筑後柳川立花家供養塔

筑後柳川立花家供養塔は、和歌山県高野山の奥の院にある。
奥の院の一の橋から約50m北東にある。
立花宗茂(1569-1642)は、安土桃山から江戸時代の大名で筑後柳川藩初代藩主である。
永禄12年に豊後で、高橋紹運の長男として生まれ、天正8年(1580)立花鑑連(あきつら)の養子となり、家督を継いだ。
豊臣秀吉に従い、九州征伐では先鋒を務めた功により、柳川13万石を与えられた。
関ヶ原の合戦で西軍に属し改易されたが、慶長8年(1603)徳川秀忠に召し出され、陸奥棚倉(福島県棚倉町)に1万石を与えられた。
大阪冬の陣、夏の陣に徳川方で参戦し、元和6年(1620)再び柳川に10万9千石を与えられた。
中央の五輪塔は花崗岩製で、高さは約4mある。
地輪正面には、次のように刻されている。
  筑之後州柳川城主前飛州
  太守従四位源宗茂公追薦也
         奉爲大圓院殿
  (梵字ア)  松隠宗茂大居士
         成三菩提也
  嗣子立花左近将監従四位下
  源忠茂朝臣     建立之

俗名の宗茂がそのまま使われているのは、宗茂の名が有名であったため、変えられずにそのまま使われたといわれる。

西側の五輪塔地輪には、「長泉院殿 清誉智光大姉」」と刻されている。葉室中納言頼宣の女「菊子」で、立花宗茂の最期の室である。
寛永11年(1634)には、宗茂と菊子が婚姻していることが確認されており、宗茂の最期を看取った後、寛文10年(1633)5月17日に逝去した。


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