明治維新 伏見の戦跡は、京都市伏見区御香宮神社の本殿南東にある。
石碑横の案内板には次のように記されている。
明治維新 伏見の戦跡
内閣総理大臣 佐藤栄作 書
慶応三年十二月九日 王政復古が渙発せられるや、京洛の内外は物情騒然として朝幕の間に一触即発の険悪な空気が漲った。
ところが七日の明方当社の表門に徳川氏陣営と書いた大きな木札が掲げられた。
祠官 三木善郷は早速社人を遣して御所へ注進すると翌日薩摩藩の吉井孝助(後の宮内大臣 吉井友実 歌人 吉井勇の祖父)が来てこの札を外しここに部隊を置いた。
やがて年が明けて慶應四年正月二日徳川慶喜は大軍を率いて大阪より上洛せんとし、その先鋒は翌三日の午後伏見京橋に着いた。そこでこれを阻止せんとするする薩摩藩との間にこぜり合ひが起った。
その折しも鳥羽方面から砲聲が聞こえてきたので、これをきっかけに当社の東側台地に砲兵陣地を布いていた大山弥助(後の元帥 大山巖)の指揮により 御香宮と大手筋を挟んで目と鼻の先にある伏見奉行所(現在
桃陵団地)の幕軍に対し砲撃を開始した。
これに対し土方歳三の率いる新選組は砲撃の火蓋を切って応戦し、一方久保田備中守の率いる傳習隊は官軍の前衛部隊を攻撃して奇効を奏し官軍を墨染まで撃退した。
然し翌四日軍事総裁に任じられた仁和寺宮嘉彰(よしあきら)親王は錦の御旗を翻して陣頭に立たれたので官軍の士気大いに振ひそのため幕軍は淀に敗退した。
一方鳥羽方面の官軍も一時苦戦に陥ったが錦の御旗に士気を盛り返し、幕軍を淀から更に橋本に撃退し、遂に幕軍は大阪に敗走した。
かくて明治維新の大業はこの一戦に決せられたのである。即ち我国が近代国家に進か進まねかは一に繋ってこの一戦にあったのである。
この意味において鳥羽伏見の戦に我が国史上否世界史上まことに重大な意義を持つわけである。
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