豊後佐伯藩 毛利家供養塔

豊後佐伯藩 毛利家供養塔は、和歌山県高野山奥の院27町石北東にある。
密厳堂の対面にあるクボタ墓地の横を、参道から北に約40m登った場所に位置する。
史跡金剛峯寺境内(奥院地区)大名墓総合調査報告書によると、当地墓域内には大型五輪塔7基、中型五輪塔4基ほかがある。
主な石塔は次のとおりである。

 写真番号  供養者名  没年  法名  備考
 ① 豊後国佐伯藩 7代藩主
毛利 高丘
宝暦10年
(1760)
蘭陵院
香全性大居士
地輪は、台石の後方にある 
 ② 豊後佐伯藩 5代藩主
毛利 高久
正徳6年
(1716)
南昌院殿  
 ③ 豊後佐伯藩 9代藩主
毛利 高誠(たかのぶ)
文政12年
(1829)
寛洪院殿
 ④ 豊後佐伯藩 10代藩主
毛利 高翰(たかなか)
嘉永5年
(1852)
成徳院殿 水輪から上が倒壊
 ⑤  豊後佐伯藩 3代藩主
毛利 高直 
寛文4年
(1664) 
長川院   
 ⑥  豊後佐伯藩 4代藩主
毛利 高重 
天和2年
(1682) 
竹林院   
 ⑦ 豊後佐伯藩 6代藩主
毛利 高慶(たかよし)
享保3年
(1743)
源林院 台石と地輪が傾いている 


毛利高政を初代とする毛利家で、長州藩の毛利家とは血統的なつながりはない。
織田家、豊臣家に仕え、もともと森姓を名乗っていたが、備中国高松城攻めの講和交渉の際に、豊臣方の人質として、森高政、吉安兄弟が毛利輝元に預けられ、輝元に気に入られた縁で、毛利姓を名乗ることとなった。
毛利高政は関ヶ原の戦いの後、慶長6年に豊後国佐伯藩2万石に転封となった。
その後藩主は、高政、高成、高直、高重、高久、高慶、高丘、高標、高誠、高翰、高泰、高謙と続いて、明治維新を迎えている。



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