合水堂 華岡流外科顕彰碑

合水堂 華岡流外科顕彰碑は、大阪市北区中之島にある。
石碑には、次のように刻されている。
(北面)
合水堂
華岡流外科顕彰碑
(南面)
 華岡青洲は、全身麻酔薬「通仙散」を創製後、
一八〇四年世界で初めて全身麻酔による乳ガンの
摘出手術に成功しました。そして、和歌山に医学塾兼
病院として「春林軒」を創設し、一八一六年大阪中之島
に末弟野の鹿城が分塾「合水堂」を開設しました。
 鹿城が亡くなり、さらに青洲没後、一八三七年、
青洲の養子である南洋が大坂へ移り、「合水堂」を
支えました。
 華岡流外科の門人数は、現存する「門人録」に
よれば、一七八〇年から一八二二年の間に、総勢
約二二〇〇人になります。最先端の医学知識、医術を
求めて、全国各地から集まった医師の半数は「合水堂」
で学んだと推察されます。
 「合水堂」は、上方文化の中心でもあった大阪から
情報を発信して、わが国の医学の発展への大きな業績
を遺しました。
 二〇一五年は南洋の没後一五〇年、二〇一六年は
「合水堂」開設二〇〇年にあたります。
 この顕彰碑の建立によって、華岡流医術の歴史が
末永く伝えられることを願っています。

  建立 華岡青洲弟鹿城末裔
      日本医史学会
  協賛 日本麻酔科学会
  後援 第二九回日本医学会総会二〇一五関西
 二〇一五年四月吉日

華岡鹿城(1779-1827)は、江戸時代後期の医師である。
名は、文献、字は子徴、通称良平、鹿城(ろくじょう)のちに中州と号した。
安永8年(1779)、華岡青洲の末弟として、紀伊国那賀郡名手庄西野山村字平山に生まれた。
寛政8年(1796)京都に出て、吉益(よします)南涯に古医方、佐野山陰に儒学を学び、文化元年(1804)帰郷して、華岡青洲から華岡流外科を習得した。
文化元年(1804)10月13日に、石碑に書かれているように、青洲の全身麻酔による乳ガン手術が行われている。
鹿城は、青洲の薦めで和泉堺の少林寺町に開業し、文化13年(1816)大坂中之島に移り、堂号を合水堂(がっすいどう)とした。外科手術の評判が高く、後身の指導にも尽力している。
文政10年(1827)4月28日郷里で病没。(享年49)
→ なにわ大坂をつくった100人 第24話 華岡鹿城



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