史跡 中尾山古墳

史跡 中尾山古墳は、奈良県明日香村の国営飛鳥歴史公園高松塚周辺地区内にある。
中尾山古墳は、江戸時代に「中尾塚・中尾石墓」とも呼ばれた終末期古墳で、周辺には高松塚古墳や天武・持統天皇陵など多くの終末期古墳が点在している。

昭和45年以降令和2年度までに行われた測量や発掘調査により、墳丘は三段築盛で、その周囲をめぐる三重の外周石敷を有する八角墳であることが判明した。
墳丘は版築で築かれ、対辺長19.4m、高さ4m以上の規模である。
墳丘の一段目、二段目の表面は、ともに裾部に花崗岩の根石を並べ、その上に拳大から人頭大の石材を小口積にして、さらに上部に根石同様の石材を垂直に積み上げた基壇上の石積みとなっている。
墳丘の三段目は版築の盛土のみで八角形に整形されている。三段目の東側に鎌倉時代の盗掘孔がある。
外周石敷は墳丘の裾部から三重にめぐっており、外周石敷の対辺長は、三重目で約32.5mである。
墳丘周囲の石敷きから沓形の凝灰岩製の石造物が二点出土しており、形状等から墳頂に置かれていたと考えられている。 → 奈良県歴史文化資源データベース

埋葬施設は底石1石、側壁2石、奥壁1石、閉塞石1石、天井石1石、隅石(柱石)4石の合計10石の切石で構成された横口式石榔である。内法は幅及び奥行各90cmであった。
石榔壁面は非常に丁寧に磨かれており、前面に水銀朱が塗布されている。
床面の中央部は60cm四方、深さ1cmの範囲が凹状に削り込まれている。ここに火葬骨を納めた骨蔵器を安置する台があったと考えられている。
この骨蔵器は、現在失われているが、明治時代に和田村から出土したとされる金銅製四鐶壺(こんどうしかんこ)が本来中尾山古墳から出土したものではないかと推定されている。
この金銅製四鐶壺は、明治11年に古宮の水田で出土し、明治12年に御物となって、現在は宮内庁三の丸尚蔵館所管となっている。

被葬者については、第42代天皇の文武天皇に比定する説が有力視されている。
文武天皇は慶雲4年(707)6月15日に25歳で崩御した。
墓所については、「続日本紀」では「檜隈安古山陵」と記載されている。
慶雲4年(707)10月3日に造山陵司を任じ、11月12日に遺骸を飛鳥岡で火葬、11月20日に陵に葬り奉ると記されている。
一方、「檜隈安古山陵」は、「延喜式」では「檜前安古岡上陵」と記載されている。
「檜隈安古岡上陵」と記された書物、文献が下記のように江戸時代から数多くあり、「中尾山古墳」「高松塚古墳」「栗原塚穴古墳」が該当の古墳と推定されている。
宮内庁は、栗原塚穴古墳を文武天皇陵として治定している。

古墳名  中尾山古墳   高松塚古墳 栗原塚穴古墳 
 文献等    並河 誠所(大和誌)  本居 宣長(菅笠日記)  谷森 善臣(山陵考)
 秋里 籬島(大和名所図会)?  秋里 籬島(大和名所図会)?  宮内庁治定 1881年
 津川 長道(卯花日記)  安政の修陵(大和帝陵図)  

令和6年(2024)1月開催の「高松塚壁画館 冬季企画展 中尾山古墳展」では、
令和2年の発掘調査により、
天皇陵として特徴的な八角墳であることや、埋葬施設が骨蔵器を納めた火葬墓と想定されることなどから、
中尾山古墳が「檜前安古岡上陵」 つまり文武天皇の真陵である可能性は高いと考えられる
としている。



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