御幸辻駅
大正4年(1915年)3月11日 高野登山鉄道の高野辻駅として開業。
大正11年(1922年)9月 会社合併により南海鉄道となる。
大正12年(1923年)3月 御幸辻駅と改称。
昭和58年(1989年)6月 御幸辻駅まで複線完成。
昭和64年(1989年) 御幸辻ー橋本間複線完成。
平成25年(2013年)4月 駅係員無人化
2014年の乗降人員 2,762人/日
一言主神社
一言主神社は、和歌山県橋本市山田にある神社で、地元では「いちごんさん」として親しまれている。
主祭神は、一言主大神で、天忍穂耳命(あめのおしほみみのみこと)ほか18神が配祀されている。
一言主(古事記)・一語主(日本霊異記)は、一事主とも書き(「日本書紀」雄略天皇四年二月条)、素盞嗚(すさのお)尊の子で、「吉事一言、凶事一言、言放之葛木一言主神」と称して、凶事も吉事も一言で解決する神とされた。
一言で願いをきいてくれるという信仰は今も強く残る。
雄略天皇が葛城山で狩猟をした時、この神は天皇と同姿で出現、狩猟を競ったと伝え(古事記・日本書紀)、役行者が諸神を集めて金峯(きんぶ)山・葛城山間に架橋工事をした際、顔が醜かったので夜間のみ工事に従事、行者の怒りにふれて呪縛された神でもある(今昔物語集)。
当神社の社伝によると、桓武天皇の時代、延暦13年(794年)に弘法大師空海が当地を訪れた際に、村人と相談して一言主神を産土神として祀る神宮寺を創立したのが始まりである。
中世の頃には、山田、吉原の領主 吉田氏の崇敬が篤く、山田村葛城明神社とも呼ばれて、山田、吉原、二ケ村の総鎮守であった。
明治41年から42年に、山田村大字山田、吉原、出塔、柏原、神野々、野の6ケ字に鎮守していた29社を合併合祀して現在に至っている。
平成28年(2016年)秋(10月21日、22日)には、正遷宮大祭が執り行われる。
JR和歌山線紀伊山田駅下車、徒歩約60分。
三石山不動寺 不動の滝
三石山不動寺は、和歌山県橋本市山田にある。
同寺由緒によると、延暦13年(794年)弘法大師空海が21歳の時に、この地で草庵を結び勤行したところといわれる。
水がないため、杖で掘ったところ清水が湧き出て滝(不動の滝)となり、大師がこの滝で手水を使ったため、別名「手水の滝」といわれる。
このとき滝から不動明王が出現されて、その像を祀った。大師草庵の跡を「庵ノ平」と称した。
昭和7年(1932年)に、仏像を発掘して滝の中央に奉安し、昭和9年(1934年)に三石山不動寺御供所拝殿を建立したものである。
由緒を記した石碑に、不動明王の真言が記されている。
「ナゥマク サンマンダ バザラダン センダ マカロシャダ ソワタヤ ウンタラタ カンマン」
不動明王とともに、熊鷹大神が祀られている。熊鷹大神は、熊鷹(クマタカ)と言う鳥類の「鷹」が神様である。
数ある熊鷹の中でも「羽白熊鷹(はじろくまたか)と言う種類の「鷹の神様」をお祀りしているといわれる。
ただ、その昔「貴族(藤原氏・皇族)」の守護神の1柱であった熊鷹大神(羽白熊鷹)を、民族(国民)の統制のために、広く信仰されている稲荷信仰に習合させて、崇拝させたという説がある。
境内に流れ出る山水は、紀の国名水百選に選定されている。
不動の滝は、寺から約400m登ったところにある。
JR和歌山線紀伊山田駅下車、徒歩約70分。
岩湧山
岩湧山は、大阪府河内長野市にある。
和泉山脈第2の高峰で、金剛生駒紀泉(こんごういこまきせん)国定公園に含まれ、標高897.3m(山上の表記は、897.7m)。
大阪府や奈良県が整備した、屯鶴峰(どんづるぼう)から槇尾山までのダイヤモンドトレール(全長45km)の一部である。
和泉砂岩からなる山頂は雄大なカヤトの草原で、地元では「キトラ」と呼ばれている。
晴天時には、淡路島まで見渡せるほど展望に優れ、北は河内平野、西は大阪湾、東は金剛山、葛城山、二上山が望める。
毎年春には、カヤトが刈り取られて山焼きが行われる。
北斜面中腹に岩湧寺があり、山名の由来となった「湧き出るように屹立した岩」が祀られている。
岩湧寺から山頂へは緩やかな「いわわきの道」と急登の「きゅうざかの道」がある。
また一帯は野鳥の宝庫で、鳥獣保護区に指定されている。
南海高野線・近鉄長野線河内長野駅から南海バスで、神納下車、徒歩約160分。
岩湧寺
岩湧寺は、大阪府河内長野市加賀田にある融通念仏宗の寺院である。
岩湧山(897.7m)の北東山中に位置する。山号は、湧出山で、本尊は阿弥陀如来である。
大宝年間(701-704)に役小角が開基した寺で、文武天皇の勅願所であったと伝えられる。
和泉山脈・金剛山地(葛城山系)を行場とする葛城修験は、法華経二十八品を一品ずつ山中に埋めて経塚を作った。岩湧寺は、第15番目の地とされ、北西の山中に2基の経塚がある。
江戸時代は、天台宗で「河内名所図会」には、「巖涌寺(いはわきてら) 加賀田村の南にあり。当山、紀州九重峠の西界なり。巉巖屹立にして、其形、湧出るが如し。本尊十一面観音。 弘法大師作」と記されている。
領主である近江膳所藩主本多氏の祈願所であったという。明治22年(1889年)に、融通念仏宗となった。
境内には、三間二層の多宝塔と本堂、庫裏があり、多宝塔安置の大日如来坐像は国の重要文化財に指定されている。桧材寄木造、像高88.7cm、金剛界像で智拳印を結び、平安時代末期の作といわれる。
同じ塔内の愛染明王坐像は、鎌倉時代の作で河内長野市の文化財に指定されている。現在は、いずれの像も堺市博物館に寄託されている。
境内のカヤの大木(平成14年時点で樹高20m、幹周5.97m、樹齢400年)は、河内長野市の天然記念物に指定されている。
カヤは、イチイ科に属する針葉樹で、4月頃に花を咲かせる。実は楕円形で、カヤ味噌の原料等として食べられる。
村人に悪さをする龍を、修行僧が滝に打たれて祈祷を続け、満願の日に昇天させたと伝える道場の龍臥堂と祠(ほこら)が、参道左手の赤い鳥居の先にある。
南海高野線・近鉄長野線河内長野駅から南海バスで、神納下車、徒歩約80分。岩湧の森の無料駐車場(No.1-No.6)から徒歩15分。
岩湧の森 「四季彩館」
岩湧の森「四季彩館」は、大阪府河内長野市加賀田にある。
岩湧山(897.7m)の北東山中 標高500mのところにあり、テラスから大和葛城山や生駒山のパノラマが楽しめる。
館内では、岩湧の自然に関する情報提供を行っており、動物、昆虫や植物の写真もある。
建物は、国内産の木材を使用して建築され、ハイキングの休憩の場所としても利用できる。
周辺・散策ルートとして、いにしえの道、ぎょうじゃの道、いわわきの道、みはらしの道、すぎこだちの道、きゅうざかの道などがある。
南海高野線・近鉄長野線河内長野駅から南海バスで、神納下車、徒歩約80分。岩湧の森の無料駐車場(No.1-No.6)を利用できる。
伝大江時親邸跡
伝大江時親邸跡は大阪府河内長野市にある。
大江時親は、平安時代後期の歌人大江匡房の七世孫で、この地に住んでいたとされる。
大江氏は、朝廷に仕える公家で、菅原道真の菅原氏と並んで代々学者の家柄で、中国伝来の兵学を家に伝えていることで知られていた。
大江匡房は、八幡太郎義家の師であったともいわれる。
そして、大江時親は、建武の中興に大きな役割を果たした楠木正成の軍学兵法の師といわれる。
正成は、観心寺からこの地まで約7kmの山道を通い、兵学を習ったと伝わる。
また、戦国時代に中国地方を席巻した武将、毛利元就はその家系図において大江時親を始祖としていると言われる。
現在の大江家住宅は、大和棟をもつ古いもので、各部の様式から十八世紀前半の建築と考えられ、大阪府の文化財に指定されている。
街道脇の小さな石柱に「大江時親邸跡碑へ一丁」と記されている。
神納から岩湧街道を進むと、左から旧道が合流するが、この道を山伏坂といい、岩湧寺へ向かう山伏は、必ずこの坂で法螺貝を吹いて大江家に対して敬意を払ったといわれている。
南海高野線及び近鉄長野線河内長野駅から南海バスで神納下車、徒歩5分。
山田村 やまだむら
[現]橋本市山田 紀ノ川の右岸の小高い丘陵地から葛城(和泉)山脈の山腹にかけてあり、南は神野々(このの)村、東は菖蒲谷(しようぶたに)村。元慶七年(八八三)九月一五日の観心寺勘録縁起資財帳(観心寺文書)にみえる河内観心寺領伊都(いと)郡大山田(おおやまだ)庄を当村域に比定する説もあるが、大山田庄については不詳である。建久三年(一一九二)七月二七日の本家下文案(又続宝簡集)で「河北方長栖大野山田村主」などの役夫工所課が免除されており、当村は高野山領官省符(かんしようふ)庄河北方に属していた。同文書にみえる「村主」は「和名抄」の村主(すぐり)郷に比定され、当村付近も村主郷の内であったと考えられている。 応永(一三九四―一四二八)の高野山の大検注の時には官省符庄上方とされ、応永三年五月日付の官省符上方惣田数分米目録・官省符上方惣畠数分麦目録(又続宝簡集)には「紺野村」(神野々村)の内として、山田の田数二三町、分米九三石余、畠数一丁一反余、分麦一石余、在家一六宇を記す。なお鎌倉―南北朝時代の高野山文書・西光寺文書に当村域の小字として榑橋北窪・泥塔・吉田・田中垣内・法華ツホ・アウミノ谷・三百歩田・講楽垣中・カワラケカキ内などがみえる。 慶長検地高目録によれば村高三八六石余、小物成三升五合。江戸時代初期は禿組に属し、延宝五年(一六七七)の禿組指出帳控(大畑家文書)では家数七三(本役二九・無役二九など)、人数三一四、牛四九、馬四。江戸末期には中組に属した(続風土記)。寛政七年(一七九五)の山田・吉原(よしはら)両村と九重(くじゆう)村(現伊都郡高野口町)との山論裁許書写(山田・吉原区有文書)によると、山田・吉原両村と九重村の境の「猪谷山」をめぐる山論があり、評定所の裁許は山田・吉原両村の領分として認めている。 一言主命ほか一六神を祀る一言主(いちごんしゆ)神社は明治四一年(一九〇八)付近の社を合祀するまで葛城(かつらぎ)明神社と称していた。また大聖不退(だいしようふたい)寺(高野山真言宗)は不動明王を本尊とし、裏山の小滝は行場となっている。貞和五年(一三四九)七月二八日の山田村人等田地売渡状(西光寺文書)に「山田寺大聖不退寺」の寺地が菖蒲谷村字タツ(ワか)ノカキ内にあったことがみえる。「続風土記」はほかに小祠四社(八王子社など)、大師堂・廃不動堂を記し、北谷(きただに)では天正年間(一五七三―九二)に高野山衆徒と松山新助が戦ったという。 村の西には当村と吉原村の新田として開かれた広野(ひろの)村がある。©Heibonsha Limited, Publishers, Tokyo "やまだむら【山田村】和歌山県:橋本市", 日本歴史地名大系, JapanKnowledge, http://japanknowledge.com, (参照 2016-09-19)
吉原村 よしはらむら
[現]橋本市吉原 紀ノ川支流の吉原川の谷沿いにあり、東の山田(やまだ)村との間に当村と山田村の新田である広野(ひろの)村がある。中世は伏原(ふしわら)村の内で高野山領官省符(かんしようふ)庄上方に属し、応永三年(一三九六)五月日付の官省符上方惣田数分米目録・官省符上方惣畠数分麦目録(又続宝簡集)には不死原(ふしわら)村のうち吉原分として、田数六町八反余、分米二三石余、畠数二反余、分麦二斗余、在家一二宇とみえる。慶長検地高目録によれば村高三一〇石余、小物成四斗三升六合。江戸時代初期は禿組に属し、延宝五年(一六七七)の禿組指出帳控(大畑家文書)では家数六一(本役三九・無役二二)、人数三二九、牛四一、馬四。江戸時代末期には中組に属していた(続風土記)。寛政七年(一七九五)当村・山田村と九重(くじゆう)村(現伊都郡高野口町)との間に山論があった(→山田村)。
聖観音を本尊とする普賢(ふげん)寺(高野山真言宗)があり、葛城(和泉)山脈中に不動堂がある。「続風土記」に不動堂は「葛城先達の行所なり、百年許前まては峯の祠中に鏡を以て神体とせし故其地を鏡ノ宿といふ」とみえ、雨乞の場所という。同書はほかに小祠六社(弁財天社・天王森など)を記す。©Heibonsha
Limited, Publishers, Tokyo "よしはらむら【吉原村】和歌山県:橋本市", 日本歴史地名大系, JapanKnowledge,
http://japanknowledge.com, (参照 2016-09-19)
菖蒲谷村 しようぶたにむら
[現]橋本市菖蒲谷 三石(みついし)山の南麓にあり、東南は小原田(おはらた)村。高野街道御幸道(京路)が通る。「続風土記」に「古此村の谷菖蒲多き歟又は他所よりは宜きか村名是より起れるなるへし、村中地蔵寺の巽に当りて菖蒲池といふ池あり、今は名のみにして菖蒲はなし」とみえ、小名に田和(たわ)がある。嘉元四年(一三〇六)七月六日付の紀行友屋敷田畠処分状(西光寺文書)によれば、相賀(おうが)庄の「シヤウフ谷タハノカキウチ」にあった行友の屋敷地・田畠が紀千松女に宛行われ、千松女は元弘三年(一三三三)一一月二二日の紀千松女田地売渡状(同文書)でその一部を山田(やまだ)村仏物(大聖不退寺)へ売渡し、これは貞和五年(一三四九)七月二八日には柏原(かせばら)村西光(さいこう)寺仏物として山田村人から西光寺へ売却されている(「山田村人等田地売渡状」同文書)。この「タハノカキウチ」は小名の田和であろう。元弘元年一二月日付の沙弥行仏田地売渡状(同文書)には「相賀御庄河北タワ村」とある。
慶長検地高目録による村高三四六石余、小物成六升五合。上組に属し、慶安四年(一六五一)の上組在々田畠小物成改帳控(土屋家文書)では小物成は桑五束、茶一斤余、紙木四四束で、家数三七(本役一〇など)、人数一四三、牛一五、馬一。江戸時代末期には家数五八、人数三八一と増加している(続風土記)。天保一一年(一八四〇)に出塔(でとう)村・柏原村と当村との間に山論が起こり、その後も相論が繰返されている(小林家文書)。「続風土記」は社寺として産土神の権現社、大夫宮、瘡病に利益のあるという加佐塞神社、弁財天社、地蔵寺、権現社の別当寺である観音寺(現普賢寺)を記す。普賢寺(高野山真言宗)の本尊普賢菩薩は彫眼の古仏で行基の作と伝え、境内に応永九年(一四〇二)の五輪石塔と、同一二年の宝篋印塔がある。当村の赤坂(あかさか)池は応其の築造という(同書)。©Heibonsha
Limited, Publishers, Tokyo "しょうぶたにむら【菖蒲谷村】和歌山県:橋本市", 日本歴史地名大系,
JapanKnowledge, http://japanknowledge.com, (参照 2016-09-17)
滝畑村 たきのはたむら
[現]河内長野市滝畑(たきはた) 日野(ひの)村の南にある深い山間の村で、南は滝畑道で和泉山脈蔵王(ざおう)峠を経て紀伊国に通じた。商品流通などの町場との交流は東槙尾(ひがしまきお)川沿いに北西の南面利(なめり)村(現和泉市)へ出て、宇多大津(うだおおつ)村(現泉大津市)に向かう天野(あまの)街道を多く利用した。岩湧(いわわき)山北麓から流れ出た横谷(よこたに)川が北西流し、滝尻(たきのしり)で北流する石川に合流する。同河川のつくる谷に横谷村、石川のつくる滝畑谷に上流から東之(ひがしの)村・西之(にしの)村・堂(どうの)村・中(なか)村・清水(しみず)村・滝尻村の集落がある。「河内志」に「滝畑属邑八」とあり、寛政一二年(一八〇〇)の名寄帳(大谷家文書)には右の七村のほか垣内(かいと)村が載る。元禄八年(一六九五)の申合定(平井谷家文書)には「七ケ村立合山」とあり、滝畑七ヵ村とされるのが普通であった。永徳二年(一三八二)の僧都覚有一跡配分目録(熊野那智大社文書)に「河内国タキノハタノ旦那槙尾寺ノ先達引」とみえる。西部に猿子(さるこ)城跡がある。 文禄三年(一五九四)一二月には当村二三一石余が北条氏規領(北条家文書)。正保郷帳の写とみられる河内国一国村高控帳では高二三一石余。同帳には「同人知行所」とあり、同人とは石川主殿(近江膳所藩)をさすが、北条氏(狭山藩)の誤りと考えられる。ほかに膳所藩領山年貢高六三石が記される。以降、高・領主とも変化なし。寛永一〇年(一六三三)には高二三一石のうち七〇石余が永荒地(平井谷家文書)、延宝九年(一六八一)の家数八六(公事家六七・無足家一九)・人数五一九、牛六七(同文書)。享和二年(一八〇二)の狭山藩領村方明細帳(中之島図書館蔵)では家数七〇(公事家五四・部家一四ほか)ですべて融通念仏宗檀家、人数三五〇、出家二・大工三など、牛四五・馬二。嘉永六年(一八五三)には家数七二(大谷家文書)。前掲享和二年村方明細帳によると田方は稲・こんにゃく玉・煙草、畑方は大豆・粟・唐黍。このほか菜種も少し栽培され、天保一一年(一八四〇)には手作り菜種四石六斗を売った(同文書)。山の斜面や荒地には茶が植えられ(平井谷家文書)、寛文一二年(一六七二)の茶園之覚(同文書)には数ヵ所の茶園があげられる。茶は品質により上茶・不撰茶・仕込茶・中飛茶・ソソリ茶に分けられる(前掲享和二年村方明細帳)。年不詳の大谷家文書によると、狭山藩が茶の利益を差出すよう命じたのに村民がこぞって反対し、農繁期にもかかわらず一村残らず家出した。金剛(こんごう)寺が仲裁に入り、毎年村方より藩に上茶一〇斤を献上することで解決、金剛寺へは礼として毎年歳暮に並炭三荷を贈ることになった。明治三年(一八七〇)の物産書上帳(大谷家文書)では茶四千四〇〇斤。なお、年未詳の滝尻村百姓への申渡書(平井谷家文書)には、滝畑の茶は名産であったが、近年茶園の手入れを怠り茶株が絶えてしまったので、植付の指導に藩より出向く旨、記されている。 農業の合間に炭焼も行われた(前掲享和二年村方明細帳)。「河内鑑名所記」に「滝の畑村(中略)此谷より、くハうのたき炭うりに出る也」とあり、村内光滝(こうのたき)(こん滝ともいう)の名をとり、光滝炭といった。鹿苑寺(金閣寺)の僧鳳林承章の日記「隔記」には、狭山藩主などから光滝白炭を贈られた記事が頻出する。元禄頃これらの白炭は献上炭として他所売りを禁じられていた(平井谷家文書)。光滝白炭は茶席で使用され、鳳林承章は摂政一条昭良へも進上している。炭は品質により、より炭・並炭・ス炭の三種類に分けられた(前掲享和二年村方明細帳)。文化元年(一八〇四)には藩の御用炭一四八荷半、武士の家中、龍雲(りゆううん)寺(現富田林市)、報恩(ほうおん)寺・御使者宿越前屋(現南河内郡狭山町)などへ三九二荷半を届けていたが、翌年に炭代の値上げを要求している(平井谷家文書)。明治三年頃の平均産出量は七〇〇駄(一駄は三〇貫、大谷家文書)。寛政九年西之村が竈山を他所へ売ったため、他の六ヵ村が狭山役所へ訴え出た。文化八年紀州の村から出されていた字きやヶ谷の草山年貢を堂村が独占しようとしたので山論が起こった。杉・檜・榧など木材の産もあった(同文書)。滝畑の凍豆腐は、文化四年に紀伊国伏原(ふしわら)村(現和歌山県伊都郡高野口町)の筒井葉右衛門が当地に来て製造したのに始まる(沢田家文書)。安政五年(一八五八)専売制が実施され、このときの釜数は三六、うち滝畑一一・紀州出稼二四・その他一(同文書)。山間のため猪などの被害があり、おどし鉄砲五四挺の所持を許可されていた。文久三年(一八六三)狭山藩の農兵に五五名が徴集され、うち五〇名が鉄砲組に編入された(同文書)。 前掲享和二年の村方明細帳によると、産土神は大梵天社(現天神社)で天照大神・伊弉諾命・伊弉冊命を祀る。滝畑神社ともいう。座には小川座・中座・一族座・南座があったという(大阪府全志)。また清水村に八王子宮、東之村に山之神があった。天台宗光滝(こうたき)寺のほか、堂村の融通念仏宗地蔵堂、清水村の阿弥陀堂・観音堂・梅ノ坊(当時すでに建物なし)、中村の阿弥陀堂、東之村の観音堂・榧ノ坊・みこの谷堂(昔は阿弥陀堂)、西之村の阿弥陀堂・多聞院(当時建物なし)、滝尻村の弥勒堂、横谷村の阿弥陀堂があげられるが、ほとんどが無住の寺であった。このほか光滝寺の山林内に炭焼不動があり、後堂に炭焼の道具を納めたという。葛城修験の行場が当地にもあったと思われ、「葛嶺雑記」二十八宿のうち一三宿「むかひのたわ」は当地と考えられる。昭和五六年(一九八一)に多目的の滝畑ダムが完成して湛水面積は五二ヘクタール余となり、家数の四割にあたる七九戸と耕地の六割にあたる二〇ヘクタール余が水没。江戸時代の民家遺構が多かったが、高所に移転して近代建築となったため、昔からの景観・民俗の変化は著しい。現在当地の民俗資料館に移築される左近家住宅は、一七世紀中頃の原形をよく残した滝畑型の建築で、国の重要文化財。滝尻区有の妙法蓮華経の木版摺経(八巻一七四枚)は府の文化財。墨書の奥書によると、正和二年(一三一三)二月五日に弥勒講講衆の勧進によって完成したもの。©Heibonsha Limited, Publishers, Tokyo "たきのはたむら【滝畑村】大阪府:河内長野市", 日本歴史地名大系, JapanKnowledge, http://japanknowledge.com, (参照 2016-09-17)
交通案内
JR和歌山線紀伊山田駅 北3km
祭神
一言主大神
合祀 天忍穗耳命、市杵嶋姫命、天照大神、倉稻魂命、金山比古命、日本武命、大山津見命、應神天皇、神功皇后、素盞嗚命、大戸比賣命、底筒男命、中筒男命、表筒男命、伊邪那美命、大國主命、火結神、天津神
由緒
祭神の一言主大神は雄略天皇が葛城山へ狩りにお登りになったときにお出合になり、お二人の問答の中で大神が「私は凶事も一言、吉き事も一言で解決する一言主大神であるぞ」と申されたと言う話は有名である。今でも多くの人達から「一言さん」と親しまれ崇敬されている。
本社は桓武天皇延暦三年(794年) に空海が当地を訪れた際に、里人と相談して産土神をまつる神宮寺を創立したのがはじまりと伝えられている。
中世には領主吉田氏の崇敬が篤くて、山田村葛城明神社とも称せられて山田、吉原2ケ村の総鎮守と仰がれてきた。明治二年、山田村各地に鎮座していた神社の神々を合祀して現在に至る。
合祀されている大戸比賣命とは奥津比売神のこと、大和の笠山荒神などの様に荒神社の祭神に多い。三宝(仏、報、僧)の守り神ともされる。
同じく火結神は火産霊神とも書き、愛宕の神で、火伏の神とされる。
お姿
山田保育園が一の鳥居をくぐった社前の広場にあり、小さい子供達が神前で遊んでいる。祖霊としては最高の雰囲気だろう。
この辺りから北側には和泉山脈が東西に続き、まるで壁のように紀伊と河内を隔てている。 そこから南へのびている山並みの南端に鎮座している。 陸地のどんづまりの奥座敷と言う雰囲気。西への道は建設中、北へは山越え、南と東に開けているようだ。
お祭り
2月22日 春祭
7月22日 夏季大祭
10月22日 秋祭
紀伊續風土記 巻之四十五 伊都郡 官省符荘 山田村から ○葛城明神社 境内周六十四間 八幡宮 辨財天 相殿 村中にあり 山田吉原二村の氏神なり。 ○小祠四社 八王子社 村の北にあり 山神社 社地 除地 小 社 社地除地二社共に村中にあり 白山権現社 不退寺の巽にあり 祠なく叢竹のみなれとも霊験ありとて里人敬崇す ○嶽の鼻 村の北の方河州加賀田村へ越ゆる山路にあり 奇巖なり |
参考
『平成祭礼データ』『和歌山県神社誌』