補陀洛山寺

白樺山補陀洛山寺は、和歌山県那智勝浦町にある天台宗の寺院である。
寺伝によれば、仁徳天皇の時代(4世紀)にインド僧裸形上人が開いたと伝わる。
その後、斉明天皇の発願以来、歴代天皇の勅願所となり、文武天皇から「日本第一補陀洛山寺」の勅額が送られた。
明治時代の神仏分離までは、隣の熊野三所大神社とともに隆盛し、那智7本願の一つして千手堂と呼ばれていた。
本尊は、熊野那智大社主祭神の本地仏である木造千手観音立像で、国の重要文化財に指定されている。
大変やさしい顔の仏像で、秘仏となっており、1月27日、5月17日、7月10日の年間3回開帳される。
補陀洛山寺は、那智山への入口であり、補陀落渡海への出発地でもあった。
境内には、渡海船の復元模型が展示され、渡海を遂げた25人の僧の名前を記した「補陀落渡海記念碑」がある。
また、裏山には渡海上人たちの供養塔と、北条政子の供養塔と伝承される五輪塔がある。
「紀伊山地の霊場と参詣道」の一つとして、2004年に世界文化遺産に登録されている。
JR那智駅から徒歩3分。参拝者用の駐車場がある。

補陀落渡海

補陀落渡海は、南海の彼方にあると信じられた観音浄土での往生を目指して、那智の浜からわずかな食料とともに小舟で船出するもので、高知の足摺岬や室戸岬でも行われた。
熊野年代記によれば、最初は貞観10年(868年)の慶龍上人で、江戸時代まで合計20回の渡海が記録されている。
そのほかの文献にも渡海の記事があり、渡海記念碑には、平家物語の平維盛も含めた25名の氏名が記されている。
渡海船には、屋形が取り付けられ、屋形の前後左右を4つの鳥居が囲んでいた。これは、「発心門」「修行門」「菩薩門」「涅槃門」を潜って浄土に往生することに由来する。
渡海入定の折には、渡海上人の僧位が贈られ、供養塔(墓石)には、「勅賜補陀落渡海○○上人」と記されている。
平家物語巻第十には、寿永3年(1184年)3月28日の平維盛入水について、「浜の宮と申す王子の御まえより、一葉の船に掉さして、万里の蒼海にうかび給う。」と記載されている。
また吾妻鏡には、源頼朝の目前で鹿を射損じたことを恥じた武者「下河辺六郎行秀」が行者「智定房」となり補陀落往生を遂げたと書かれている。
作家井上靖は、昭和36年発表の短編小説「補陀落渡海記」で、金光坊や渡海上人たちの様子や心の葛藤を描いている。
一方、宗教民族学者の五来重(ごらいしげる)は、「日本人の地獄と極楽」9補陀落浄土への旅で、臨終前の僧侶を船に乗せて海上に放つ形の「水葬」であったと記している。
大永年間(1521-28)に渡海した日秀上人は、海流にのって沖縄に漂着し、各地の神社仏閣の再興に従事した。
一般的に補陀落浄土は、南の海上にあると言われているが、上記五来氏の著書では、西方への補陀落渡海として、
八代海に面した肥後高瀬(熊本県玉名市)の稲荷山古墳上の渡海碑が紹介されている。




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