赤根屋半七宅跡

赤根屋半七宅跡は、奈良県五條市にある。
新町筋に面した交差点に、「赤根屋半七宅址」の石柱が建てられている。
五條市のホームページによると、次のように紹介されている。
赤根屋半七・美濃屋三勝 哀しい恋のものがたり
悲恋の末、大阪千日寺の墓地で遊女の三勝と心中して果てた赤根屋半七は新町通りで染物屋を営む半兵衛の息子でした。
元禄8年(1695)12月9日、ふたりは互いの体を紅絹裏の服紗縮緬で結びあわし、ともに咽喉を掻き切って死んでいたといいます。
男およそ34、5歳、女およそ24、5歳。半七たちの哀しい、はかない恋はすぐさま「三勝半七艶容女舞衣」として歌舞伎の舞台にのぼり、
次いで「三勝半七浮名の雨」「三勝半七道行尾花露」など、矢継ぎ早に劇化され、大阪・江戸の観客たちを魅了しました。
「三勝半七艶容女舞衣」は、今もなお国立文楽劇場をはじめ多くの劇場で上演されています。

人形浄瑠璃「艶容女舞衣(はですがたおんなまいぎぬ)」は、竹本三郎兵衛、豊竹応律などの合作で、安永元年(1772)大坂豊竹定吉(さだきち)座で初演された。
元禄8年(1695)に女舞の芸人 笠屋三勝と大和五条の赤根屋半七が、大坂千日寺(法善寺)火葬場東の空地(通称「さいたら畑(はたけ)」)で心中した実話に基づいている。
通称は、酒屋または三勝半七(さんかつはんしち)とも呼ばれる。
人形浄瑠璃では、大坂上塩町の酒屋 茜屋(あかねや)が舞台に設定されている。
下の巻 上塩町の段(酒屋の段)で、半七の妻 お園が次のように述べる「くどき」がよく知られている。
「今ごろは半七つぁん、どこにどうしてござろうぞ。今更返らぬ事ながら、わしという者ないならば、
舅御さんもお通にめんじ、子までなしたる三勝殿を とくにも呼び入れさしやんしたら、半七さんの身持ちも直り、ご勘当もあるまいに
(中略)
大和五條のあかね染、今色あげし艶容(はですがた) その三勝が言の葉をここに写してとどめけり。」
(日本古典文学体系99 文楽浄瑠璃集ほか 参照)

五條市内の櫻井寺には、三勝・半七比翼塚がある。
大阪市中央区千日前の松林庵(三津寺千日前墓地)には、三勝・半七の供養塔がある。→ 八十八&一二三の文楽れんらくちょう
三津寺千日前墓地の供養塔は、五代目岩井半四郎が、元禄8年12月の「茜の色揚」と題した歌舞伎公演が成功したため、建立したものという。



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