板垣退助遭難地は、岐阜市岐阜公園内にある。
板垣退助(1837-1919)は、土佐藩出身の政治家である。
幕末、討幕運動を推進し、明治維新後、参議となったが征韓論を主張して辞職した。
愛国公党を結成して民選議院設立建白書を提出し、以降自由民権運動を指導して自由党を創設した。
のち、立憲自由党を組織し内相となる。
明治31年(1898)内相を辞職して政治活動から身を引いて社会問題に取り組んだ。
当地には、自由党総裁板垣退助君遭難地と記した石碑と、板垣退助像が建立されている。
当地の案内板には、次のように記されている。
板垣退助遭難の地
明治十五年四月六日午後一時、時の自由党総理板垣退助が中教院(ちゅうきょういん)にて演説を行う参会者百余名
夕刻板垣総理すべてを終え玄関から数歩出るや 「国賊」と叫んで相原尚褧(しょうけい)が総理の胸を刺す。
総理 「板垣死すとも自由は死せず」と有名な言葉を残したのである。即ち板垣総理遭難の地である。
舞台となった岐阜神道中教院は、その後大正6年(1917)岐阜公園の拡張に伴い取り払われ、翌年銅像が中教院のあった場所に建てられた。
なお、現在の銅像は戦後再建されたものである。
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