弘川寺は、大阪府河南町の葛城山北西麓にある真言宗醍醐派の寺院である。
寺伝によると、天智天皇4年(665年)に役小角が創建し、天武天皇5年(676年)天皇が当寺に請雨の祈願を命じ、同8年に行幸があり、龍池山弘川寺の寺号を賜ったという。
その後、天平9年(737年)には行基が当寺で修行し、宝亀年間(770-781)には、沙門光意が修学、弘仁3年(812年)には空海が嵯峨天皇の命によって中興し、密教の霊場と定められた。
文治4年(1188年)後鳥羽上皇が病気の時、当寺の座主空寂上人は宮中で尊勝仏頂の法を修して快癒したため、奥の院「善成寺(ぜんじょうじ)」の勅額を賜った。
文治5年(1189年)西行が当寺の空寂上人を慕って来寺し、「願はくは 花の下にて 春死なむ そのきさらぎの 望月のころ」との有名な和歌を残して、建久元年(1190年)2月16日に当地で亡くなった。
正平7年(1352年)光厳上皇等が賀名生に移るとき、当寺に来たことが知られる。
足利方が弘川城を攻めた時、南朝方の楠公後胤武将隅屋与一正高が奮戦の末、当寺境内大桜の下で自刃した。
大樹の桜は絶えてしまったが、「すやざくら」の名前は今も境内に記されている。
その後、河内国守護畠山政長と義就(よしなり)兄弟の争いで、寛正4年(1463年)旧伽藍は兵火で焼失した。
僧侶で歌人の似雲法師が、享保16年(1731年)当地を訪れ、西行の墓といわれる古墳を発見し、西行堂を建立した。
昭和61年(1986年)には、西行記念館が建設され、春季秋季に一般公開されている。→ 西行法師ゆかりの地
本坊庭園内には、樹齢350年の海棠(かいどう)が植えられており、大阪府天然記念物に指定されている。
近鉄長野線富田林駅からバスで河内下車、徒歩5分。参拝者用の無料駐車場がある。→ 全国の歌碑・句碑めぐり