恵日院 慈眼堂(えにちいんじげんどう)は、滋賀県大津市にある。
寛永20年(1643)に徳川家光の命により建立された。
正門をくぐると、両側の重厚な石灯籠が続く奥に、慈眼大師南光坊天海大僧正の廟所がある。
境内の北側には、近世以降の天台座主らの廟所があり、多くの石造五輪塔や宝篋印塔がある。
中央には、桓武天皇の供養塔があり、紫式部、新田義貞、東照大権現供養塔などが建立されている。
一段高いところには、合計13躯の阿弥陀如来石仏(十三石仏)がある。
これは天文22年(1553)、観音寺城主 六角義賢が、母の追善のために建立した鵜川の四十八体仏を移したものといわれている。
天海(1536-1643)は、江戸時代前期の天台宗の僧である。
慈眼大師と号し、徳川家康、秀忠、家光の三人の将軍に仕え、とくに家康の懐刀といわれた。
会津高田(福島県)出身で、11歳で出家し、14歳のときに比叡山に登り、三井寺や南都の諸寺を遊学している。
元亀2年(1571)延暦寺が織田信長の焼き討ちに遭うと、甲斐の武田信玄のもとに逃れた。
慶長4年(1599)武蔵国仙波喜多院に入り、後に下野の宗光寺に入った。
天海の令名を聞いた徳川家康は、慶長12年(1607)比叡山の探題奉行に任命した。このとき、東塔の南光坊に住んでいたことから、後に南光坊天海と呼ばれた。
慶長8年(1614)豊臣秀頼が方広寺を再建し、巨鐘を鋳造すると、いわゆる鐘銘事件にかかわり、大坂の陣の戦乱を開くきっかけをつくった。
元和2年(1616)徳川家康の死去に伴い、葬儀の導師となり、久能山に葬り、同年大僧正に任ぜられた。
寛永2年(1625)江戸上野に東叡山円頓院寛永寺を開いて関東天台宗総本山とした。
寛永16年(1643)108歳で死去し、慶安元年(1648)に慈眼大師の諡号を賜った。
京阪電鉄石山坂本線坂本駅下車、徒歩10分。参拝者用の駐車場がある。
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