楠公誕生地

楠公誕生地石碑は、大阪府千早赤阪村にある。
楠木正成(1294-1336)は、鎌倉時代末から南北朝時代の武将で、幼名は多聞丸(たもんまる)と呼ばれ、後に兵衛尉(ひょうえのじょう)と称した。
幼名の多聞丸は、両親が信貴山の多聞天に祈願して授かったことから名付けられた。
元弘元年(1331)後醍醐天皇の呼びかけに応じて笠置に出向き、のち赤阪城で挙兵した。
建武元年(1334)には、従五位下検非違使に任ぜられ、河内、摂津の守護となった。
建武3年(1336)足利尊氏軍と神戸湊川で激戦を戦ったのち、弟の楠木正季(まさすえ)とともに自刃した。
当地の石碑は、明治8年(1875)2月8日に大阪会議に出席した大久保利通が、楠公関係遺跡を訪れた際、堺県令 税所篤に命じて建立したものである。
揮毫は、幕末勤王派の三剣豪の一人で、当時誉田八幡宮の祀官であった桃井春蔵直正による。
それ以前にも、文禄年間に豊臣秀吉が増田長盛に命じて土壇を築き、建武以降の楠木邸にあった百日紅を移植したという記録や、元禄年間に領主 石川総茂が保護を加えたという記録が残っている。
北側200mの所に、楠公産湯の井戸の伝承地が残っている。
近鉄長野線富田林駅からバスで千早赤阪役場前下車、徒歩5分。すぐ前にくすのきホールの無料駐車場がある。


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