里(4km)、ごとに13基の里石が建ち、すべて現存しています。安政4年(1857)の2月から9月にかけて建立したものです。

 13本の里石道標の建立を発起(発願)したのは、河内、茱萸木村(現大阪府狭山市)の百姓人・小佐衛門・五兵衛の二人ですが、その素性は全くわかりません。
 里石の石材は花崗岩で、高さは地上より約150cm前後、幅24㎝位の直方体の四面に、女人堂までの里数、建立年月、発起人両名の名、施主(建立寄進者)名、そして「南無大師遍照金剛」と刻み同じ形式でつくられています。施主はすべて河内国の人々で、一人で寄進したもの、複数の人によって建立したものとさまざまです。発起人の地元茱萸木村の十里石は、両名に敬意を表してか「村中」によって建立しています。
 小佐衛門と五兵衛がどのような方法で勧進したのか不明ですが、堺市関茶屋の十二里石は四人の世話人で浄財を集めて建立、橋本市東家の四里石は一族中で建立するなど、施主名から勧進の方法を推測することができます。
 里石道標石が建立される少し以前の弘化3年(1846)、大坂の町人の「高野より吉野・長谷寺参詣の記」という旅日記がのこっています。それによると3月19日正午前に大坂を旅立ち、堺から西高野街道に入り三日市(河内長野市)の油屋庄兵衛で一泊、翌20日雨降りのなか出発、紀見峠(橋本市)を越え紀の川を渡り三軒茶屋(橋本市賢堂)の松屋惣八で昼食、不動坂を経て高野山で投宿しています。1日半で大坂から高野山へ登る健脚に驚かされます。この旅日記に、道中でいろいろな喜捨を受けた内容を記録しています。巡礼姿の何の面識もない大坂の町人に、行く先々で、むすび一つや二つ、餅一つ二つ、あんころ餅3つと接待を受け、そのうえ草鞋まで頂いているなど当時の街道の人々の厚い心が、この旅日記ににじみでています。このような篤い高野信仰が、里石建立に結びついたものでしょう。


紀見峠 きみとうげ
紀伊見(きいみ)峠・木の実(きのみ)峠ともいう。高野街道の河内・紀伊国境の峠。標高約四〇〇メートル。国境を示す老松が街道の東の山頂(四三七・九メートル)にあり、境界松とよばれたが、現在は枯死している。「河内名所図会」に「紀見嶺(きのみとうげ) 天見村の南にあり、紀州伊都郡の界也、天見より一里十七町あり」とある。紀見峠は軍事上重要な地点であった。正慶二年(一三三三)正月、甲斐(かい)庄安満見(あまみ)(天見)で合戦があり、紀伊国の御家人井上入道ら五〇余人が楠木軍に討ちとられた(楠木合戦注文)。また峠の民家の裏に「一結衆二十七人墓 元中三年三月」と刻まれた五輪塔がある。寛正四年(一四六三)三月、嶽山(だけやま)城(現富田林市)の合戦に敗れた畠山義就は、この峠を越えて高野山に敗走した(長禄寛正記)。烏丸資慶の「高野山路之記」に、「紀の見の峠にこえかゝる。道に木たかくふりたる松三本ぞたてる。故あるさまなるをとへば、紀の国河内の境のしるしといふ。(中略)峠にのぼりぬれば、旅人の為にむすびをけるいほりあり」とある。 道標に「高野山女人堂江六里」とある。和歌山藩は峠に番所を置いて通行人を警戒した。かつては高野詣の通行人が多く、国境を紀州側へ越えたところに宿駅が設けられていた。明治時代には七〇軒くらいの人家があったが、明治三三年(一九〇〇)紀和鉄道(現国鉄和歌山線)が奈良から和歌山県橋本(はしもと)を通って和歌山まで開通してからは、紀見峠を利用する高野山参詣者は激減した。大正四年(一九一五)紀見峠トンネルが完成して大阪高野鉄道(現南海電鉄高野線)が峠を越え、昭和四四年(一九六九)国道三七一号の紀見トンネルが開通、同五一年には南海電鉄新紀見トンネルが開通した。©Heibonsha Limited, Publishers, Tokyo "きみとうげ【紀見峠】大阪府:河内長野市/天見村", 日本歴史地名大系, JapanKnowledge, http://japanknowledge.com, (参照 2016-10-05)

天見村 あまみむら
[現]河内長野市天見
天見谷の最も奥にあり、天見・下天見(しもあまみ)・上天見・島谷(しまのたに)・出合(であい)・茶屋出(ちややで)・見坂(みさか)の集落がある。高野街道に沿い、北は上岩瀬(かみいわぜ)村、西は流谷(ながれたに)村、南は紀見(きみ)峠で紀伊国に接する。正慶二年(一三三三)正月、楠木正成が前年一二月赤坂(あかさか)城(現南河内郡千早赤阪村)を奪回したのに続いて、甲斐(かい)庄安満見(あまみ)で合戦して紀州勢を破り、勢いをかって天王寺(てんのうじ)(現天王寺区)まで進出し、次いで千早(ちはや)城(現千早赤阪村)に挙兵した。「楠木合戦注文」には「一、今年正慶二正月五日、於河内国甲斐庄安満見、致合戦、打死人々、紀伊国御家人井上入道 上入道 山井五郎以下五十余人、皆為楠木被打畢」と記される。 天見村と流谷村はかつて一村であったが、建武年間(一三三四―三六)に分れたという(大阪府全志)。本多氏錦部郡大庄屋手控(中村宏家文書)の文禄三年(一五九四)の記事によると、文禄検地帳は天見村として一本で、反別三三町八反余・分米二七五石余、分米のうち一二四石余が流谷村と記される。一方、流谷村の登尾家文書によると、慶長一三年(一六〇八)には天見一〇八石余、流谷一六七石余に分けられ、寛永年間(一六二四―四四)の中頃流谷村のうち四三石余を下流谷として天見村に加え、天見村は一五一石余となり、天和二年(一六八二)より下流谷を下天見と称したという。正保郷帳の写とみられる河内国一国村高控帳では天見村高一五一石余、ほかに山年貢高六五石余。延宝年間(一六七三―八一)の河内国支配帳では二一七石余。幕末まで大きな高の変化なく、領主の変遷は長野(ながの)村に同じ。明和七年(一七七〇)の河州御領分御免状之写(中村宏家文書)では一五一石余・山方六五石余に分けて記される。天和二年より下天見村にも庄屋が置かれた(登尾家文書)。宝永二年(一七〇五)天見村の家数七〇・寺二・人数四五九、馬二・牛二一。同じく下天見村の家数四七・寺三・人数二二九、馬一・牛六(田中貞二家文書)。家数は元文四年(一七三九)天見村八四(高持七六・無高八)・下天見村四七(高持三四・無高一三)、安永四年(一七七五)天見村七〇・下天見村三〇、文政八年(一八二五)天見村六二(高持六一・無高一)・下天見村三〇(高持二六・無高四)。人数は天見村・下天見村各々享保一七年(一七三二)四七一人・二〇五人、安永三年には三七二人・一六九人、文政一一年には二六六人・一二五人(中村宏家文書)。 元禄五年(一六九二)の寺社吟味帳(吉年家文書)に八幡宮(現蟹井神社)と宮寺、融通念仏宗安明(あんみよう)寺(現真言宗御室派)が載る。蟹井(かにい)神社はもと甲斐神社といい字常盤にあり、誉田別命・神倭伊和礼彦命・息長帯比売命を祀る。天喜二年(一〇五四)の創建という。延宝四年焼失、その後再建。明治五年(一八七二)村の会所に郷学校出張所(生徒五〇人)が置かれた(大阪府史料)。 "あまみむら【天見村】大阪府:河内長野市", 日本歴史地名大系, JapanKnowledge, http://japanknowledge.com, (参照 2016-10-07)



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