上州高崎安藤家供養塔は、和歌山県高野山奥の院24町石と25町石の間にある。
安藤家は、陸奥磐城平藩で、明治維新を迎えたことから、奥の院の案内図には、「磐城平安藤家供養塔」と表示されている。
当地墓所には、大型五輪塔5基、中型五輪塔4基、小型五輪塔2基、板碑2基が建立されている。
主な供養塔は次のとおりである。
写真番号 | 供養者名 | 没年 | 法名 | 備考 |
① | 丹波亀山 松平将監殿御内儀 |
花林院 | ||
② | 高崎藩第3代藩主 備中松山藩初代藩主 安藤 重博 |
元禄11年 (1698) |
定慧院殿□ 不嘔覺海 大居士 |
備中松山城主 安藤対馬守 藤原朝臣重博 |
③ | 高崎藩世嗣 安藤重之(しげゆき) |
寛永18年 (1641) |
淨本院殿前夷部 清譽理覺大禪定□ |
2代藩主安藤重長長男 安藤式部少輔重之 |
④ | 高崎藩初代藩主 安藤重信 |
元和7年 (1621) |
栖岸院殿前對□ 大譽良善大居士 |
上州高崎城主 安藤對馬守 藤原朝臣重信 |
⑤ | 高崎藩第2代藩主 安藤重長 |
明暦3年 (1657) |
良峯院殿前京□ □譽泰翁大居士 |
上州高崎城主 安藤右京進 藤原朝臣重長 |
高崎藩は、慶長3年(1598)に井伊直政が藩主となって以来、譜代大名が続き、天和5年(1619)に二代将軍徳川秀忠の老臣 安藤重信が入封した。
その後、重長、重博と安藤家が3代にわたり高崎藩主を務めている。
安藤重信(1557-1621)は、三河で生まれ、小牧長久手の戦に参陣し、関ヶ原の戦いでは、秀忠の信濃上田城攻めに従った。
下総小見川藩主を経て、元和5年(1619)上野高崎藩主(5万6千石)となった。
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