無衰山 金龍院 淨國寺は、大阪市天王寺区下寺町にある。
永禄3年(1560)寂蓮社円誉上人が創建した。
大阪の名所旧跡、時事、風俗などを記した「浪華百事談」に「順慶町通りより御堂筋の西を淨國寺町と呼べり」と記されており、もとは西区新町、淨國寺町と呼ばれた所に建てられていたお寺で、創建からほどなくして現在の松屋町沿いの下寺町に移転した。
本尊の阿弥陀如来像は、鎌倉末期から室町前期の作といわれ、説法印を結ぶ仏像は、浄土宗寺院でも珍しいものである。
境内には、法然上人の御分骨を納めたと伝わる「法然上人御廟」、江戸時代俳人 升屋六兵衛(升六)の墓所、夕霧太夫の墓所、まんなおし地蔵尊がある。
大阪メトロ谷町線谷町九丁目駅下車、徒歩6分。
夕霧太夫の墓所
本堂北側の墓所内に、絶世の美女と言われた夕霧太夫の墓所がある。
夕霧太夫(ゆうぎりたゆう)(1652?-1678)は、京 吉原の吉野太夫、江戸 吉原の高尾太夫と並んで日本三太夫の一人として知られる。
京都の大覚寺出入りの宮大工 林光政の子として生まれ、京 吉原で置屋「扇屋」の遊女となり、扇屋の大坂新町への移転に伴い、夕霧も新町に移って太夫として活躍したが、6年後の延宝6年(1678)に27歳の若さで亡くなった。。
近松門左衛門の「夕霧阿波鳴渡」(人形浄瑠璃)で取り上げられ、作中の「吉田の段」は、江戸で改作された歌舞伎「廓文章」の基となった。
また、井原西鶴の浮世草子「好色一代男」にも夕霧太夫が登場し、「神代このかた、また類なき御傾城の鏡」と記されている。
当地の円筒形の墓石には、「花岳芳春信女」と刻されており、右面には再建の由が記され、裏面には「延寶六年亥午年正月六日俗名あふぎや夕ぎり」と記されている。
墓石左面には、元禄元年(1688)に松尾芭蕉と並ぶ俳人 上島鬼貫が墓に参詣した折に詠んだ句 「此塚は柳なくてもあわれ也」が刻まれている。
4月第一日曜日には、「花祭り 夕霧太夫行列」が行われており、金臺寺から淨國寺まで雅楽の演奏つきで太夫が華やかに練り歩く。
→ なにわ大坂をつくった100人 夕霧太夫
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