西行法師ゆかりの地

西行法師ゆかりの地

西行堂

西行堂は、和歌山県かつらぎ町天野にある。
現在のお堂は、昭和61年に場所を移して再建されたものである。
吉野の西行庵弘川寺の西行堂と共に、天野の西行堂は西行妻娘ゆかりの堂として知られている。
西行妻娘の住まいとした庵を西行堂として祀った天野の里人は、再建を続け、平安時代末期から守り続けている。
妻は、西行が出家して2年後この地の後方台地に庵を建てた。
娘も15歳の時、尼となり母と共に生涯を終えたという。
母と娘はこの地に葬られ、小さな六地蔵が建てられている。


西行妻娘の墓

西行妻娘の墓は、和歌山県かつらぎ町天野にある。
西行(1118-1190)(俗名佐藤義清)は、保延6年(1140)に出家した。
西行の妻も尼となり康治元年(1142)に当地に庵を結び、読経三昧の日々を送っていた。
西行の娘も出家の志があり、京都から15歳の時に一人で天野の地にたどり着いたといわれる。
母と娘ともに仏門に入り、当地で生涯を終えた。
娘の亡くなったのは、正治元年(1199)秋彼岸といわれている。
西行堂のすぐ横に墓がある。
「撰集抄」第9冊には「西行、妻の尼に遭う事」と題した話が収められている。
出家後の西行が長谷寺に参詣した折、観音堂の前で念珠をすっている尼に歌を詠んだところ、その声に驚いた尼は「こはいかに」と声を上げたという。
尼は西行の妻で、半年ほど前に自分も出家し、娘をおばに預けて「高野のおく天野の別所」に住んでいると話したという。


院の墓

院の墓は、和歌山県かつらぎ町天野にある。
院の墓と呼ばれているが、鳥羽天皇の皇后の待賢門院の墓でなく、院に仕えた中納言の局の墓といわれている。
「山家集」には、中納言の局が待賢門院の喪に服した後、京都の小倉の住まいを経て、天野に移り住んだと記されており、久安5年(1149)の頃と推定される。
当地に庵を結び、入寂した後、里人が葬ったのがこの墓である。
すぐ横には西行堂があり、西行と関係の深かった中納言の局が、高野山への道、八町坂に住まいを定めたといわれている。
JR和歌山線笠田駅からコミュニティバスで丹生都比売神社下車、徒歩10分。


三昧堂  西行桜

高野山三昧堂は、和歌山県高野山の壇上伽藍下の壇北側にある。
延長7年(928年)、金剛峯寺座主の済高が創建した。最初の堂は、本中院谷の親王院の場所にあって、東南院と呼ばれていた。
東南院の名は、済高座主が京都市山科区の勧修寺の東南院に住したことによる。
三昧堂とは、寺院において常住の僧が法華三昧、念仏三昧などの「三昧」(精神集中の修行)をする場所で、済高座主が理趣三昧を修したことで名付けられた。
その後、歌人西行法師が治承元年(1177年)に大会堂とともにこの地に移築造営したといわれる。それを記念して、堂前には西行桜が植えられている。
現在の建物は、弘化5年(1848年)に再建された檜皮葺三間四面の堂である。
本尊は、大日如来坐像で金剛界4仏と四天王像が安置されている。
南海高野線高野山駅から南海りんかんバス「大門」行きで「霊宝館前」下車、勧学院西側の会堂坂を北に徒歩3分。霊宝館前の駐車場を利用できる。


大会堂 

大会堂は、和歌山県高野山壇上伽藍の下の檀にあり、蓮華定院・会堂とも呼ばれる。
本尊は丈六(4.85m)の阿弥陀如来で、脇仏は観音・勢至菩薩が祀られている。
安元元年(1175年)に鳥羽上皇菩提のため、皇女五辻斎院頌子(いつつつじさいいんしょうし)内親王が法幢院谷(ほうどういんだに)に創建したものが最初である。
治承元年(1177年)西行法師が奉行をつとめ、長日不断論議の学堂として檀上の現在地に移し、蓮華定院と称した。後に法会の場所となり、大会堂と呼ばれた。
現在の建物は、嘉永元年(1848年)に再建された五間四面檜皮葺の堂宇で、主として大伽藍の大法会の集会所として使用されている。
南海高野線高野山駅から南海りんかんバス「大門」行きで「霊宝館前」下車、勧学院西側の会堂坂を北に徒歩3分。霊宝館前の駐車場を利用できる。


西行庵

西行庵は、奈良県吉野山奥の千本にある史跡である。
鎌倉時代の初めの頃、西行法師(佐藤義清)が俗界を避けて、この地にわび住まいをした所と伝えられている。
佐藤義清は、京都の皇居を守る北面の武士であったが、23歳で世をはかなんで出家した。
白洲正子は、西行が吉野へ籠ったのは、待賢門院璋子への思慕から解放されるためであったと書いている。
西行は諸国を回り多くの和歌を詠んでおり、吉野山では次のような和歌が詠まれた。
   とくとくと落つも岩間の苔清水
        汲みほすまでもなきすみかかな
   吉野山去年の枝折のみちかへて
        まだ見ぬ方の花をたずねむ
   吉野山花のさかりは限りなし
        青葉の奥もなほさかりにて
   吉野山梢の花を見し日より
        心は身にもそはずなりにき
苔清水は、西行庵から200mほど離れた場所にある。
近鉄吉野線吉野駅からバスで奥千本口駅下車、徒歩15分。



西行法師像

歌聖西行法師像は、和歌山県紀の川市にある。
西行法師(1118-1190)は、俗名を佐藤義清(のりきよ)といい、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての代表的歌人である。
佐藤氏は、田仲荘・池田荘(旧打田町)の在地領主で、代々京都に出仕して左衛門尉(さえもんのじょう)や検非違使等の官職を勤めた。
西行も保延元年(1135年)、18歳で左衛門尉となり、北面の武士として鳥羽上皇を護衛していたが、保延6年(1140年)に23歳で突然出家した。
出家後は、歌道の研鑽、諸国行脚の日々を送り、宗教、文学、政治、芸能など、多方面で活躍した。
西行が育ったとされる紀の川市竹房は、西行法師像から500m東の地にあり、付近には「佐藤城址」という通称名が残っている。
西行は、建久元年(1190年)73歳で、河内国弘川寺で生涯を閉じた。
約2mのブロンズ像の台座には、次の歌が刻まれている。
  歎けとて 月やはものを 思はする 
   かこち顔なる わが涙かな
JR和歌山線打田駅から車で約10分。来訪者用の駐車スペースがある。



史跡明算上人誕生地

史跡明算上人誕生地は、和歌山県紀の川市竹房にある。
明算上人は、平安時代中期の治安元年(1021)、田中荘神崎村(現在の竹房)に生まれ、
十一歳で高野山に修学し、52歳で高野山法流の主流である中院流を開いた。
承保2年(1075)、故郷の生家に龍蔵院を建立し、一ノ宮八幡(現在、東田中神社に移築合祀)を鎮守として祀った。
寛治4年(1090)に69歳で高野山の検校執行職に就くとともに、大塔、奥院拝殿などを建立し、高野山復興の祖といわれる。
龍蔵院の東約20mに明算上人産湯とされる井戸がある。
平成18年(2006)明算上人900回忌を期して、顕彰碑が建立された。

西行法師生誕の地石碑

西行法師生誕の地石碑は、和歌山県紀の川市竹房の龍蔵院にある。
西行(俗名 佐藤義清)の一族佐藤氏は、代々京都に出仕した家柄である。
今でも龍蔵院付近が、「佐藤城址」と呼ばれることから、田中荘を治めた佐藤氏の根拠地であった。
JR和歌山線打田駅からバスで西行法師像前下車、徒歩10分。


弘川寺 西行堂 西行記念館

弘川寺は、大阪府河南町の葛城山北西麓にある真言宗醍醐派の寺院である。
寺伝によると、天智天皇4年(665年)に役小角が創建し、天武天皇5年(676年)天皇が当寺に請雨の祈願を命じ、同8年に行幸があり、龍池山弘川寺の寺号を賜ったという。
その後、天平9年(737年)には行基が当寺で修行し、宝亀年間(770-781)には、沙門光意が修学、弘仁3年(812年)には空海が嵯峨天皇の命によって中興し、密教の霊場と定められた。
文治4年(1188年)後鳥羽上皇が病気の時、当寺の座主空寂上人は宮中で尊勝仏頂の法を修して快癒したため、奥の院「善成寺(ぜんじょうじ)」の勅額を賜った。
文治5年(1189年)西行が当寺の空寂上人を慕って来寺し、「願はくは 花の下にて 春死なむ そのきさらぎの 望月のころ」との有名な和歌を残して、建久元年(1190年)2月16日に当地で亡くなった。
正平7年(1352年)光厳上皇等が賀名生に移るとき、当寺に来たことが知られる。
足利方が弘川城を攻めた時、南朝方の楠公後胤武将隅屋与一正高が奮戦の末、当寺境内大桜の下で自刃した。
大樹の桜は絶えてしまったが、「すやざくら」の名前は今も境内に記されている。
その後、河内国守護畠山政長と義就(よしなり)兄弟の争いで、寛正4年(1463年)旧伽藍は兵火で焼失した。
僧侶で歌人の似雲法師が、享保16年(1731年)当地を訪れ、西行の墓といわれる古墳を発見し、西行堂を建立した。
昭和61年(1986年)には、西行記念館が建設され、春季秋季に一般公開されている。
本坊庭園内には、樹齢350年の海棠(かいどう)が植えられており、大阪府天然記念物に指定されている。
近鉄長野線富田林駅からバスで河内下車、徒歩5分。参拝者用の無料駐車場がある。→ 全国の歌碑・句碑めぐり




西行墳

西行墳は、大阪府河南町の弘川寺本堂の北西側にある。
西行(円位)上人は、空寂座主の法徳を慕って弘川寺に来て、建久元年(1190年)2月16日に当地で生涯を終えた。
その後江戸時代に、歌僧似雲法師は、「五畿内志」の作者並河五一郎から、西行上人終焉の地は藤原俊成の歌集「長秋詠草」の所載により、河内国弘川寺であると教えられ、
江州石山寺に祈願ののち、享保17年(1732年)2月16日に西行の墓と考えられる古墳を発見した。
似雲法師は、その後西行堂を建立し、「花の庵」を建てて住み、西行の顕彰に尽くして81歳で亡くなった。
西行墳前には、尾山篤二郎筆の西行の次の歌碑が建てられている。
「願はくは 花の下にて 春死なむ そのきさらぎの望月のころ」
また、西行墳に向かう形で、似雲法師の似雲墳がある。



その他の西行法師ゆかりの地

和歌山歴史物語 諸国行脚の歌人 西行が歌い歩いた道を行く

高野街道六地藏 第一 西行庵

高野街道六地蔵第一(橋本市指定文化財)は和歌山県橋本市清水にある。
江戸時代の後半、高野山参詣者の安全を祈願して、当地から桜茶屋までの六か所に地蔵堂が建立され「高野街道六地藏」と呼ばれていた。
「紀伊國名所図会」には、次のように記されている。
「地蔵堂(清水村にあり。この堂より山上まで、六地蔵とて六体あり。その一なり。)」
第一は清水、第二が橋本市南馬場、第三が九度山町繁野、第四が同町河根(かね)峠、第五が高野町西郷の作水(さみず)、第六は同町桜茶屋にそれぞれ祀られている。
当時どのような規模で祀られていたか、明らかでないが、信仰の道に残された跡は、かつての高野山信仰を今日に伝える文化遺産である。

当地に西行庵がある。
「紀伊続風土記」の清水村の項には、
「地蔵堂 村の東端にあり 高野街道六地藏第一といふ堂内に西行の像あり
長七寸許坐像にて包を背に背負へり」
と書かれている。
平安時代末期の歌人西行が、一時止住したと伝えられ、西行像とされる像が堂内に残されており、西行ゆかりの地として
「正覚山永楽寺西行庵」と呼ばれている。

「紀伊國名所図会」には、次のように記されている。
 西行上人像 堂内に安ず。坐像。背に包みを負へり。長七寸許。西行此地にすみしといふ。
 西行松 堂の側にあり。
        西行の 草履もかゝれ 松の露 芭蕉
 衣掛櫻 堂の前にあり。光厳院法皇の御衣をかけたまへる。櫻の古木の枯れたるあとなりとて。
      今さくらの小樹を植ゑたり。
       とりかけし御衣の雫かしこみて 今も涙のちる櫻かな 橘 可折

また、太平記巻39には、光厳法皇が紀の川を渡る時に、橋から落ちて辻堂で衣を変えたことが次のように記されている。
 紀伊川を渡らせ玉へば、--- 法皇は橋の上より推し落とされ玉ひて、水に沈ませ玉ひけり。
 --- 御衣は水に漬りて --- 辻堂へ入れ進らせて、御衣を解ぎ替へさせ ---
南海高野線紀伊清水駅下車、徒歩5分。


法金剛院 

五位山 法金剛院は、京都市右京区にある律宗の寺院である。
平安時代の初めに右大臣清原夏野がこの地で営んだ山荘を、没後寺に改め、双丘寺と称したのが当寺の起こりである。
大治5年(1130年)に、鳥羽上皇の中宮待賢門院が再興し、寺名を法金剛院と改めた。
その後、弘安2年(1279年)に円覚により再興され、律宗に改められた。
本堂は、元和元年(1618年)に再建されたもので、堂内には、本尊の阿弥陀如来坐像、4本の手を持つ珍しい十一面観音坐像、僧形文殊坐像などが安置されている。また、寺宝として、蓮華式香炉などの工芸品や書画を有する。
四季折々の美しい景観は、待賢門院に仕えた西行の歌にも詠まれている。
極楽浄土に見立てた浄土式庭園の北側に巨石を並べて造られた「青女の滝」は、林賢と静意の作で、五位山と呼ばれる背後の山とともに国の特別名勝に指定されている。
花の寺としても知られ、枝垂桜(待賢門院桜)、花菖蒲、あじさいのほか、蓮の名所として名高い。
JR嵯峨野線花園駅下車、徒歩5分。参拝者用の駐車場がある。




勝持寺

勝持寺は、京都市西京区大原野南春日町にある天台宗の寺院である。
小塩山(おしおさん)大原院(だいげんいん)と号する。本尊は薬師如来像である。

寺伝によると、白鳳年間(672-686)に天武天皇の勅により役小角が草創し、延暦10年(791)最澄が伽藍を建立して、桓武天皇から「小塩山大原寺」の勅額を受けた。
のち文徳(もんとく)天皇の時代(在位850-858)に、春日明神の別当寺として大原院勝持寺と改めた。
足利尊氏の庇護を受けて隆盛したが、応仁の乱で焼失し衰退した。
本堂は、天正年間(1573-1592)に再建されたもので、江戸時代には、5代将軍綱吉の生母 桂昌院(大原野の出身)の援助を受けた。
寺宝として、木造金剛力士立像2体、木造薬師如来座像2体、大原野千句連歌懐紙(いずれも国の重要文化財)などを有している。

境内には、鏡石があり、鳥羽院の北面の武士であった佐藤義清(西行法師)がこの寺で出家した時、この石を鏡の代わりに使い剃髪したと伝わる。
西行はここに草庵を結び、一株の桜を植えたという。人々は西行桜と呼び、寺も「花の寺」と呼ばれて花の名所として知られるようになった。
太平記には、婆娑羅大名と呼ばれた佐々木道誉が、闘茶会を催したことが記されており、各種の花見の宴が開かれた。
謡曲準鬘物「西行桜」は、都、西山、西行の庵室の庭の春の姿が描かれ、勝持寺が舞台と言われている。
老木の櫻の精が
「埋木(うもれぎ)の人知れぬ身の行方にも、心の花は残りけるぞや。
花見にと群れつつ人の来るのみぞ、あたら櫻の科(とが)にはありける。」
と、西行の歌を詠ずる場面がある。

JR京都線向日町駅からバスで南春日町下車、徒歩20分。参拝者用の駐車場がある。



江口の君堂 寂光寺

江口の君堂 寂光寺は大阪市東淀川区南江口3丁目にある日蓮宗の寺院である。
宝林山普賢院と号し、本尊は十界大曼荼羅を祀っている。

江口は、桓武天皇の時代に開鑿された神崎川が、淀川と合流する地点にあり、山陽道と南海道が分かれる交通の要衝であった。
長岡京への遷都にあたり、難波の宮の遊女やくぐつを当地に移したという。
大江正房の「遊女記」には、「蓋し天下第一の楽地也」と記され、東三条院の住吉詣での際には、藤原道長が江口の名妓 小観音を寵愛した。(白洲正子「西行」)

寂光寺の寺伝によると、元久2年(1205)光相比丘尼の開創といわれる。
光相は妙之前といい俗に江口君と呼ばれた遊女で、もとは平資盛の女という。
仁安2年(1167)西行法師と歌問答した遊女妙が光相比丘尼で、問答後発心して庵を建立したのが当寺の始まりと言われる。
西行は天王寺詣での道で遊女に雨宿りを請い、断られて次の歌を詠んだ。
「世の中をいとふまでこそ難からめ 仮の宿りを惜しむ君かな」
遊女妙はすかさずに 次の歌を返した。
「家を出づる人とし聞けば仮の宿に 心留むなと思ふばかりぞ」
この見事な歌の応酬は、山家集、西行物語、撰集抄で描かれ、贈答歌は新古今和歌集に収められている。

また謡曲「江口」では、江口の君の霊が現われ、世の無常と執着の罪を説き、静かに舞ったのち、
遊女は白象に乗った普賢菩薩に変じて西の空へ消えていく形で描かれている。
境内には、贈答歌を刻んだ石碑や君塚、西行塚などがある。
阪急京都線上新庄駅からバスで江口君堂前下車、徒歩5分。


八上王子跡(八上神社)

八上王子跡(八上神社)は、和歌山県上富田町にある。
天仁2年(1109年)に熊野参詣をした藤原宗忠は「田之部(たのべ)」(田辺市)王子に奉幣後、萩生山口(下三栖近辺)で昼食をとり、山を越えて新王子社に参拝している。
この新王子社は地理的に見て、八上王子社と推定される。
境内には西行の次の歌碑が建てられている。
 「熊野にまいりけるに、八上の王子の花おもしろかりければ やしろに書きつける
  待ちきつる 八上のさくら さきにけり あらくおろすな 三栖の山風 
                                           西行」
歌碑は、大正11年に建立されたもので、当時宮内省御歌係出仕であった武津八千穂の筆である。
西行が熊野参詣の途中に立ち寄り、社殿に書き付けたといわれており 山家集(1173年)におさめられている。
西行生誕900年を記念して、平成30年11月18日に茶道・香道流派「西行庵円位流」当主の花輪竹峯により、拝殿で献香・献茶式が開催された。
また、同日上富田文化会館2階で「茶会 熊野の西行を想う」が開催された。

藤原定家も建仁元年(1201年)、後鳥羽上皇の参詣に随行して「ヤカミ王子」に参拝した。
藤原頼資(よりすけ)は承元4年(1210年)、大風雨の中、修明門院(しゅうめいもんいん)の参詣に随行して「八神」王子に参拝した。
江戸時代には、八上王子社と言われ、拝殿と経堂が設けられていた。
明治時代に八上神社となり、現在に至っている。
八上神社の主祭神は、天照大御神で、誉陀和気命、大年神、天忍穂耳命が配祀されている。
11月23日の例祭で奉納される岡の獅子舞は、和歌山県の無形民俗文化財に指定されており、「おへいさん(御幣さん)」「おばなち」の神事がある。
おばなちとは、白米の粉を水で練り餅の形に大小2個をかさねたもので、榊の葉の上に御洗米とこの神餅を檜膳に乗せ、女児が渡御する。
JR紀勢本線紀伊田辺駅からバスで紀伊岩田下車、徒歩25分。



泡子塚西行水

泡子塚西行水は、滋賀県米原市の中仙道醒井宿にある。
中仙道醒井宿は、日本武尊の熱を醒ました伝説の清水「居醒の清水」の清流で知られる。
近江名所図会に「この(醒井)駅に三水四石の名所あり、町中に流れありて、いたって清し、寒暑に増減なし」と記されている。
三水とは、居醒清水、西行水、十王水を指し、四石とは、日本武尊が腰を掛けたという腰掛石、鞍を置いたという鞍掛石、蟹の形の蟹石、加茂明神が影向したという影向石をいう。
西行水は、西行法師ゆかりの泡子塚の伝説が語り伝えられている。
西行水の岩の上に、仁安三戊子年秋建立の五輪塔があり、
「一煎一服一期終即今端的雲客泡」の十四文字が刻まれている。
伝説では、西行法師東遊のとき、この泉の畔で休憩したところ、茶店の娘が西行に恋をして、
西行の立った後に飲み残しの茶の泡を飲むと、不思議にも懐妊して、男の子を出産した。
その後西行法師が関東からの帰途またこの茶店で休憩した時、娘からことの一部始終を聞き、児を熟視して
「今一滴の泡変じてこれ児となる、もし我が子ならば元の泡に帰れ」と祈り、
 水上は 清き流れの醒井に
  浮世の垢をすすぎてやみん
と詠むと、児は忽ち消えて、元の泡となった。西行は実に我が子なりと、ここに石塔を建てたという。
今も、このあたりの小字名を、児醒井という。
JR東海道本線醒ヶ井駅下車、徒歩10分。


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