御幸道(ごこうみち、みゆきみち)は、和歌山県橋本市にあった高野参詣の道である。
御幸は、上皇、法皇などの外出のことで、天皇の行幸と区別して用いられた。
紀伊続風土記には、「御幸道」として、神野々村の説明の中で、次のように記されている。
○御幸道
村の東岸上村との界にあり里人傳へて 宇多帝高野山 御幸の時の道といひて 紀伊見峠より名倉村に通る往還なり
此道に経讀地蔵と云ふ石佛あり
また、辻村、柏原村の箇所にも御幸道の説明があり、柏原には、「大道」という小字名も残っている。
大正8年刊行の「和歌山縣伊都郡誌」第八編名所旧跡誌 岸上村の項には、次のように記されている。
御幸道
岸上と山田村大字神野々との境界に御幸道と称する道あり。
現今は幅員三尺位の野道に過ぎざれども、古は紀見峠より菖蒲谷を経て慈尊院に通ずる高野往還の古道なり。
宇多法皇高野山へ行幸の砌此道を御通過せられしより此名ありとぞ。
平安時代後期から鎌倉時代には、多くの皇族、貴族の高野参詣が記録で確認できるが、高野山への道程が記されたものは多くはなく、その上この御幸道を通ったと考えられるのは、数例に限られる。
(1)覚法法親王
久安4年(1148年)「御室御所高野山参詣日記」
(2)藤原頼長
久安4年(1148年)「台記」
(3)後宇多院
正和2年(1313年)「後宇多院御幸記」
これらは、いずれも河内国から紀見峠を越え、現在の橋本市御幸辻で西へ向かい、菖蒲谷から南下し、出塔、柏原を経て、神野々に至る。
神野々と岸上の間の道は、国道24号線紀伊山田駅から紀北工業高等学校に至るもので、同校前から西へ折れ、高野口町名倉を経て、紀ノ川を渡り、慈尊院に至ったと考えられている。