史跡 鵯越の碑は、神戸市北区の神戸市立鵯越墓園南側にある。
鵯越墓園の南門入口に、市道夢野白川線(旧西神戸有料道路)の植え込みがあり、石碑には次のように刻されている。
(南面) 史跡 鵯越 神戸市
(東面) 昭和二十九年二月
(北面) この道は摂播交通の古道で源平合戦のとき 源義経がこの
山道あたりから一ノ谷へ攻め下ったと伝えられる
鵯越(ひよどりごえ)とは、播磨・摂津の境の一ノ谷(現、神戸市須磨浦の西)の北の山ノ手の呼び名である。
ヒヨドリが春秋にこの山を越すので「鵯越」の呼称が生まれたといわれる。
この山から一ノ谷へ下る断崖は急坂で「馬も人もよもかよひ候わじ」と言われた。
しかし元暦元年(1184)2月、一ノ谷に陣を構えた平氏を討つため、この山上に出た源義経は、この断崖を鹿が通るとの話を聞いて、
「鹿の通程の道、馬の通わぬ事あるべからず」と、ここを駆け下って平氏の背後をつき、源氏軍を勝利に導いたという。
一ノ谷の戦での「鵯越の坂落とし」として、よく知られている。
鵯越墓園
この墓園は、昭和6年(1931)から兵庫区御崎町、吉田町の墓地を移転するため、源義経の鵯越の戦跡として親しみを持たれている土地(当時の湊西区)に、
鵯越共葬墓地として昭和7年(1932)に創設され、昭和21年(1946)に湊西区から神戸市に引き継がれた。
当時の面積は、6.6haで、墓地の頂上には昭和7年に開眼式を行った大仏(高さ11.7m)と鐘楼がある。
その後、昭和38年(1963)から自然公園的な近代墓地として整備され、全体面積は207.6haとなった。
墓園内には、「義経 馬つなぎの松跡」もある。
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