石仏村 いしぼとけむら [現]河内長野市石仏・北青葉台(きたあおばだい) 天見(あまみ)谷がやや広くなった所にあり、天見川と高野街道が並行している。北西は新町(しんまち)村。当地にあった阿弥陀寺の本尊が石仏であったため、村名が生じたという。南東清水(しみず)村境の城(しろ)山は、元弘二年(一三三二)に楠木正成が構えたといわれる石仏城跡。烏帽子形(えぼしがた)城とともに天見谷・加賀田(かがた)谷を抑える重要な城であったと伝える。正保郷帳の写とみられる河内国一国村高控帳では高一七一石余、ほかに山年貢高一〇石余。延宝年間(一六七三―八一)の河内国支配帳では二一二石余、天和元年(一六八一)の河州各郡御給人村高付帳では一八一石余、元文二年(一七三七)の河内国高帳は二二〇石余。領主の変遷は市(いち)村に同じ。元禄一〇年(一六九七)閏二月に大火があり民家二一軒が焼失。嘉永三年(一八五〇)の綿作高は一一石余(滋賀県庁文書)。元禄五年の寺社帳(中村重喜家文書)には天神社・宮寺天神寺・融通念仏宗阿弥陀寺が載る。前述の阿弥陀寺はもと石仏寺といったが、明治八年(一八七五)に廃寺(大阪府全志)。同一九年に新町村を合併した。©Heibonsha
Limited, Publishers, Tokyo "いしぼとけむら【石仏村】大阪府:河内長野市", 日本歴史地名大系,
JapanKnowledge, http://japanknowledge.com, (参照 2016-11-06)
こうしん‐どう[カウシンダウ] 【庚申堂】
解説・用例
〔名〕
庚申青面(こうしんしょうめん)をまつってある堂。三猿(さんえん)の像や、他に、梵天(ぼんてん)・帝釈(たいしゃく)・猿田彦などをもまつってあることが多い。
*仮名草子・浮世物語〔1665頃〕二・五「新清水、庚申堂(カウシンダウ)をも打過て、石の鳥井に著く」
*浄瑠璃・冥途の飛脚〔1711頃〕下「頼まば願(ねがひ)庚申(かのゑさる)。かうしんだうよと伏しおがみ、ふり返り見る」
*俳諧・鶉衣〔1727〜79〕後・下・九八・百話亭辞「庚申堂の猿の如く、耳をふたぎてもむかはるべきかは」
こうしん‐しょうめん[カウシンシャウメン] 【庚申青面】
解説・用例
庚申待ちにまつる神。密教の青面金剛(しょうめんこんごう)と道教の庚申の説とが混交したもの。
三日市村 みつかいちむら [現]河内長野市三日市町・日東(につとう)町・大師(だいし)町 天見(あまみ)川と石見(いしみ)川の合流点北側にあり、西は上田(うえだ)村。高野街道に沿い、また観心(かんしん)寺や延命(えんめい)寺から大和へ越える道の基点という交通の要地で、宿駅が置かれた。小字名に高野口(こうやぐち)がある。なお、当地は延久四年(一〇七二)九月五日の太政官牒(石清水文書)にみえる布志見(ふしみ)庄「槻本里」の所在地に比定され、古代南海道の槻本(つきもと)駅を当地にあてる説もある。 正保郷帳の写とみられる河内国一国村高控帳では高三二七石余、うち幕府領二五〇石・近江膳所藩領七七石余、ほかに山年貢高七石。延宝年間(一六七三―八一)の河内国支配帳では旗本甲斐庄領二五四石余と膳所藩領八四石。元禄一〇年(一六九七)には幕府領と膳所藩領の相給(滋賀県庁文書)。元文二年(一七三七)の河内国高帳では幕府領二五五石余と膳所藩領八四石余。延宝の支配帳の甲斐庄領の注に「今御領」とあるので、同帳の編纂時期とみられる延享三年(一七四六)以降のある時期にも幕府領があったとみられ、宝暦一〇年(一七六〇)・安政四年(一八五七)には幕府領と膳所藩領(滋賀県庁文書)、幕末には幕府領二五八石余・膳所藩領八四石余。宝暦一〇年の家数は幕府領一八三・膳所藩領三二、安政四年には幕府領九二・膳所藩領一三。元禄一〇年幕府領の農家より出火し、膳所藩領の農家一五軒が類焼、宝永元年(一七〇四)には膳所藩領農家より出火、膳所藩領で八軒、幕府領で二六軒が焼失(同文書)。宝暦一二年正月にも大火があって宿駅の書類が焼失した(辻野家文書)。元禄五年の寺社帳(中村重喜家文書)によると産土神は正八幡宮(現赤坂上之山神社)で、宮寺は八幡山興禅(こうぜん)寺(現曹洞宗)、ほかに無本寺南光寺・清水山月輪(げつりん)寺(現高野山真言宗)・真教(しんきよう)寺(現浄土真宗本願寺派)が載る。興禅寺の草創開基は不明。寺伝によると同一五年鳳林(ほうりん)寺(現天王寺区)養愚の中興と伝え、現在の本堂はこのときの建立という。本尊阿弥陀如来坐像は国の重要文化財。月輪寺の木造薬師如来坐像は府指定文化財。明治五年(一八七二)真教寺に郷学校の出張所(生徒五〇人)が置かれた(大阪府史料)。©Heibonsha Limited, Publishers, Tokyo "みっかいちむら【三日市村】大阪府:河内長野市", 日本歴史地名大系, JapanKnowledge, http://japanknowledge.com, (参照 2016-11-06)
上田村 うえだむら [現]河内長野市上田町 天見(あまみ)谷の北部にある。天見川が南から北へ流れ、東と西は山地。北は喜多(きた)村、東は三日市(みつかいち)村。高野街道が通る。正保郷帳の写とみられる河内国一国村高控帳では高一六四石余、旗本甲斐庄正房領、ほかに山年貢高六斗余。幕末まで同氏領で、元文二年(一七三七)の河内国高帳では一九七石余(うち一〇石余は新田)。以降大きな高の変化はない。天保一四年(一八四三)の村明細帳(竹鼻家文書)によると、三日市宿へ日々人足八人・馬八匹を定助郷として勤めた。田方には稲・綿・煙草、畑方には芋・瓜・大豆・小豆など、裏作は麦・菜種。反当収穫量は上田一反につき米一石八斗・綿一〇〇斤・煙草一四〇―一五〇斤・麦一石二斗―一石四斗・菜種四―六斗。溜池は一四ヵ所、井路一。融通念仏宗増福寺・同宗阿弥陀寺・真言宗正法寺が記される。増福寺は応永年間(一三九四―一四二八)の創建という。畠山義深が烏帽子形(えぼしがた)山の下に隠居し、増福寺殿といったことにより、寺の名としたという。弘化五年(一八四八)の家数四七(辻野家文書)。当村には鋳物師の田中家があり、加賀田(かがた)村岩湧(いわわき)寺の梵鐘の銘(寛永一八年)に吹屋上田村田中喜太夫宗安の名がみえる。
"うえだむら【上田村】大阪府:河内長野市", 日本歴史地名大系, JapanKnowledge, http://japanknowledge.com,
(参照 2016-11-06)
烏帽子形八幡神社 えぼしがたはちまんじんじや [現]河内長野市喜多町 烏帽子形山の東斜面中腹に位置する。現祭神は素盞嗚命・足仲彦命・神功皇后・応神天皇。旧村社。烏帽子形山にあった烏帽子形城の鎮護として創建祭祀されたと伝える。昭和四〇年(一九六五)から翌年にかけての保存修理工事の際棟札および棟束の墨書が見つかり、本殿の建立が文明一二年(一四八〇)であることが判明した(国指定重要文化財)。元禄五年(一六九二)の河州烏帽子形八幡宮覚(社蔵)によると、当地の領主で、中世烏帽子形城の城主であった甲斐庄(橘)氏の子孫旗本甲斐庄喜右衛門正保が、元和三年(一六一七)四天王寺(現天王寺区)の塔の御普請奉行を勤めたが、工事後自分の居館の鎮守たる当社がはなはだ荒廃しているのを嘆き、塔普請の余材で修造し、同八年八月上棟したという。この修造の事実も確認された。元禄五年の寺社帳(中村重喜家文書)には喜多(きた)村に当社と宮寺正保寺が記される。「河内名所図会」は、上田(うえだ)村にあり上田八幡宮ともよばれたとするが、これは烏帽子形山が喜多・上田・小塩(こしお)三村立会であったためであろう。同書には宮寺徳寿院が載るが、明治の神仏分離で徳寿院高福寺は廃寺となった。©Heibonsha
Limited, Publishers, Tokyo "えぼしがたはちまんじんじゃ【烏帽子形八幡神社】大阪府:河内長野市/喜多村",
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原村 はらむら [現]河内長野市原町・千代田南(ちよだみなみ)町・千代田台(ちよだだい)町・西之山(にしのやま)町 北は市村(いちむら)新田、東は向野(むかいの)村、南西から北東に延びた平坦な台地上で、標高約一二〇メートル。南北に通る西高野街道沿いに集落がある。向野村より滝畑(たきのはた)村へ至る道が交差する。文禄検地の反別二八町八反余・分米三六七石余(中尾家文書)。正保郷帳の写とみられる河内国一国村高控帳では高三六七石余、ほかに山年貢高八石余。延宝年間(一六七三―八一)の河内国支配帳では三七五石余、元文二年(一七三七)の河内国高帳では四二四石余、以後高の変化なく、領主の変遷は長野(ながの)村に同じ。宝永二年(一七〇五)の家数一二五(うち寺四)・人数六四九、牛二二・馬二(田中貞二家文書)。家数は宝暦一三年(一七六三)一〇五、文政八年(一八二五)八六(高持六〇・屋敷のみ一三・無高一三)、人数は宝暦六年五四六、文政一一年四〇三(中村宏家文書)。安永四年(一七七五)には稲作のほか綿・煙草を作っていたが、大不作で肥料の高値とともに生活が困窮した(吉年家文書)。元禄五年(一六九二)の寺社吟味帳(同文書)によると、天神宮は長野庄の一宮で、棟札に「寛正六年
乙 酉 年七月朔日、畠山本庄中村道固」と書かれていたという。同帳には融通念仏宗薬師寺・無本寺法音寺・同明忍(みようにん)寺(現真言宗御室派)・融通念仏宗阿弥陀寺が記される。字石坂(いしざか)に封土の高さ三尺・周囲七間の小墳があり、晴明(せいめい)塚と刻まれた石碑と石灯籠があったという(大阪府全志)。陰陽師阿倍晴明の文書を埋めたと伝える。©Heibonsha
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小山田村 おやまだむら [現]河内長野市小山田町・北貴望(きたきぼう)ヶ丘(おか)・南貴望(みなみきぼう)ヶ丘(おか)・千代田台(ちよだだい)町・松(まつ)ヶ丘西(おかにし)町・松(まつ)ヶ丘中(おかなか)町・楠(くすのき)町東(ひがし)・楠(くすのき)町西(にし)・緑(みどり)ヶ丘(おか)〈北(きた)町・中(なか)町・南(みなみ)町〉・昭栄(しようえい)町・寿(ことぶき)町
上原(うわはら)村の西にあり、北は茱萸木(くみのき)新田(現南河内郡狭山町)からの道で大野(おおの)新田(現同上)、西は和泉国。おおむね低い丘陵で、西部は天野谷が南北に延びる。奈良時代の火葬墓とされる小山田一号古墓・二号古墓があり、一号古墓からは蔵骨器が出土した。治承四年(一一八〇)八月日付源貞弘山野田畠寄進状案(金剛寺文書)の四至書に「東限小山田領」「北限小山田境」とみえる。正保郷帳の写とみられる河内国一国村高控帳では高八三四石余で、五五二石余が旗本三好領、二八二石余が近江膳所藩領、ほかに山年貢高二四石余。延宝年間(一六七三―八一)の河内国支配帳では三好領五五二石余・膳所藩領三〇七石余(山高とも)。元文二年(一七三七)の河内国高帳では各々五五二石余と五八七石余、膳所藩領の増石の理由は不明で、以降大きな高の変化なく幕末に至る。享和二年(一八〇二)には瓦を焼く者がいた(中村重喜家文書)。嘉永三年(一八五〇)の膳所藩領の田方綿作は七二石余、畑方綿作は三一石余(滋賀県庁文書)。元禄五年(一六九二)の寺社帳(中村重喜家文書)には五社大明神(現住吉神社)、宮寺真言宗神宮寺・真宗本願寺派西福寺・融通念仏宗安楽(あんらく)寺が記される。同帳によると、五社大明神は神仏習合により内陣に薬師・阿弥陀・大日・観音・地蔵を安置していた。七五人からなる宮座があり、「年かさ廻り持」であった。「大阪府全志」によると、もと豊浦神社といったが明治初期清崎神社と改め、表筒男命・中筒男命・底筒男命・息長足姫命・武内宿禰を祭神としていたという。現在は廃れたが、かつては毎年一〇月一二日に馬かけの神事が行われた。明治五年(一八七二)住吉神社拝殿に郷学校出張所(生徒七〇人)が置かれた(大阪府史料)。©Heibonsha
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半田村 はんだむら [現]狭山町半田・金剛(こんごう)一―二丁目・大野台(おおのだい)一丁目、富田林(とんだばやし)市久野喜台(くのきだい)一―二丁目・寺池台(てらいけだい)一丁目・同四―五丁目
池尻(いけじり)村の南にあり、北西は狭山池に接する。西部を西除(にしよけ)川が北流して狭山池に流れ込み、東側を中高野街道が南北に通る。地名は「日本書紀」崇神天皇六二年七月二日条に「河内の狭山の埴田水少し」とある埴田から生じたといい、古くは埴田(はにた)村と称したと伝える(大阪府全志)。嘉元四年(一三〇六)六月一二日の昭慶門院御領目録(竹内文平氏旧蔵文書)に「半田池尻」とあり、南北朝時代には度々戦場となって池尻とともに史料に地名がみえる(→池尻村)。狭山池の南東、狭山神社北方に城か前・城か後などの字地があり、西側に西除川が流れ、東側後背は羽曳野(はびきの)丘陵につらなる。古城があったと伝えるが、明和二年(一七六五)の村明細帳(中川家文書)には「古城跡は無御座候」と記される。
天正一一年(一五八三)八月一日豊臣秀吉は伊東祐兵に半田村五〇〇石を宛行っている(日向記)。江戸時代の初めは幕府領、宝永元年(一七〇四)武蔵川越藩領となる。のち文化九年(一八一二)より相模小田原藩領となり幕末に至る。慶長一三年(一六〇八)の狭山池改修で三一三石余が池床になったといわれ(狭山町史)、正保郷帳の写とみられる河内国一国村高控帳では高六四八石余、小物成として高一〇石六斗山年貢(半田・池尻両村立会)。延宝年間(一六七三―八一)の河内国支配帳では八九七石余。元禄二年(一六八九)の検地では古検高六五九石余に対して新検高は九六〇石余であった。出高のうち約一〇〇石は地目変換・斗代変更で出たものなので、年貢延納を願出ている(中川家文書)。前掲村明細帳、各年の宗門帳(「狭山町史」所収)によると明和二年の家数一七二(うち無高三二)、人数七二六、天保九年(一八三八)は飢饉の影響か六六三人、文久元年(一八六一)七四一人。家数は明和二年から天保九年にかけて約四〇軒減少するが、高持階層の減少が甚しく、村外転出が多い。以後明治にかけて戸数漸増のなかでは無高層と思われる無役階層の増加がみられ高持層に変化はない。
前掲村明細帳によると本田面積のうち稲作面積は七一・九パーセント、水田の四三・八パーセントが麦作・菜種作。河内綿作地帯南端に近く、綿作付率は耕地の三九・三パーセントにあたり、稲・綿の輪作地帯としては高率であった。その後衰退し、弘化三年(一八四六)頃には二六・三パーセントに減少していた(狭山町史)。副業としては女性による木綿織が盛んで、半田木綿は糸細く良質で知られた。米麦以外の農産物では粟・稗・大豆・蕎麦・小豆がある。灌漑の八割は溜池によるが、共有池、西の茱萸木(くみのき)新田との立会池、個人持ちの小溜池が各々六ヵ所あり、東の廿山(つづやま)村(現富田林市)と当村にまたがる寺(てら)ヶ池は、長さ一三〇間・横五六間・広さ二町四反二畝・深さ八尺の大池で、五〇四石余の水懸面積は村内の溜池灌漑面積の総計高七〇三石余の約七割以上に及ぶ(中川家文書)。管理は庄屋ら村方地主層が池守を兼ね水配役にも当たったが、享和期(一八〇一―〇四)から村方騒動の多くなるなかで水論も起こり、江戸時代後期には隣接村の新田開発の進行に伴い寺ヶ池などが埋没するなどで紛争が起こっている(狭山町史)。村方騒動は両組一件として史料的には享和三年から明治初年にかけて続いている。江戸時代初期から庄屋は南組・中組の両方があり、農民も株で両方に分れていて年貢から村小入用まで別帳面であった(中川家文書)。
村内には狭山池の樋役人の居住地半田新(はんだしん)町が設けられ、池尻村の狭山新(さやましん)町とともに新町・狭山新宿・東新町ともよばれた。狭山池畔には狭山藩の下屋敷があり、毎年三石六斗八升余が池尻村から当村に納められた。講は伊勢講・永代講・おかげ講・川迎講などがあり、七―八人から一一―一二人で結成されて講田もあった。寺子屋は、明治三年(一八七〇)から同四年までのものと年代未詳のものとの二ヵ所が楠田太一なる者により設置されている(狭山町史ほか)。産土神は式内社狭山神社。狭山神社の宮寺であった融通念仏宗安楽(あんらく)寺は明治維新の神仏分離の際破却されたと思われる。延宝五年以降の記録や前掲村明細帳などからも存在は確かだが、位置・規模やより古い寺院跡と思われるものとの関係など不明の点が多い。現在、狭山神社の南側に融通念仏宗風輪(ふうりん)寺がある。この辺りに残る民家は田の字形四間取りながら妻入の家で、屋根は入母屋造。最古とされる吉川邸は府指定文化財で、江戸初期の形式を残す。中川邸も妻入で、かつての富農の家がうかがえる(狭山町史)。©Heibonsha
Limited, Publishers, Tokyo "はんだむら【半田村】大阪府:南河内郡/狭山町", 日本歴史地名大系,
JapanKnowledge, http://japanknowledge.com, (参照 2016-11-06)
半田村 はんだむら [現]狭山町半田・金剛(こんごう)一―二丁目・大野台(おおのだい)一丁目、富田林(とんだばやし)市久野喜台(くのきだい)一―二丁目・寺池台(てらいけだい)一丁目・同四―五丁目
池尻(いけじり)村の南にあり、北西は狭山池に接する。西部を西除(にしよけ)川が北流して狭山池に流れ込み、東側を中高野街道が南北に通る。地名は「日本書紀」崇神天皇六二年七月二日条に「河内の狭山の埴田水少し」とある埴田から生じたといい、古くは埴田(はにた)村と称したと伝える(大阪府全志)。嘉元四年(一三〇六)六月一二日の昭慶門院御領目録(竹内文平氏旧蔵文書)に「半田池尻」とあり、南北朝時代には度々戦場となって池尻とともに史料に地名がみえる(→池尻村)。狭山池の南東、狭山神社北方に城か前・城か後などの字地があり、西側に西除川が流れ、東側後背は羽曳野(はびきの)丘陵につらなる。古城があったと伝えるが、明和二年(一七六五)の村明細帳(中川家文書)には「古城跡は無御座候」と記される。
天正一一年(一五八三)八月一日豊臣秀吉は伊東祐兵に半田村五〇〇石を宛行っている(日向記)。江戸時代の初めは幕府領、宝永元年(一七〇四)武蔵川越藩領となる。のち文化九年(一八一二)より相模小田原藩領となり幕末に至る。慶長一三年(一六〇八)の狭山池改修で三一三石余が池床になったといわれ(狭山町史)、正保郷帳の写とみられる河内国一国村高控帳では高六四八石余、小物成として高一〇石六斗山年貢(半田・池尻両村立会)。延宝年間(一六七三―八一)の河内国支配帳では八九七石余。元禄二年(一六八九)の検地では古検高六五九石余に対して新検高は九六〇石余であった。出高のうち約一〇〇石は地目変換・斗代変更で出たものなので、年貢延納を願出ている(中川家文書)。前掲村明細帳、各年の宗門帳(「狭山町史」所収)によると明和二年の家数一七二(うち無高三二)、人数七二六、天保九年(一八三八)は飢饉の影響か六六三人、文久元年(一八六一)七四一人。家数は明和二年から天保九年にかけて約四〇軒減少するが、高持階層の減少が甚しく、村外転出が多い。以後明治にかけて戸数漸増のなかでは無高層と思われる無役階層の増加がみられ高持層に変化はない。
前掲村明細帳によると本田面積のうち稲作面積は七一・九パーセント、水田の四三・八パーセントが麦作・菜種作。河内綿作地帯南端に近く、綿作付率は耕地の三九・三パーセントにあたり、稲・綿の輪作地帯としては高率であった。その後衰退し、弘化三年(一八四六)頃には二六・三パーセントに減少していた(狭山町史)。副業としては女性による木綿織が盛んで、半田木綿は糸細く良質で知られた。米麦以外の農産物では粟・稗・大豆・蕎麦・小豆がある。灌漑の八割は溜池によるが、共有池、西の茱萸木(くみのき)新田との立会池、個人持ちの小溜池が各々六ヵ所あり、東の廿山(つづやま)村(現富田林市)と当村にまたがる寺(てら)ヶ池は、長さ一三〇間・横五六間・広さ二町四反二畝・深さ八尺の大池で、五〇四石余の水懸面積は村内の溜池灌漑面積の総計高七〇三石余の約七割以上に及ぶ(中川家文書)。管理は庄屋ら村方地主層が池守を兼ね水配役にも当たったが、享和期(一八〇一―〇四)から村方騒動の多くなるなかで水論も起こり、江戸時代後期には隣接村の新田開発の進行に伴い寺ヶ池などが埋没するなどで紛争が起こっている(狭山町史)。村方騒動は両組一件として史料的には享和三年から明治初年にかけて続いている。江戸時代初期から庄屋は南組・中組の両方があり、農民も株で両方に分れていて年貢から村小入用まで別帳面であった(中川家文書)。
村内には狭山池の樋役人の居住地半田新(はんだしん)町が設けられ、池尻村の狭山新(さやましん)町とともに新町・狭山新宿・東新町ともよばれた。狭山池畔には狭山藩の下屋敷があり、毎年三石六斗八升余が池尻村から当村に納められた。講は伊勢講・永代講・おかげ講・川迎講などがあり、七―八人から一一―一二人で結成されて講田もあった。寺子屋は、明治三年(一八七〇)から同四年までのものと年代未詳のものとの二ヵ所が楠田太一なる者により設置されている(狭山町史ほか)。産土神は式内社狭山神社。狭山神社の宮寺であった融通念仏宗安楽(あんらく)寺は明治維新の神仏分離の際破却されたと思われる。延宝五年以降の記録や前掲村明細帳などからも存在は確かだが、位置・規模やより古い寺院跡と思われるものとの関係など不明の点が多い。現在、狭山神社の南側に融通念仏宗風輪(ふうりん)寺がある。この辺りに残る民家は田の字形四間取りながら妻入の家で、屋根は入母屋造。最古とされる吉川邸は府指定文化財で、江戸初期の形式を残す。中川邸も妻入で、かつての富農の家がうかがえる(狭山町史)。©Heibonsha
Limited, Publishers, Tokyo "はんだむら【半田村】大阪府:南河内郡/狭山町", 日本歴史地名大系,
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池尻村 いけじりむら [現]狭山町池尻など 東野(ひがしの)村の南にある。東の東除(ひがしよけ)川、西の西除川に囲まれ、南は狭山池と半田(はんだ)村。中高野街道が南北に通る。地名は「新撰姓氏録」(河内国未定雑姓)に「池後臣 天彦麻須命之後也」とある池後氏の居住地であるからとも、狭山池の池尻にあるからともいう(大阪府全志)。嘉元四年(一三〇六)六月一二日の昭慶門院御領目録(竹内文平氏旧蔵文書)に宝樹院領として「大宮宰相中将半田池尻」がみえる。南北朝時代には度々戦場となり、南朝方に属した高木遠盛の延元三年(一三三八)一〇月日付軍忠状(和田文書)に、同年九月二九日のこととして「属佐備三郎左衛門尉正忠手、相向池尻半田」とある。西除川東岸の小字西池尻(にしいけじり)の一部とその南方にある高台の辺りは、南の狭山池と東の低地に画され、古城(ふるしろ)の小字名が残る。当時河内守護細川顕氏が率いる北朝軍は野田(のだ)庄(現堺市)に城郭を構え、池尻・半田辺りには陣営を設けていた。また正平二年(一三四七)八月二四日、和泉守護細川顕氏が率いる北朝軍に対し、楠木正行の率いる和泉国の武士和田蔵人助氏が池尻合戦に参加していた(同七年六月日「和田助氏軍忠状」和田文書)。
文禄三年(一五九四)一二月二日豊臣秀吉が北条氏規に与えた知行目録(北条家文書)に村名がみえ、以降幕末まで狭山藩北条領。元和二年(一六一六)氏信のとき陣屋が狭山池北東岸に置かれて藩政の中心となった。文禄検地高は六四〇石(享和二年「村明細帳」沢田家文書)。元禄一二年(一六九九)の検地で一八三石余を改出して八二三石となり、享保九年(一七二四)・天明四年(一七八四)新開高の増加があって(同村明細帳)、元文二年(一七三七)河内国高帳では一千九八石余。前掲村明細帳によると家数一五九(うち無高三〇)、うち一五〇軒が融通念仏宗、法華宗・浄土宗・真言宗が各一軒、浄土真宗本願寺派が六軒。人数七二八。承応二年(一六五三)の水割符帳(田中篤家文書)によると狭山池から受水し、水懸高は四八三石。前掲村明細帳によると村を三地域に区分して西山地域は三ヵ所、下地地域は四ヵ所、上地地域は五ヵ所の溜池を用水とした。半田村領の池もあり、半田村と廿山(つづやま)村(現富田林市)へ毎年米一石四升四合を池床年貢・堤敷年貢として渡していた。元禄年間以降の新開発田の増加に伴い隣接他村と溜池・境界をめぐる対立も増えたが、狭山池に接することから水上・水下の水論もあった。元禄六年南北両野田(のだ)村(現堺市)との間に(田中篤家文書)、天保二年(一八三一)から同五年にかけては、狭山池の水下にある当村内の太満(たいま)池をめぐり両野田村と阿弥(あみ)村(現美原町)との間に起こっている(井上家文書)。
綿作農民のうちには副業として木綿織をする者もいたが、天保八年には繰綿商人が名をみせ(「御公用書付控」古城家文書)、幕末には木綿問屋を営む家もあった(狭山町史)。絞油業は明和(一七六四―七二)頃三人の水車稼人がおり(同文書)、享和(一八〇一―〇四)頃は二人となるが(前掲村明細帳)、生産された菜種はこうした業者や隣接農村に売られた。油は嘉永三年(一八五〇)の油問屋仕切帳(古城家文書)によると、近接農村への直売は二パーセントで、多くは大坂・堺に売られている。文政六年(一八二三)六月、同七年四月の国訴は、摂河泉の多くの村を巻込んだ訴訟であったが、菜種・油に関する国訴には当村も加わり(沢田家文書)、天保六年肥料に関する国訴にも参加して成功している(狭山町史)。享和二年狭山藩領村方明細帳(中之島図書館蔵)によると、当村には郷宿越前屋があった。
産土神は半田村の狭山神社。当村の堂之講は村内の融通念仏宗極楽寺の檀家のうち、土着開発衆と考えられる家柄である芝切衆の子孫たちを中心として享保年中に組織されたもので、講はさらに座内である旧株と外部より移住してきた座外の新株とに分れる。宮座と似ているが、新開発田の増加などによる新興農民の台頭への対抗として、座内層の団結と特権保持のために結成されたものと推測される。座内と座外の対立が表面化したのは天明三年で、座外の者は護摩之講という新規の座を結成して対抗した。同四年藩は堂之講を解散させたが、寛政三年(一七九一)に再興させ、高五石以上・村内居住五〇年以上の者は座内へ加入させて落着をみた(田中篤家文書ほか)。講は大和大峯(おおみね)山参拝のための山上講などもあったが、文政九年の山上講名前覚帳(小谷家保管)によると、世話方中心に一一組があって講田をもち、作徳米代銀・寄付などで財政を賄い、講員のうち毎年二人ずつが代参する慣行であった。安政二年創立の寺子屋柳北塾では藩士山内佳平が農民子弟に教えた。ほかにも文久三年(一八六三)から僧侶稲葉泰恵の教えるものがあって明治四年(一八七一)まで続いた。維新後希望者が東池尻の観音堂で旧藩士山崎徳蔵に学び、廃藩後は旧狭山藩陣屋上屋敷御殿の書院を借りて山内佳平らによる授業が同五年まで続いた(狭山町史)。慶長六年(一六〇一)狭山藩主北条氏の位牌所として創建された報恩(ほうおん)寺(単立)がある。©Heibonsha
Limited, Publishers, Tokyo "いけじりむら【池尻村】大阪府:南河内郡/狭山町", 日本歴史地名大系,
JapanKnowledge, http://japanknowledge.com, (参照 2016-11-06)
狭山藩陣屋跡 さやまはんじんやあと [現]狭山町池尻・半田 狭山池の北岸から東岸にあった狭山藩北条氏の陣屋跡。天正一八年(一五九〇)相模小田原の北条氏政が滅亡したのち、その弟氏規は氏政の嫡子氏直とともに助命され、高野山、のち河内国錦部(にしごり)郡天野(あまの)(現河内長野市の天野山金剛寺か)に移された。「寛政重修諸家譜」によると、同一九年氏規は豊臣秀吉より河内国丹南郡で二千石を宛行われ、文禄三年(一五九四)には同国丹南・河内二郡内で加恩があり、計六千九八〇石余を給されたという。天正一九年の丹南郡二千石は同年八月九日付豊臣秀吉朱印状(北条家文書)に丹南郡檗(きはだ)村二千石と記される。檗村を中世日置(ひき)庄(現堺市)の地であった丹南郡西(にし)村と、同郡池尻(いけじり)・岩室(いわむろ)・今熊(いまくま)の各村を含む一帯と推測する説もある(狭山町史)。文禄三年の加恩については同年一二月二日付北条氏規宛豊臣秀吉知行目録(北条家文書)に丹南郡一〇村・錦部郡一二村・河内郡二村の計六千九八八石余が載り、次に記す村が含まれる。丹南郡は野中(のなか)(現藤井寺市)、宮(みや)・郡戸(こおず)(現羽曳野市)、多治井(たじい)・丹上(たんじよう)・真福寺(しんぷくじ)・今井(いまい)(現美原町)、池尻・岩室(一部)、今熊の各村。錦部郡は廿山(つづやま)・錦部・彼方(おちかた)(以上三村は一部)・嬉(うれし)(現富田林市)、向野(むかいの)(一部)・滝畑(たきのはた)・小塩(おしお)・河合寺(かわいでら)・鳩原(はとのはら)・太井(おおい)・小深(こぶか)・石見川(いしみがわ)(現河内長野市)の各村。河内郡は出雲井(いずもい)村(現東大阪市)と福万寺(ふくまんじ)村(一部、現八尾市)。
氏規の子氏盛は天正一九年に氏直の遺領のうち下野梁田郡内四千石を給され、慶長五年(一六〇〇)氏規の遺領約七千石を継承した。氏盛の子氏信は元和二年(一六一六)池尻に陣屋を設けた。いわゆる狭山藩で、北条氏は氏盛から数えて一二代にわたって幕末まで在封した。寛文元年(一六六一)下野国領は常陸国筑波郡内に移されて知行高は計一万石となり、筑波領は元禄四年(一六九一)下野に、同一一年近江国に移され、河内国内では同一二年丹南郡の一部が古市郡に移された(前掲諸家譜)。丹南郡分は岩室・今熊の二村、古市郡分は軽墓(かるはか)・西浦(にしうら)(現羽曳野市)の二村と考えられる。宝暦八年(一七五八)には多治井・野中・宮の三村が、丹北郡の東我堂(ひがしがどう)・西我堂・芝(しば)(現松原市)、矢田部(やたべ)・北枯木(きたかれき)・南枯木(現東住吉区)の六村と、大県(おおがた)郡の神宮寺(じんぐうじ)(現八尾市)、大県・平野(ひらの)(現柏原市)の三村に変えられた。幕末には河内国六郡三一ヵ村(錦部郡で錦部新田を開発)、近江国四郡七村を領有し、明治初年の石高は一万一千六〇〇余石(藩制一覧)。文化年間(一八〇四―一八)頃から財政が悪化し、安政五年(一八五八)には凍豆腐の専売制を布くなど(辻野家文書)、財政の建直しを図ったが、明治初年には藩債が三万九千余両にも達した(沢田家文書)。明治二年(一八六九)版籍奉還し、同四年の廃藩置県を待たず堺県に合併された。
陣屋は狭山池の北東部からほぼ東に流出する東除(ひがしよけ)川河口の北側に設けられた。東を東野(ひがしの)村を経て平野郷(ひらのごう)町(現平野区)へ向かう中高野街道、西を上(かみ)池・中池・下池に挟まれた細い台地の入口にあたり、西方は狭山池から流れ出る西除川河口地域である。天明二年(一七八二)に焼失、同六年再建されて以後整備されるが、五万一千二九六坪、東西より南北が少し長い四町四面で総回り八〇四間、中央南北に幅五間の道(現府道河内長野―美原線)が通じ、南端に大手門、北端に裏門があり、四方に小路が通じていた。内部は時代により変化があるが、西端にあった内郭には藩主および一族の住居、正庁・儀式用建物・藩校簡修(かんしゆう)館・七つ蔵・御金蔵・御武器蔵などがあり、瓦葺であった。内郭以外の建物には藁葺が多い。東側にあった上級藩士邸は表筋に面して屋敷地を与えられ、倉庫は許されなかった。屋敷地は八〇―一千坪で境界に土塀をめぐらし、中級以下は一軒当りほぼ一〇〇坪の四軒長屋である。宝永六年(一七〇九)に下屋敷が造られ、天明二年にこれも焼失したようである。再建年代は不明だが、上屋敷大手門から狭山池畔に出、東除川を越えると下屋敷の門があったという。屋敷地一万六四坪は小田原藩領の半田(はんだ)村に属しており、毎年三石六斗八升余を池尻村から半田村に納めた。東西平均六六間・南北一五四間、北方中央部池寄りに御殿があり、長屋の藩士邸とともに下屋敷の三分の一を占めた。御殿南の狭山池に面して狭山堤(さやまつつみ)神社(現狭山神社の境内摂社)があった。天明年間の上屋敷再建後には、御庭上池に面して藩士の長屋中屋敷もあった。
上屋敷藩士集会所を教場として藩校簡修館が開かれた。創立は古いといわれるが、嘉永末年の中興で、安政四年(一八五七)には館と南役所とで約三七九坪を占めており、藩士子弟のほかに他藩士子弟も入学を許され、明治五年の学制発布の頃まで続いた。維新前後の概況は次のとおりである。生徒は八歳以上一七歳以下、一七歳以上は本人の志願により在学させる。教員は四―五人、通学生はおよそ六〇人。学科は和学・漢学・兵学の三科で学費は藩費によった(以上狭山町史ほか)。上屋敷の大手門は現在堺市の本願寺堺別院にある。上屋敷跡地の辺りはかつて御殿山(ごてんやま)ともよばれたが、現在は府道を挟んで小学校や民家などがあり、往時をしのばせるものは少ない。明神(みようじん)山を取入れた下屋敷跡地一帯は南海電鉄狭山遊園の一部になっている。©Heibonsha
Limited, Publishers, Tokyo "さやまはんじんやあと【狭山藩陣屋跡】大阪府:南河内郡/狭山町/池尻村",
日本歴史地名大系, JapanKnowledge, http://japanknowledge.com, (参照 2016-11-06)
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