地蔵寺 矢倉脇

宝形山延命院地蔵寺は、和歌山県橋本市矢倉脇にある真言宗の寺院である。
本尊は地蔵菩薩で、脇仏として不動明王、毘沙門天を祀っている。本堂には天井絵が描かれている。
紀見村郷土誌によると、元は西方高山の頂上にあったものである。
平将門の末裔 贄川将房がこの地に迷い込み、高山七郎という老人の敬愛を受けて、長藪城(橋本市城山台)の城主となった。
高山七郎の宅地を改めて、本堂、護摩堂、山王権現、摩利支天法幢等の堂塔伽藍を建立しこれを宝形山と号した。
高山七郎が剃髪して、隆阿と名を改めて、将房の武運を祈ったという。
その後15世紀後半に、第9代将軍足利義尚の兵乱で堂宇を焼かれた。
現在地には天文10年(1541年)に再建された。庫裏は平成3年(1991年)に改築されている。
南海高野線紀見峠駅下車、徒歩5分。



養叟庵

養叟庵は、和歌山県橋本市矢倉脇にある禅僧養叟の旧跡である。
室町時代中期の禅僧養叟宋頣(1376-1458)は、京都の出身で、近江堅田の禅興庵で「孤高の禅僧」といわれた華叟宋曇について禅の修行を積んだ。
大徳寺の一休宗純とは、共に華叟の教えを受けた先輩(法兄)にあたる。
正長元年(1428年)師の華叟が入寂すると、養叟は京都紫野大徳寺大用庵に、一休は同・如意庵に住まいした。
文安2年(1445年)臨済宗の本山大徳寺の第26世となり、南禅寺同様に紫衣勅許の出世道場とした。
長禄元年(1457年)に、後花園天皇から「宋慧大照禅師」の勅号を賜っている。
養叟が、矢倉脇に来たのは享徳3年(1454年)前後で、平将門の子孫 牲川次郎左衛門将房(にえかわじろうざえもんまさふさ)は、宝形山徳禅寺を建立して養叟を迎えた。
養叟は、この地で晩年を過ごし、83歳で入寂した。
その後、徳禅寺は兵火で焼失し、場所もわからなくなっていたが、天保8年(1837年)に、紀伊藩と大徳寺が合同で調査した結果、養叟の旧跡であることが確認され、嘉永元年(1848年)に徳禅寺再建が発願され養叟庵が建立された。
元は少し離れた髙山にあったが、明治32年に現在地に移築され、平成時代には養叟苑として花がみられる庭園が約50m西に作られている。
南海高野線紀見峠駅下車、徒歩5分。


岩湧山 

岩湧山は、大阪府河内長野市にある。
和泉山脈第2の高峰で、金剛生駒紀泉(こんごういこまきせん)国定公園に含まれ、標高897.3m(山上の表記は、897.7m)。
大阪府や奈良県が整備した、屯鶴峰(どんづるぼう)から槇尾山までのダイヤモンドトレール(全長45km)の一部である。
和泉砂岩からなる山頂は雄大なカヤトの草原で、地元では「キトラ」と呼ばれている。
晴天時には、淡路島まで見渡せるほど展望に優れ、北は河内平野、西は大阪湾、東は金剛山、葛城山、二上山が望める。
毎年春には、カヤトが刈り取られて山焼きが行われる。
北斜面中腹に岩湧寺があり、山名の由来となった「湧き出るように屹立した岩」が祀られている。
岩湧寺から山頂へは緩やかな「いわわきの道」と急登の「きゅうざかの道」がある。
また一帯は野鳥の宝庫で、鳥獣保護区に指定されている。
南海高野線・近鉄長野線河内長野駅から南海バスで、神納下車、徒歩約160分。岩湧の森四季彩館の無料駐車場から徒歩約120分。


岩湧寺 

岩湧寺は、大阪府河内長野市加賀田にある融通念仏宗の寺院である。
岩湧山(897.7m)の北東山中に位置する。山号は、湧出山で、本尊は阿弥陀如来である。
大宝年間(701-704)に役小角が開基した寺で、文武天皇の勅願所であったと伝えられる。
和泉山脈・金剛山地(葛城山系)を行場とする葛城修験は、法華経二十八品を一品ずつ山中に埋めて経塚を作った。岩湧寺は、第15番目の地とされ、北西の山中に2基の経塚がある。
江戸時代は、天台宗で「河内名所図会」には、「巖涌寺(いはわきてら) 加賀田村の南にあり。当山、紀州九重峠の西界なり。巉巖屹立にして、其形、湧出るが如し。本尊十一面観音。 弘法大師作」と記されている。
領主である近江膳所藩主本多氏の祈願所であったという。明治22年(1889年)に、融通念仏宗となった。
境内には、三間二層の多宝塔と本堂、庫裏があり、多宝塔安置の大日如来坐像は国の重要文化財に指定されている。桧材寄木造、像高88.7cm、金剛界像で智拳印を結び、平安時代末期の作といわれる。
同じ塔内の愛染明王坐像は、鎌倉時代の作で河内長野市の文化財に指定されている。現在は、いずれの像も堺市博物館に寄託されている。
境内のカヤの大木(平成14年時点で樹高20m、幹周5.97m、樹齢400年)は、河内長野市の天然記念物に指定されている。
カヤは、イチイ科に属する針葉樹で、4月頃に花を咲かせる。実は楕円形で、カヤ味噌の原料等として食べられる。
村人に悪さをする龍を、修行僧が滝に打たれて祈祷を続け、満願の日に昇天させたと伝える道場の龍臥堂と祠(ほこら)が、参道左手の赤い鳥居の先にある。
南海高野線・近鉄長野線河内長野駅から南海バスで、神納下車、徒歩約80分。岩湧の森の無料駐車場(No.1-No.6)を利用できる。


伝大江時親邸跡 

伝大江時親邸跡は大阪府河内長野市にある。
大江時親は、平安時代後期の歌人大江匡房の七世孫で、この地に住んでいたとされる。
大江氏は、朝廷に仕える公家で、菅原道真の菅原氏と並んで代々学者の家柄で、中国伝来の兵学を家に伝えていることで知られていた。
大江匡房は、八幡太郎義家の師であったともいわれる。
そして、大江時親は、建武の中興に大きな役割を果たした楠木正成の軍学兵法の師といわれる。
正成は、観心寺からこの地まで約7kmの山道を通い、兵学を習ったと伝わる。
また、戦国時代に中国地方を席巻した武将、毛利元就はその家系図において大江時親を始祖としていると言われる。
現在の大江家住宅は、大和棟をもつ古いもので、各部の様式から十八世紀前半の建築と考えられ、大阪府の文化財に指定されている。
街道脇の小さな石柱に「大江時親邸跡碑へ一丁」と記されている。
神納から岩湧街道を進むと、左から旧道が合流するが、この道を山伏坂といい、岩湧寺へ向かう山伏は、必ずこの坂で法螺貝を吹いて大江家に対して敬意を払ったといわれている。
南海高野線及び近鉄長野線河内長野駅から南海バスで神納下車、徒歩5分。


岩湧の森 「四季彩館」 

岩湧の森「四季彩館」は、大阪府河内長野市加賀田にある。
岩湧山(897.7m)の北東山中 標高500mのところにあり、テラスから大和葛城山や生駒山のパノラマが楽しめる。
館内では、岩湧の自然に関する情報提供を行っており、動物、昆虫や植物の写真もある。
建物は、国内産の木材を使用して建築され、ハイキングの休憩の場所としても利用できる。
周辺・散策ルートとして、いにしえの道、ぎょうじゃの道、いわわきの道、みはらしの道、すぎこだちの道、きゅうざかの道などがある。
南海高野線・近鉄長野線河内長野駅から南海バスで、神納下車、徒歩約80分。岩湧の森の無料駐車場(No.1-No.6)を利用できる。



矢倉脇村

やぐらわきむら

 

[現]橋本市矢倉脇

橋谷(はしたに)村の北、紀見(きみ)峠に続く丘陵地にあり、橋本川の谷に沿って細長く人家が点在。相賀庄惣社大明神神事帳写(相賀大神社文書)所収の天授三年(一三七七)頃の文書によれば、相賀大(おうがだい)神社八月放生会に「矢蔵脇村」は米五升を納めている。慶長検地高目録によると村高一四一石余、小物成四升五合。上組に属し、慶安四年(一六五一)の上組在々田畠小物成改帳控(土屋家文書)では家数二四(本役八など)、人数一〇九、馬一、牛四、小物成は茶一斤、紙木七束。寛文一三年(一六七三)の慶賀野と矢蔵脇等五ケ村山出入証文(矢倉脇区有文書)によると、同年三月二八日、慶賀野(けがの)村の村人が当村根古(ねご)山に「めかり」刈に来たことから山論が生じ、山の入会について取決めをし、絵図を作成している。

地蔵寺(高野山真言宗)は本尊地蔵菩薩。葛城(和泉)山脈の山腹には養叟が住していた徳禅(とくぜん)院跡があり、現在養叟(ようそう)庵と称する小庵となっている。養叟は京都大徳寺の第五世、隠退して当村に来住、土地の有力者贄川氏の援助で徳禅院を建てたという。天保八年(一八三七)の宗恵大照禅師尊像由来記(上垣家蔵)によると、中下(ちゆうげ)村の慶長検地帳に徳善寺所持田畑として六反七畝二四歩が記されていたようである。天王神社は素戔嗚命を祀り、ほかに八王子社四社があった(続風土記)。根古川上流に唐(から)滝と孤子(こし)ヶ滝がある。©Heibonsha Limited, Publishers, Tokyo

 

高野街道―京・大坂道―

てくころ文庫VOL2 高野街道

 

一 東高野街道 京都からの道

古来、「高野街道」と呼ばれてきたいくつかの高野参詣道の中で、歴史も古く交通量の多かったのが、京都から高野への東高野街道(京街道)と、河内長野でこれに合流する堺からの西高野街道で、京・大坂道として多くの人々に慣れ親しまれてきた。

京都から八幡市を経て、大阪府の枚方市に入り、生駒・金剛山系の西麓を南下し、河内長野市から紀見峠を越えて橋本市に入るルートは、延暦15年(796年)に、それまでの真土峠(紀和国境)越えから、路線変更になった南海道とほぼ同じであったと言われている。

南海道は間もなく和泉国から雄ノ山越えとなり、やがて官道としての機能を失うが、この道は、弘仁7年(816年)弘法大師空海の高野開山により、都と高野を結ぶ信仰の道としてよみがえることとなった。

 東高野街道が名実共に高野参詣道となるのは、平安時代後期11世紀末から12世紀初め頃と言われるが、中世以降村落の発達につれ、北・中・南河内を縦貫するこの街道は、単なる信仰の道だけでなく、村々を結ぶ重要な生活道路であり、また、生駒・金剛の山なみを越えて東西に走るいく筋もの街道を縫い合わせる役目を果たした。それらのことが紀見峠越えまでの緩やかな地形と相まって、高野街道としての立地条件をよくし、旅人の数は年を追って増加し、高野参詣の大動脈に発展していった。

 現在、そのルートは国道1号で洞ヶ峠から枚方市に入り、そこから南へ交野・寝屋川・四条畷・大東・東大阪・八尾・柏原・藤井寺・羽曳野・富田林・河内長野の諸都市を貫き、府道、国道170号線・371号線などによって結ばれている。多くは近代的な道路の下に埋没してしまったが、それでも諸都市の裏通りのたたずまいや、街角に残る「かうや道」と刻まれた道標などに旧街道の面影を宿しているところが少なくない。

 

2 西高野街道 大坂・堺からの道

 堺から河内長野までの西高野街道は、本来は熊野街道と東高野街道を結ぶもので、その成立は平安時代末期から鎌倉時代初期の頃と思われる。中世以降寺社詣が庶民の間に広まるにつれ、西国方面からこの街道を高野へ向かう人々が多くなったが、室町時代には京都方面からでも淀川を船で下ってこの道を行く者もあり、次第に交通量も増加していった。

 しかし、西高野街道が全盛期を迎えるのは近世以降であり、これには大阪や堺の繁栄と深い関係がある。江戸時代の寺社詣は庶民のレクリエーションであり、高野参詣の旅程の中に大坂見物を組み込むことが多かった。それらの人々が海上から堺の港に上陸した人々を合わせて、西高野街道に繰り込んだ。江戸時代後半には、この街道を通る人は東高野街道を通る人を上廻り、ついにはそのお株を奪って河内長野以南までも西高野街道と呼ばれる始末であった。

 江戸時代の西高野街道は、堺の土居川に架る大小路橋から南へ仁徳陵の東側を通り、下茶屋、中茶屋などの地名を今に残しながら、大阪狭山市を南へ貫通して河内長野に入り、楠町で大阪平野から松原を経て狭山池の東側を通る中高野街道を合わせ、原の辻で東高野街道に合流するものであった。現在、このルートには国道310号線が走り、往年の高野街道はこれに吸収されたかにみえる。しかし、国道からそれた脇道、たとえば、堺市の関茶屋の古い家並みの間の小路や、大阪狭山市の開発から取り残された水路に沿った農道などいくつかの場所は、幕末に茱萸木村(大阪狭山市)の小左衛門と五兵衛が発願して建てられた一里道標石とともにこの街道の歴史を今に伝えている。

 

3 紀見峠越え

 紀見峠越えの道も東高野街道と呼ばれてきた。峠越えの古道は紀見峠北口からすぐ「巡礼坂」を矢倉脇に下って慶賀野に出るもので峠の上を南北に縦断し、南口から「馬ころがし坂」を下って沓掛から慶賀野への新道が整備されたのは近世以降のこと。慶安元年(1648年)に紀州藩がここに伝馬所を置いたのが契機となって集落が形成され、やがて峠の宿場が栄えた。今も本陣北村家をはじめ、古い家並みが往時を偲ばせてくれる。

 明治31年(1898年)現在のJR和歌山線が五條から延長されて橋本駅が開設されると、紀見峠を通る高野参詣客は減少し、大正4年(1915年)今の南海高野線が橋本まで入るにおよんで、峠の道は高野街道としての機能を全く失ってしまった。現在国道371号は昭和44年に開通した紀見トンネルを抜けるので、峠に登って柱本に下る旧国道は静かな散策道となっている。

 
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