高野街道
高野山へ至る道。
高野山は全山を曼荼羅世界に擬したので、その結界は厳重であった。俗に中台八葉といって壇上伽藍の金堂と根本大塔の周囲に内八葉、外八葉という一六の峰があるといい、その間から外界に道が通じていた。これを高野七口といったが、主要道路は西の大門(だいもん)口、北の不動坂(ふどうざか)口(女人堂口)、東の奥院口(大峯口)である。南の口は奥高野の村々との交通路で、湯川(ゆかわ)口・相(あい)ノ浦(うら)口・大滝(おおたき)口がある。湯川口は古代・中世には高野山領阿河(あてがわ)荘から有田川筋を南紀へ出る交通路として重要であった。このほか北東に向かって黒河(くろこ)・久保(くぼ)(現九度山町)に出る久保口(黒子口)の間道もあり、七口に数えられた。
大門口には西に向かう高野山の正門の大門があり、貴族の正式の参拝や高野山の地主神天野明神への参拝、紀ノ川筋に位置した高野政所への往来に使われた。「白河上皇高野御幸記」によると、寛治二年二月二三日に上皇の一行は奈良を出て「御火打崎」(現奈良県五條市火打町)に一泊、二四日に紀ノ川南岸を高野政所に着いた。二五日はここから笠木(かさぎ)(現九度山町)まで歩いて仮屋に一泊し、二六日は笠木坂を登って尾根筋へ出、花坂(はなざか)(現高野町)の矢立(やたて)から大門へ達している。鎌倉時代には登山の目安として、慈尊(じそん)院(現九度山町)と高野山壇上伽藍の金堂までの間一八〇町の一町ごとに町石一八〇本が立てられた。これを町石(ちよういし)道といい、町石道が正式の高野街道になったのは、空海が現五條市火打(ひうち)町に近い犬飼(いぬかい)で「南山の犬飼」(狩人)と名乗る高野明神に会い、その案内で天野丹生津比売神に出会ったという開創縁起の道だからであろう。空海は大和弘福(ぐふく)寺(現奈良県明日香村)を、京都から高野山までの中宿として賜ったと伝え、とすれば奈良・飛鳥・五條を経由したと考えられる。また高野山にはその西方に中世・近世を通じて所領があり、これを結ぶ道は大門口を下った花坂の矢立で西に分岐し、志賀(しが)(現かつらぎ町)、鞆淵(現和歌山県粉河町)、荒川(あらかわ)(現同県桃山町)、長谷(はせ)・毛原(けばら)・神野(こうの)・真国(まくに)(現同県美里町)の諸荘園に至った。現在は高野山から和歌山市・海南市へ出る道として整備されている。
ところで中世以降、京都から山城の八幡(やわた)(現京都府八幡市)を経て河内国に入り交野(かたの)・私市(きさいち)(現大阪府交野市)、石切(いしきり)(現同東大阪市)、高安(たかやす)(現同八尾市)、古市(ふるいち)(現同羽曳野市)を経て長野(ながの)(現同河内長野市)に至り、堺から長野へ至った道と合して紀見(きみ)峠を越え、慈尊院を通って高野山に達する道が、もっぱら使われることになった。近世には橋本(現奈良県橋本市)から学文路(かむろ)(現同上)・河根(かね)(現九度山町)・神谷(かみや)(現高野町)を経て不動坂から女人堂へ登る不動坂口が表参道のようになり、大門口は裏参道の観を呈するようになった。不動坂の急坂には「腰押」という職業があり、丁字形の棒の横木を登山者の腰にあてて後ろから押して登らせ、料金をとっていたという。現在は南海電鉄が不動坂下の極楽橋に至り、ケーブルカーで女人堂へと結んでいる。
奥院口は桜(さくら)峠・天狗木(てんぐき)峠を経て現奈良県大塔村阪本(さかもと)から同県天川村洞川(どろがわ)に出る。空海が青年時代に吉野から「南行一日、西行両日程」にして高野へ達したと「性霊集」巻九に述べる山道で、大峯(おおみね)登山から洞川へ下山して、この道を高野へ出る者が少なくなかった時代には盛んに用いられた。洞川には坪内(つぼのうち)弁天社(天河神社)があって宿坊を提供した。湯川口は大門から南に下り新子(あたらし)(現和歌山県花園村)に出て、有田川筋に沿い押手(おして)・清水(しみず)(現同県清水町)、金屋(かなや)(現同県金屋町)、有田(現同県有田市)で熊野街道に合流する道と、新子から箕(みの)峠を越えて護摩壇(ごまだん)山・竜神(りゆうじん)(現同県龍神村)を経て南部(みなべ)(現同県南部町)で熊野街道に合流する道とがある。この道は竜神で東に分岐し、果無(はてなし)山脈に沿い十津川街道の七色(なないろ)(現奈良県十津川村)を経て熊野本宮とも結んだが、今は使われていない。現花園村は古く高野山の堂舎に供える樒(供花)を出す村でもあった。なお大滝口・相ノ浦口・久保口は奥高野の村々の木工細工品の搬出と生活必需品の搬入に用いられ、高野山に鉄道とケーブルカーなどが開設されるまでは、薪炭・野菜などの供給に欠かせない道であった。
橋本市
面積:一〇七・八六平方キロ
和歌山県の東北隅に位置する。旧伊都(いと)郡の東半を割いてできた市で、西流する紀ノ川が市域を南北に二分する。東は落合(おちあい)川・東(ひがし)ノ川で奈良県五條(ごじよう)市と境し、北は和泉山脈で大阪府河内長野(かわちながの)市、西は吉原(よしはら)川付近で伊都郡高野口(こうやぐち)町に、南は丹生(にう)川付近で同郡九度山(くどやま)町、七霞(ななかすみ)山で高野町に接する。紀ノ川両岸に河岸段丘、低い洪積台地、氾濫原があり、北に和泉山脈の急な南斜面、南に南部山地の北斜面が広がる。南海道(大和街道)と高野参詣道が交わり、また紀ノ川水運の拠点で、交通上の要衝として発展した。天正一三年(一五八五)木食応其が古佐田(こさだ)村の一部を再開発し、次いで紀ノ川に一三〇間の橋を架したことから橋本の地名が起こったという。
〔原始〕縄文時代の遺物は、下兵庫(しもひようご)の紀ノ川河岸段丘上から縄文時代後期―晩期の土器破片と石器が発見されているだけである。弥生時代の遺物は、紀ノ川流域平坦地の垂井(たるい)・中下(ちゆうげ)・上兵庫・下兵庫・上田(うえだ)・東家(とうげ)・神野々(このの)・学文路(かむろ)などから出土。このうち紀ノ川支流の宮(みや)川沿いに、中下の血縄(ちなわ)遺跡、垂井の女房が坪(にようぼうがつぼ)遺跡・堂本(どうもと)遺跡・榎塚(えのきづか)遺跡が連なり、この地域が弥生時代には最も発達していた。古墳の代表的なものは古佐田の陵山(みささぎやま)古墳、中島(なかじま)の八幡宮(はちまんぐう)古墳、市脇(いちわき)の市脇古墳群で、後期の簡単な竪穴式古墳が垂井・上兵庫・東家・西畑(にしはた)などにある。隅田(すだ)八幡神社には有名な銘文をもつ人物画像鏡が伝存する。
〔古代〕紀ノ川沿いに走る南海道の交通上の要衝として発達し、「万葉集」にみえる真土(まつち)山・角太(すみだ)河原・妻社(つまのもり)・大我野(おおがの)などが市域に比定されている。白鳳期の寺院跡として神野々の河岸段丘上に神野々廃寺跡、古佐田の橋本駅付近に古佐田廃寺跡がある。隅田八幡神社付近の河岸段丘上には条里制の遺構も残る。「和名抄」記載の伊都郡内の郷のうち、賀美(かみ)郷が隅田地区を中心とした地、村主(すぐり)郷が市の西端部から高野口町にかけた地に比定される。平安遷都で南海道はしだいに廃れるが、弘仁七年(八一六)の高野山開創はその膝下にある当市域に大きな影響を及ぼしたとみられる。なお九世紀頃、御幸辻(みゆきつじ)付近に河内国観心寺領近河内(ちかごうち)庄、山田付近に同寺領大山田(おおやまだ)庄があったことがわかる。
〔中世〕一〇世紀以降荘園制が発展し、寛和二年(九八六)ごろ隅田庄が石清水(いわしみず)八幡宮寺領として成立した。同庄は延久四年(一〇七二)当時荘田二九町にすぎなかったが(石清水文書)、応永八年(一四〇一)には一三二町余の荘田を有する荘園となった(隅田家文書)。鎮守社の隅田八幡宮は荘民の信仰を集め、一二世紀以降、荘内にのち隅田党とよばれる武士団が成長した。武士団の祖藤原忠延は隅田八幡宮の俗別当職、隅田庄の公文職を獲得して在地に勢力を扶植し、のちにこの家は隅田氏を名乗り、荘内の有力住人を一族に組入れつつ、隅田惣領家としての位置を確立させていった。利生護国(りしようごこく)寺(護国寺)はその氏寺である。鎌倉時代後期、隅田氏は北条氏の被官となり、隅田庄の地頭代職を獲得し、北条氏の側近として活躍する。なお北条氏が深く帰依した南都西大寺の叡尊が、このころ隅田地方を中心に宗教活動を行っている。元弘三年(一三三三)の鎌倉幕府倒壊の際に隅田惣領家は北条仲時とともに滅んだ。隅田党はこの後、葛原・上田両氏らの有力庶子家が中心となり、一族一揆的な武士団に変貌した。
隅田庄西の相賀(おうが)庄は長承元年(一一三二)頃、高野山の僧覚鑁の住房密厳院領として成立し、下司には伊都郡の雄族坂上氏が代々補任された。
これらの荘園は「元弘の勅裁」とよばれる後醍醐天皇の裁定で元弘三年、紀ノ川を境に南北に分れ、河北は従来の領主、河南は高野山の支配となった。相賀南庄では応永二年高野山による検注が行われている。この体制は中世末期まで変わらないが、在地諸勢力の成長などで領主の支配力は後退していった。在地武士は隅田党のほか、相賀庄下司で天野(あまの)社(現伊都郡かつらぎ町)の氏長者を称した坂上氏が学文路の畑山(はたやま)城に拠っていたが、南北朝頃より生地(恩地)氏を名乗って野の銭坂(ののぜんざか)城に拠った。また畠山氏にくみした牲川氏が、細川(ほそかわ)に長藪(ながやぶ)城を築いて付近を領したと伝える。隅田党の居城では垂井の岩倉(いわくら)城、中島の霜山(しもやま)城が知られる。しかし戦国末期にこれら諸氏は松永久秀に滅ぼされ、織田信長・豊臣秀吉の紀州侵攻でその配下となった。なお鎮守社や村堂の信仰を中心とした村落の形成が、西光寺文書や隅田家文書などからうかがわれる。
〔近世〕天正一三年豊臣秀吉は高野山をはじめ諸寺の所領を没収し、紀州平定に最後まで抵抗した根来(ねごろ)寺(現那賀郡岩出町)をことごとく焼払った。その余勢で高野攻めを沙汰したが、高野山の僧木食応其の仲介で高野山はかろうじて焼打ちを免れ、応其の尽力により秀吉は高野山復興のため三千石の寺領を安堵した。同一九年には高野山は一万石の朱印地を下付され、翌二〇年には一万一千石(応其領を含む)を加増されて計二万一千石となった。橋本市域の内、相賀南庄の村々と丹生川上流の下宿(しもやどり)村がこの朱印地に含まれる。慶長五年(一六〇〇)浅野幸長が紀伊国に入部し、翌年の検地で市域の高野山領以外の四六ヵ村の高が打出された。徳川氏時代にもそのまま高野山領は認められ、慶安三年(一六五〇)には中道(なかどう)村が高野山興山(こうざん)寺東照宮領として、新たに高野山領に編入された。以後、近世を通じて市域は和歌山藩領と高野山領に分れて支配された。
天正一三年応其は紀ノ川北岸の開発を行った。同一五年に開発地は町屋敷として秀吉から免許され、橋本町が成立した。町助成のための塩市の特権も認められ、大和や紀ノ川流域の村々へ搬出される塩は必ず橋本町の塩市で取引することとされた。橋本町は高野街道と伊勢街道(大和街道)の交差点の宿場町・船継場となり、周辺物資の大部分が集められて売買され、物資輸送の川舟が和歌山との間を往復して繁栄し、藩の伝馬所も置かれた。なお応其は橋本町を開いたほか、垂井の岩倉池、南馬場(みなみばば)の平谷(ひらたに)池などを築造している。
高野街道は近世になると西の名古曾(なごそ)(現伊都郡高野口町)からの紀ノ川渡河に代わって、橋本・東家で南岸に渡るのが一般的になった。紀ノ川には無賃の横渡船も設けられ、清水(しみず)・学文路から河根(かね)峠(現伊都郡九度山町)を経て高野山に至る不動坂(ふどうざか)道が表参道とされた。橋本町の発展は紀見(きみ)峠経由の物資輸送も盛んにし、紀見峠には慶安元年に藩の伝馬所が設置された。市域の特産に霜草(しもくさ)の煙草があり、真土峠の膏薬は土産品として売られていた。「南紀徳川史」によると学文路の名産に牛蒡・小豆があり、橋本では干瓢を製していた。
〔近現代〕明治二二年(一八八九)の市制町村制施行により、市域に橋本町・紀見村・隅田村・恋野(こいの)村・学文路村・岸上(きしかみ)村・山田村が成立。昭和二九年(一九五四)隅田村・恋野村が合併して隅田村となり、翌三〇年一町五ヵ村が合併して橋本市となって現在に至る。
和歌山と伊勢・大和を結ぶ大和街道は国道二四号として整備され、旧道は所々にわずかに残る。紀見峠越の高野街道は昭和四四年に紀見トンネルが開通して国道一七〇号となり、大阪・京都と短時間で結ばれるようになった。両国道とほぼ並行して国鉄和歌山線・南海電鉄高野線が走り、橋本駅は両線の乗入駅で、紀北随一の交通の要衝となっている。市域はかつらぎ高野山系県立自然公園に含まれ、丹生川上流部の玉川(たまがわ)峡(九度山町分を含む)は県指定名勝。
高野口町
面積:二〇・〇八平方キロ
紀ノ川中流域右岸の和泉山脈の南斜面に位置し、北は大阪府、東は橋本市、西はかつらぎ町、南は紀ノ川を挟んで九度山(くどやま)町。九度山町北西部に飛地がある。町の南部を紀ノ川に沿うように国道二四号、国鉄和歌山線が東西に通る。霊場高野山への登山口として高野山有料道路への道が出ている。農林業が主産業だが、併せて織物業が盛んである。この織物業は江戸時代奨励された綿織物が発展したもので、明治初期に九重(くじゆう)出身の前田安助が織り方・柄などに改良を加え、当地はこの地方の織物の一大中心地となった。しかし明治末期には和歌山市を中心とする綿ネル生産技術の発展にたち遅れ、当地の綿ネル業はモール織を主とする再織に転換した。大正後期には新たにパイル織物の一種、シール織が始められ、技術の改革や内外の需要によって各種の製品が作られるようになり、現在に及んでいる。製品には内地合繊シール、モケットベロア、輸出綿シール、メリヤスシールなどがある。
明治二二年(一八八九)町村制施行によって名倉(なぐら)村など四村が成立。同四三年名倉村が町制を施行して高野口町となる。昭和三〇年(一九五五)高野口町・応其(おうご)村・信太(しのだ)村が合併して高野口町となった。
菖蒲谷村
[現]橋本市菖蒲谷
三石(みついし)山の南麓にあり、東南は小原田(おはらた)村。高野街道御幸道(京路)が通る。「続風土記」に「古此村の谷菖蒲多き歟又は他所よりは宜きか村名是より起れるなるへし、村中地蔵寺の巽に当りて菖蒲池といふ池あり、今は名のみにして菖蒲はなし」とみえ、小名に田和(たわ)がある。嘉元四年(一三〇六)七月六日付の紀行友屋敷田畠処分状(西光寺文書)によれば、相賀(おうが)庄の「シヤウフ谷タハノカキウチ」にあった行友の屋敷地・田畠が紀千松女に宛行われ、千松女は元弘三年(一三三三)一一月二二日の紀千松女田地売渡状(同文書)でその一部を山田(やまだ)村仏物(大聖不退寺)へ売渡し、これは貞和五年(一三四九)七月二八日には柏原(かせばら)村西光(さいこう)寺仏物として山田村人から西光寺へ売却されている(「山田村人等田地売渡状」同文書)。この「タハノカキウチ」は小名の田和であろう。元弘元年一二月日付の沙弥行仏田地売渡状(同文書)には「相賀御庄河北タワ村」とある。
慶長検地高目録による村高三四六石余、小物成六升五合。上組に属し、慶安四年(一六五一)の上組在々田畠小物成改帳控(土屋家文書)では小物成は桑五束、茶一斤余、紙木四四束で、家数三七(本役一〇など)、人数一四三、牛一五、馬一。江戸時代末期には家数五八、人数三八一と増加している(続風土記)。天保一一年(一八四〇)に出塔(でとう)村・柏原村と当村との間に山論が起こり、その後も相論が繰返されている(小林家文書)。「続風土記」は社寺として産土神の権現社、大夫宮、瘡病に利益のあるという加佐塞神社、弁財天社、地蔵寺、権現社の別当寺である観音寺(現普賢寺)を記す。普賢寺(高野山真言宗)の本尊普賢菩薩は彫眼の古仏で行基の作と伝え、境内に応永九年(一四〇二)の五輪石塔と、同一二年の宝篋印塔がある。当村の赤坂(あかさか)池は応其の築造という(同書)。
岸上村
[現]橋本市岸上
紀ノ川の北岸、大和街道沿いにあり、西は神野々(このの)村。「続風土記」は「幾志乃宇遍」の訓注を付する。建久三年(一一九二)七月二七日付の本家下文案(又続宝簡集)に高野山領官省符庄の「河北方長栖大野山田村主川辺岸上」とある「岸上」は、当地と考えられる。この文書のうち「村主」は「和名抄」の村主(すぐり)郷に比定され、岸上村付近も村主郷の内であったと考えられている。
慶長検地高目録には村高三九三石余、小物成三・六四四石。江戸時代初期は禿組に属し、延宝五年(一六七七)の禿組指出帳控(大畑家文書)には「岸之上村」とみえ、村高三九九石余、家数五九(本役二七・半役一七など)、人数四二〇、牛二五、馬四。江戸時代末期の「続風土記」では村高に大きな変化はないが、家数二四一・人数九〇〇と増加し、この頃は中組に属した。同書は照光(しようこう)寺(浄土真宗本願寺派)・徳明(とくみよう)寺(真宗大谷派)を記す。延宝の指出帳控は「御留淵岸ノ下」について「是ハ南岸之下ニ有、川南寺領丁田領伊都郡相賀ノ庄給所」であるとする。
神野々村
[現]橋本市神野々
紀ノ川右岸の小高い丘陵地にあり、紀ノ川を隔てて南は学文路(かむろ)村。東西に大和街道が通り、東端を高野山詣の御幸道が通る。「続風土記」には加宇乃々(かうのの)の訓注がある。
古く「紺野村」と称し(続風土記)、建長八年(一二五六)三月日付の尼宝蓮御影堂陀羅尼田寄進状(又続宝簡集)に金剛峯寺御庄之内河北方として「紺野村字森田」がみえ、高野山領官省符(かんしようふ)庄上方に含まれていた。応永三年(一三九六)五月日付の官省符上方惣田数分米目録・官省符上方惣畠数分麦目録(又続宝簡集)によれば、紺野村の田数一七町一反余、分米六九石余、畠数五町二反余、分麦八石余、在家一〇宇であった。なお元中元年(一三八四)九月一五日のトウク房畠地寄進状(西光寺文書)に「コウノヽ村」とあるのは当村のことと考えられ、村内岩井殿の御薗生の北裏一所が柏原(かせばら)の阿弥陀仏に寄進されている。相賀庄惣社大明神神事帳写(相賀大神社文書)所収の天授三年(一三七七)頃の文書に「神野々村」とみえ、相賀大(おうがだい)神社の八月放生会に米一斗を出している。
慶長検地高目録には「神野村」とみえ、村高七一二石余、小物成一石四斗七合。江戸時代初期には禿組に属し、延宝五年(一六七七)の禿組指出帳控(大畑家文書)では家数五六(本役一二・庄屋一・肝煎二など)、人数二八三、牛二〇、馬三。江戸時代末期は中組に属した(続風土記)。
観音寺(高野山真言宗)は聖観音を本尊とし、寺蔵の大般若経六〇〇巻は最も古い保元三年(一一五八)奥書のものをはじめ、文治年間(一一八五―九〇)のものが多く含まれ、また一七三巻分の紙背には「東大寺正蔵院」の墨印があり、奈良東大寺からもたらされたことがわかる。六郷極楽(ろくごうごくらく)寺(単立)の本尊阿弥陀如来は鎌倉時代の作で、境内に正平七年(一三五二)・同一三年銘の五輪塔や、天正一七年(一五八九)銘の六斎念仏供養碑などがある。「続風土記」はほかに小祠七社(荒神社・八幡宮など)を記す。
九度山町
面積:四六・三〇平方キロ
伊都郡のほぼ中央部、高野山の北麓一帯を占める町で、北は紀ノ川を境に高野口(こうやぐち)町、西は雨引(あまびき)山から南に延びる尾根を境にかつらぎ町、東北から東にかけては橋本市、南は高野町に囲まれる。なお町域は高野町が南側中央部で深く北に入込んでいるため、東西に二分され、東側は山地で丹生(にう)川とその支流域にわずかな集落が点在するにすぎない。
町の中心である九度山は、紀ノ川南岸で支流の丹生川が流れ込む付近に位置し、近世には高野山への荷揚げや、木材の集積地ともされた。現在もこの地が高野山登山道の起点とされ、不動谷(ふどうだに)川沿いには高野山有料道路が通り、さらには南海電鉄高野線も走る。しかし中世まではその西の慈尊院(じそんいん)に高野政所があり、高野山参詣の登山口とされるとともに、高野山経済の要として重要な位置を占めた。近世に入ると木食応其により、橋本から同市内学文路(かむろ)を経て南に登る参詣道が整備され、以後はこの道が表参道として栄え、その道沿いの町内河根(かね)が賑った。町の産業としては木材や伝統の高野紙が製造されたが、現在は農林業のほか、蜜柑・柿などの果実栽培や織物業が盛んである。
明治二二年(一八八九)の町村制施行により河根村・九度山村の二村が成立。九度山村は同四三年に町制施行。昭和三〇年(一九五五)には河根村と合併して現在に至る。なお丹生川上流部の峡谷(橋本市域を含む)は玉川(たまがわ)峡とよばれ、県指定名勝となっている。