銭坂城跡 

銭坂城跡は、和歌山県橋本市野にある史跡である。
銭坂城は、野の北方、標高60mの小丘にあった生地(恩地)氏の居城である。生地(おんじ)城、相賀(おうが)新城ともいう。
紀伊續風土記によると、生地氏は本姓坂上氏で、坂上氏は相賀荘下司である。
承久年間(1219-22)坂上朝澄の時、軍功によって「禿村東岡」(現在の学文路)に畑山城を築いた。
その後、生地氏は伊都郡司として楠木正成と婚姻関係を結び、河内千早・赤坂城などの戦いに加わり、以降も南朝に属して没落した。
応永年間(1394-1428)畠山基国に属し、足利義満から旧地を与えられ、永享年間(1429-41)畑山城をこの地(相賀荘)に移し、相賀新城と称して、居城としたのが始まりである。
日本城郭全集では、坂上田村麻呂の子孫 生地俊澄が築いた城とされている。
畠山氏滅亡後は織田・豊臣両氏に属したという。
城の規模は、紀伊續風土記によれば、「周三百五十間、東南北は高さ九間、西は平地、四間余の空堀あり」と記されている。
城跡は「城の内」にあり、土塁・空堀の一部が残っている。
また、城跡の北の尾根を「馬場の尾」と称し、方150mほどの平地で、出城跡といわれている。
吉田亘氏の「郷土・橋本市の城」によると、同城は、紀の川とその支流山田川にはさまれた台地の先端部に設けられた館城で、城域の北は、山田川に向かって、東は台地末端の、南は紀の川に臨んで三方が約八米の切り立った断崖状をなしていた。
城西側の土塁は、今も「鈴ケ森」と呼ばれ、小さな社が鎮座する台形の土木構築物として残され、その外側(西側)には、堀の跡が草木に覆われて残っている。
北の祠の前には、生地石見守の石碑が建てられている。
JR和歌山線紀伊山田駅下車、徒歩10分。



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