千利休屋敷跡

千利休屋敷跡は、堺市堺区宿院町西にある史跡である。
千利休は、室町時代後期の1522年に魚屋(ととや)という屋号の納屋衆田中与兵衛の長男として生まれた。
幼名は与四郎で、のちに宗易、抛筌斎(ほうせんさい)と号した。
北向道陳、武野紹鴎に師事して茶の湯を学び、茶禅一味の境地ともいうべき侘茶を完成した。
当時の武将織田信長、豊臣秀吉に茶頭として仕え、1585年の秀吉の禁中茶会に際して、正親町天皇から居士号「利休」を勅賜された。
しかし、大徳寺山門に寄進した金毛門に木像を掲げたことや、朝鮮出兵に関して秀吉の怒りにふれ、1591年切腹を命じられた。
千利休の墓は、京都の大徳寺聚光院にあるが、堺の南宗寺には遺髪が埋葬され、周囲には表、裏、武者小路、3千家の供養塔が建てられている。

この千利休屋敷跡には、茶人千利休ゆかりの「椿の井戸(椿井)」が残っている。
江戸時代、弘化2年(1845年)加賀田太郎兵衛が、利休屋敷跡に庵を建て利休産湯の井戸と伝わる井戸に、椿の炭を沈め椿井と称し、茶の湯を楽しんだ。
その後、明治38年(1905年)福助足袋の辻本氏に譲られ、辻本家から裏千家に譲られた。
昭和53年(1978年)大徳寺金毛閣大修理の際、橘大亀和尚の薦めで古材を使用して井戸屋形が作られた。
阪堺電気軌道阪堺線宿院駅から徒歩1分、南海電鉄南海線堺駅から徒歩10分。



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