道三塚

道三塚は、岐阜市長良福光にある。
崇福寺から、幹線道路を西へ約5分歩き、一ブロック北上した交差点にある。
斎藤道三は、父 長井新左衛門尉(ながいしんざえもんのじょう)の跡を継いで、守護代、斎藤の名字を名乗り、国盗りに向けて勢力を伸ばしてきた。
天文13年(1544)には、稲葉山城下まで攻め込んできた織田信秀率いる尾張の軍勢を撃退した。
天文17年(1548)に和睦し、その後に道三と正室 小見の方(おみのかた)の娘である帰蝶(濃姫)が、信秀の子である信長に嫁いだ。
小見の方は、可児郡明智の城主 明智光継の娘と伝えられており、明智光秀の伯母にあたる人物である。
光秀が道三に砲術の指南を受けていたという伝承は、道三と光秀が姻戚関係にあったことと関連があるとも考えられている。
天文19年(1550)頃、道三は美濃国の守護 土岐頼芸(よりのり)を大桑(おおが)城から追放し、美濃国の戦国大名となった。
天文23年(1554)には、息子の義龍(よしたつ)に家督を譲り、自身は鷺山城に隠居したと伝えられている。
しかし、道三が義龍の弟二人を尊重し、義龍をないがしろにしたため、両者は次第に不仲となった。
天文24年(1555)、義龍は弟二人を殺すと、道三は仰天し、軍勢を集めて町を焼き払い、山県郡の山中へ撤退した。
弘治2年(1556)、長良川の戦いで道三と義龍が対決し、最終的に義龍が勝利して道三は敗死した。
道三の遺体は、崇福寺の西南(現メモリアルホール付近)に埋葬されtが、たびたび長良川の洪水で流されたため、天保8年(1837)に常在寺の住職によって現在の場所に移された。

当地の墓碑には、次のように刻されている。
(正面)
弘治二辰 四月廿日
斎藤道三公塚
(右側面)
天保八年酉十一月造立
岐阜山下常在寺廿七世日椿代
(左側面)
宗福寺村名主
井上仙蔵敬白

昭和30年(1955)に岐阜市の史跡に指定された。



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