有栖川宮宝塔は、和歌山県高野山奥の院御供所南側にある。
有栖川宮(ありすがわのみや)は、世襲四親王家の一つである。
初代は後陽成天皇の皇子 好仁(よしひと)親王で、寛永2年(1625)高松宮家を創立した。
2代は後水尾(ごみずのお)天皇の皇子 良仁(ながひと)親王で、花町宮、桃園宮と称したが、のちに皇位を継承した。(後西天皇)
14年の空白の後、寛文7年(1667)後西天皇の皇子 幸仁(ゆきひと)親王が3代目の宮家を継ぎ、有栖川と改称した。
10代 威仁(たけひと)親王の王子が早世して継嗣を欠くこととなったので、1913年親王の臨終に際して、大正天皇の第3皇子宣仁(のぶひと)親王が高松宮の称号により祭祀を継承した。
江戸時代の家禄は1000石で、書道、歌道を家学とした。
当地には次の4基の宝塔がある。(水原堯榮氏「高野山金石図説」を一部修正)
写真番号 | 形 状 | 宝 塔 | 被供養者 | 備考 |
① | 四重臺 五輪塔六尺七寸 | (梵字)有栖川宮寶塔 (裏)寶塔壱?基奉爲 大功徳院宮七周御忌 御菩提所被造立也 嘉永四年六月 臺石 (裏)御宿坊 興山寺 |
7代 韶仁(つなひと)親王 (1785-1845) 光格帝 御猶子 父は織仁親王 |
嘉永四年は1851年 岐阜市の崇福寺史によると 韶仁親王の法名は 「大功徳院」と記されている。 |
② | 三重臺 三尺五寸 | (梵字)翺翔院宮尊儀 | 織子女王 父は6代 織仁親王 |
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③ | 三重臺 高五尺二寸 | (梵字)本朋圓心院宮尊儀 | 5代 職仁(よりひと)親王 (1713-1769) 霊元帝 第九皇子 |
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④ | 三重臺 高四尺九寸 | (梵字)文聚院一品龍剛?親王 | 6代 織仁(おりひと)親王 (1753-1820) 桃園帝 御猶子 徳川慶喜の外祖父 |
文化9年落飾 號入道龍淵 |
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