藤原武智麻呂墓

史跡藤原武智麻呂墓は、奈良県五條市小島町字小島山にある。
榮山寺東側の駐車場から裏山への登山道を約25分登ったところに方形の基壇と江戸時代に建てられた墓碑がある。
藤原武智麻呂(ふじわらのむちまろ)(680-737)は、奈良時代の政治家で、藤原不比等の長男、藤原南家(なんけ)の祖である。
幼くして母を失い、病弱であったが、読書を好み仏教にも帰依した。
734年に従二位右大臣となったが、3年後に天然痘に罹り、天平9年(737)7月25日、正一位左大臣に昇進した日に死去した。
その墓は、10世紀前半に編纂された「延喜式」諸陵寮に、
「後阿陁墓 贈太政大臣正一位藤原朝臣武智麻呂 在大和国宇智郡 兆域東西十五町南北十五町 守戸一烟」
と記されているため、大和国宇智郡阿太(あだ)(現在の五條市北東部)に在ったことがわかる。
それが榮山寺背後の小島山の墳墓に該当するとして、昭和15年(1940)に国史跡に指定された。
また760年編纂とみられる「藤氏家伝(とうしかでん)」では、武智麻呂が平安京北方の佐保山で火葬されたと記されているため、当地の墓は「藤氏家伝」成立以降の改葬墓と考えられている。
榮山寺の八角堂(国宝)は武智麻呂の子 藤原仲麻呂(706-764)が父母の追善供養のため天平宝字4~8年(760~764)に建立したとされており、改葬も仲麻呂が八角堂の建立にあわせて行ったとみられる。
当地の墓は、結晶片岩の板石を積んだ上下二段の方形壇で、下壇は一辺約6m、上壇は一辺約2mの大きさである。
中央には元禄6年(1693)銘の結晶片岩製の墓碑(高さ約1.3m)がある。また榮山寺には天平9年(737)の文字が刻まれた旧墓石の破片が残っている。
小島山の中腹では、明治20年(1887)頃、蔵骨器を納めるための凝灰岩製の石櫃が発見されている。
また、「延喜式」には藤原式家の良継(716-777)の「阿陁墓(あだのはか)」が、武智麻呂の墓と同じ兆域(墓域)で記されており、当地周辺に貴族層の墓があったと推測されている。
JR和歌山線五条駅から徒歩5分の五条バスセンターまで行き、バスで栄山寺口下車、徒歩40分。榮山寺東側に駐車場がある。



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