有間皇子の墓(有間皇子史跡)

有間皇子の墓(有間皇子史跡)は、和歌山県海南市藤白にある。
有間皇子(ありまのみこ)(ありまのおうじ)(640-658)は、孝徳天皇の皇子である。
母は、左大臣 阿倍内麻呂(あべのうちまろ)の女(むすめ) 小足媛(おたらしひめ)で、有間の名は父の皇子時代、有馬の湯(有馬温泉)にいたおりに生まれたことによるという。
父の孝徳天皇は大化改新時に即位したが、政治的実権を握るのは、皇太子の中大兄皇子(のちの天智天皇)で、天皇との間に軋轢が生じていた。
孝徳天皇の死後、中大兄皇子の母 斉明天皇の代となり、有間皇子は狂気を装う言動をしたが、これは先帝の遺児として政争から逃れるためだったといわれる。
斉明天皇3年(657)、有間皇子は療病のため紀伊牟婁温泉(現白浜町湯崎温泉)に行き、その良さを斉明天皇に推奨して、翌年天皇と皇太子は、牟婁の湯に赴いた。
その留守中に有間皇子事件が起きた。
斉明天皇4年(658)11月3日留守官 蘇我赤兄(そがのあかえ)が斉明帝の失政3か条を語ったのに対し、有間皇子は<吾が年始めて兵を用ゐるべき時なり>と応じ、両者で挙兵の談合があったが、
赤兄は、有間皇子を謀反人として捕らえ、身柄を牟婁の湯に護送した。
中大兄の尋問を受けた有間皇子は<天と赤兄と知る、吾もはら知らず>とのみ答え、11月11日藤白坂で絞殺された。
有間皇子の側近も処罰されたが、謀反をそそのかした赤兄は処分を受けず、その後左大臣となったことから、事件は中大兄が蘇我赤兄を用いて有間皇子をそそのかしたものと考えられている。
前田文夫氏は、小説「有間皇子物語」で、皇子の人となりと、有間皇子事件を描き出している。
万葉集には、護送の途中に詠んだ次の2首が載せられている。
磐代(いはしろ)の浜松が枝を引き結び 真幸(まさき)くあらば亦(また)かへり見む(巻2―141) → 有間皇子岩代の結び松
家にあれば笥(け)に盛る飯(いひ)を草枕 旅にしあれば椎(しい)の葉に盛る(巻2―142)

後者の歌は、佐々木信綱博士の筆で、当地に下記の歌碑が建てられている。
有馬皇子御歌
家有者笥尓
盛飯乎草枕
旅尓之有者
椎之葉尓盛

この歌は、聖徳太子の次の歌を踏まえた有間皇子の祈りが込められている。

  家にあれば妹が手まかむ草枕
   旅に臥(こや)せる この旅人あはれ (万葉集巻三)

聖徳太子が、飢えて死にかかっている若者の姿に目をとめ、食物と上着をかけていたわった。
その甲斐もなく若者は亡くなり、墓を建てたが、数日後墓に行くと、墓は空になり上着が畳まれていた。
太子は、その若者を聖人と考えたといわれる。
有間皇子は、自分も聖人となって復活したいとの願いを込めて、わざと聖徳太子の歌に似せて詠んだものといわれている。



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