豊国廟

豊国廟(ほうこくびょう)は、京都市東山区の阿弥陀ケ峰にある豊臣秀吉の廟所である。
阿弥陀ケ峰は、高さ196m、東山三十六峰の一つで、清少納言の枕草子にも「峰は阿弥陀ケ峰」と詠まれている。
豊臣秀吉(1537-1598)は、安土桃山時代の武将で、織田信長の後を継いで天下を統一し、近世封建社会の基礎を確立した。
慶長3年(1598)8月18日、伏見城で63歳の生涯を閉じ、遺骸は遺命により、阿弥陀ケ峰に葬られた。
翌年4月18日、秀吉は後陽成天皇から、正一位豊国(とよくに)大明神の神位、神号を賜り、山腹には境内域三十万坪、社領一万石を誇る壮大な豊国社(とよくにのやしろ)が創建された。
以降毎年4月と8月の18日には勅使や北政所、豊臣秀頼の名代を迎え、盛大な豊国祭が執り行われ、秀吉恩顧の諸大名が参詣した。
七回忌(1604)には、京都の民衆挙げての「豊国踊り」が奉納された。
慶長20年(1615)豊臣家が滅びると、徳川家康は豊国社の廃祀を命じ、その前に新日吉(いまひえ)神社を移して参道を封じた。
現在の廟は、明治31年(1898)、豊太閤三百年祭に際し、豊国会により全国からの募金で整備されたもので、その時、墳上に高さ約10m(3丈1尺)の巨大な五輪石塔(伊東忠太設計)が建てられた。
参道も改修、整備され、新日吉神社も現在地に移された。

廟の北側には、明治37年(1904)中京区の誓願寺から改葬された、国松公(くにまつぎみ)御墳墓、秀吉の側室松丸殿の墓と石碑がある。
大坂夏の陣の後、徳川方による残党狩りが行われ、市中に潜伏していた豊臣秀頼の庶子、豊臣国松(8歳)と妹が捕らえられた。
そして、男子は根絶やしにするとの武家のならいで、国松は元和元年(1615)5月23日に京の六条河原で斬首された。 
妹の天秀尼は、秀頼夫人千姫の助力で助けられ、鎌倉松ヶ岡の東慶寺に入った。
JR京都駅、京阪電鉄七条駅から、プリンセスラインバスで、京都女子大学前下車、徒歩20分(階段489段)。参拝者用の有料駐車場がある。



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