下野宇都宮藩主 本多正純供養塔は、和歌山県高野山奥の院33町石西にある。
五輪塔の地輪には、次のように刻されている。
生國三刕本多上野介殿
正純公御爲成等正覺
□□應上
(梵字)爲願正院殿
大居士
奉追善寺田将監忠儀
寛永十四丁丑年三月十日
(側面)
宿坊五之室大徳院
下野國宇都宮城主
本多正純(まさずみ)(1565-1637)は、徳川家康の側近で、創業期の江戸幕府で後の老中の地位にあった。
三河(愛知県)に生まれ、幼少の頃から家康の小姓として仕え、慶長5年(1600)関ヶ原の戦いでは家康に供奉し、翌年上野介となった。
元和2年(1616)徳川家康の臨終に立ち会い、葬礼や日光東照宮造営などを指揮し、1619年下野小山(おやま)3万3000石から下野宇都宮15万5000石に加増された。
1622年、最上家改易に際し、領地接収の総指揮者として山形に駐留中に、正純も改易され、出羽由利に流された。
家康の生前その信任をかさに二代将軍秀忠に対して専横のふるまいがあり、政策上の意見対立が原因といわれる。
寛永14年(1637)3月10日、出羽横手で死去した。享年73歳。葬儀は正平寺で行われ、墓碑は本多家配所跡地にある。(戒名「慧光院殿鐡顔宗智大居士」)
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