板倉家供養塔は、和歌山県高野山奥の院31町石南東にある。
史跡金剛峯寺境内(奥院地区)大名墓総合調査報告書によると、当地墓所内には、層塔5基(1基は倒壊)、小型五輪塔7基、圭頭墓標1基、宝篋印塔1基がある。
水原堯榮氏の高野山金石図説によると、高野山内随一の五重層塔(高さ五尺)で、次の石塔が建立されている。
写真番号 | 供養者名 | 没年 | 法名 | 備考 |
① | 阿闍梨玄眞 | 慶長7年 (1602) |
阿闍梨玄眞 | 南側に倒壊 |
② | 三河深溝藩 初代藩主 板倉 重昌 |
寛永15年 (1638) |
撑月院殿 劔峰源光 大居士 |
板倉内膳正殿 |
③ | 下総関宿藩 初代藩主 板倉 重宗 |
明暦2年 (1649) |
松雲院殿 秀峰源雲 居士 |
板倉周防守 |
④ | 松壽院殿 | 松壽院殿 桃林宗現 大姉 |
逆修 | |
⑤ | 板倉周防守重宗公 御簾中(夫人) |
寛文申天 | 玉樹院殿 寶林淸月 大姉 |
施主板倉隠岐守 |
板倉氏の祖は、足利義康の後裔 渋川義顕で、その十代後裔 頼重が、下野国足利郡板倉郷に居住して、板倉氏を称したのが始まりという。
その後、頼重が三河に移り、その孫 板倉勝重(1545-1624)が、徳川譜代の家臣として仕え、京都所司代を20年にわたり務めた。
板倉重宗と重昌は、勝重の子で、宗家重宗の家系は、関宿藩から伊勢亀山藩を経て、備中松山藩で明治時代を迎えた。
重昌の家系は、鳥山藩、坂城藩などを経て、福島藩で明治維新を迎えた。
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