日牟礼八幡宮は、滋賀県近江八幡市宮内町にある。
祭神は、誉田別命(ほんだわけのみこと)、比売神(ひめかみ)、息長足姫尊(おきながたらしひめ)の三神である。
正暦2年(991)に宇佐八幡宮を勧請し、八幡山の山上に社殿(上社、上八幡)を建立したのに始まるといわれる。
寛弘年間(1004-12)、山下に社(下社、下八幡)を建て、2社を構えていたが、天正13年(1585)八幡城築城時に合祀されたと伝わる。
上社は滋賀県多賀町興隆寺の、下社は近江八幡市小船木町願成就(がんじょうじゅ)寺の鎮守であったといわれ、両寺とも八幡築城時に八幡山から現在地に移転したといわれる。
社宝として、木造誉田別尊坐像、比売神坐像、息長足姫尊坐像、木造男神坐像があり、いずれも鎌倉時代の作で、国の重要文化財に指定されている。
また、土地の豪商、西村太郎右衛門が奉納した絵馬 安南渡海船額(国指定重要文化財)があり、複製が絵馬殿に掲げられている。
慶長8年(1603)、豪商西村嘉右衛門の二男として生まれた太郎右衛門が安南国交趾(こうし)(現在のベトナム北部)に渡り、朱印船貿易で財を成した。
しかし、鎖国令のため帰国が許されず、正保4年(1647)画家 菱川孫兵衛に描かせた絵馬を、郷里の産土神である当社に奉納したものである。
JR東海道線近江八幡駅からバスで大杉町下車徒歩すぐ。門前に参拝者用の駐車場がある。
日牟礼八幡宮の氏子圏は、古くは比牟礼荘一三村(郷)で、江戸時代には馬場村に替わり八幡町が加わり、一町一二村となった。
現在3月中旬に行われる左義長は、江戸時代に八幡町の人々が他の一二郷で執り行っていた例大祭に参加を拒まれたため、安土から移住してきた八幡町の住民がこれに対抗して始めたと伝えられる。
藁で編んだ三角錐の松明を胴体に、短冊形の赤紙やくす玉、扇などで飾った青竹をつけた左義長は、2日間町内を巡行し、最終日の夜午後8時から、御神火で燃やされる。
揃いの半纏をまとった若衆が左義長を担いで「チョウヤレ」と踊る威勢のいい祭で、「信長(しんちょう)記」には、織田信長が、安土城完成を喜び、自ら「異装華美な姿」で左義長踊りに加わったと記されている。
4月14日に行われる八幡祭の宵宮(松明祭)は、応神天皇が大島奥津島神社参詣の帰りに葭で作った松明で道案内され、当社に立ち寄った故事にちなむといわれる。
各町で作られた10mを越える巨大な松明に順次奉火されるもので、日本一の大火祭ともいわれる。
4月15日の例大祭では各郷から太鼓が繰り出されることから、太鼓祭と呼ばれる。
左義長祭と八幡祭は、近江八幡の火まつりとして、国選択無形民俗文化際に指定されている。