畑山城跡は、和歌山県橋本市学文路にある。
紀伊続風土記 相賀荘 野村の銭坂城の項に次のように記されている。
○銭坂城跡
村中にあり 村中にあり 周三百五十間 東南北は高さ九間 西は平地 四間餘の空堀あり
生地氏の城跡なり
生地氏(大和の恩地 河内の恩智 紀伊の生地 文字も唱へもいささか異なれども) 本姓は坂上姓にて田村将軍四世の孫正六位上志摩椽坂上仲澄の後なり (中略)
孝澄の子 彦太郎朝澄 承久年中(1219-1222) 軍功ありて当荘(相賀荘)にて悉地を賜はり 則城を禿村東岡(今其地詳ならず)に築き畑山城と名つく (後略)
このように、坂上氏は朝澄(ともずみ)の代に関東から来り畑山(はたやま)城を築いて代々居住した。
殊に、朝澄の孫、右衛門大夫長澄(ながすみ)、その子 尹澄(ただすみ)の二人が相次いで伊都郡司となってから勢力を加えた。
尹澄は、楠木正成の妹を娶り、その縁で正成の旗下になり軍功もたてている。
尹澄戦死後、子孫が生地と姓を改め、南朝に仕えて、楠木正行等と共に尽くした後、楠木氏の滅亡とともに、勢力を失い諸国に流離した。
俊澄(としずみ)の代に、畠山基国に属して、そのすすめにより、足利将軍義満から旧地を与えられて、再び相賀荘に戻った。
そして、永享年間(1429-1441)に畑山城を野村銭坂に移し、相賀新城と呼んだ。
現状は山林で、頂上部に削平された主郭(20m×30m)と幅の狭い帯郭が巡らされている。
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