日向飫肥 伊東家供養塔は、和歌山県高野山奥の院25町石西にある。
史跡金剛峯寺境内(奥院地区)大名墓総合調査報告書によると、墓所内には、大型五輪塔18基、中型五輪塔1基、小型五輪塔4基、宝篋印塔1基、屋根付墓標1基、方柱墓標1基などがある。
伊東家は、藤原南家(藤原武智麻呂)の子孫で、伊豆国田方郡伊東(静岡県伊東市)発祥である。
維職が伊豆押領使となって伊東荘に住み、伊東氏を称したのが祖で、祐家系と祐継系に分かれた。
仇討で知られる曽我兄弟(兄の曽我祐成と弟時致)は、祐家の曽孫である。→ 曽我兄弟供養塔
祐継系の伊東氏は建久元年(1190)に、日向国の地頭になった。
戦国時代初期には、島津家と飫肥(おび)城の争奪戦を繰り広げ、一旦島津に敗れて飫肥を去ったが、
伊東祐兵(すけたけ)が豊臣秀吉の九州平定に加勢し、天正16年(1588)戦功により、秀吉から飫肥の地を安堵された(3万6千石)。
そのため、伊東祐兵(1559-1600)は伊東氏中興の祖ともいわれる。
当地の伊東祐兵供養塔地輪には、祐兵の法名 「報恩寺殿心関宗安」の文字が刻されている。
子孫は江戸時代も日向飫肥藩5万1千石の藩主を務めている。
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