街道歩き資料5-1


高野口町 こうやぐちちよう
面積:二〇・〇八平方キロ

紀ノ川中流域右岸の和泉山脈の南斜面に位置し、北は大阪府、東は橋本市、西はかつらぎ町、南は紀ノ川を挟んで九度山(くどやま)町。九度山町北西部に飛地がある。町の南部を紀ノ川に沿うように国道二四号、国鉄和歌山線が東西に通る。農林業が主産業だが、併せて織物業が盛んである。この織物業は江戸時代奨励された綿織物が発展したもので、明治初期に九重(くじゆう)出身の前田安助が織り方・柄などに改良を加え、当地はこの地方の織物の一大中心地となった。しかし明治末期には和歌山市を中心とする綿ネル生産技術の発展にたち遅れ、当地の綿ネル業はモール織を主とする再織に転換した。大正後期には新たにパイル織物の一種、シール織が始められ、技術の改革や内外の需要によって各種の製品が作られるようになり、現在に及んでいる。製品には内地合繊シール、モケットベロア、輸出綿シール、メリヤスシールなどがある。
明治二二年(一八八九)町村制施行によって名倉(なぐら)村など四村が成立。同四三年名倉村が町制を施行して高野口町となる。昭和三〇年(一九五五)高野口町・応其(おうご)村・信太(しのだ)村が合併して高野口町となった。

嵯峨谷村 さがたにむら

[現]高野口町嵯峨谷

紀ノ川中流域右岸の葛城(和泉)山脈の南斜面にある。東は九重(くじゆう)村、西は竹尾(たけお)村。室町時代初期と思われる高野政所下方田畠在家帳目録(又続宝簡集)に、下方山村分の一として「佐賀谷」の名がみえ、中世は高野山領官省符(かんしようふ)庄下方に属する村であったことが知られる。

慶長検地高目録には「佐我谷村」とみえ、村高一六七石余、小物成四・七六石。延宝五年(一六七七)の禿組指出帳控(大畑家文書)は「佐荷谷村」と記し、田畑一五町二反余、高一六八石余、小物成は桑・茶・紙木で六・六五石、家数三八(本役一五・半役一四など)、人数一八九、牛二五。江戸時代末期には家数五一と増え(続風土記)、中組に属した。江戸時代前期、当村は九重村と村境争いなどを起こしているが(→九重村)、上中(かみなか)村・竹尾村とも村境を争い、吟味の結果、上中村との境界は「岩出そ禰」より「小谷筋」を見通し、神子(みこ)峠を限りとすること、また竹尾村とは同村の主張した「馬こざ」の下道を境とすることが定められた(九重区有文書)。「続風土記」は村内の社寺として、補陀落山観音(かんのん)寺(真言宗山階派)、小祠五(若宮八幡宮・弁財天社など)を記す。また村の北東にある鏡ガ宿(楠遠見壇・雨蓋)と称する地について次のように記す。

楠公遠見して鏡を埋めたる地なり、故に鏡ノ宿とも楠遠見の壇ともいふ、此処に土中に穴の形ありて石にて覆ひたり、土人此処にて祭をなすに此石を取除けれは雨降ると云ふより雨ふたともいへり、山伏の行所なり、此処より眺望するに(中略)風景尤よし、因りて近隣の村々より躑躅の花さく頃なとに酒肴を携へて登る者多し、(中略)鏡宿の少し西を八国ヶつふといふ、紀泉和河阿淡摂播の八箇国を望む故に名つくるなり

当地に伝えられる嵯峨谷の神踊は県指定無形民俗文化財。


信太神社
しのだじんじや

[現]高野口町九重

九重(くじゆう)の南部に鎮座。祭神は天照(あまてらす)大神ほか五神。旧村社。創建年代や変遷は不詳だが、泉州信田森(しのだのもり)(現大阪府和泉市)よりの勧請という(続風土記)。延宝五年(一六七七)の禿組指出帳控(大畑家文書)に「五社 篠田明神 是ハ九重村・上中村・田原村・下中村四ケ村ノ氏神ニテ御座候」とみえ、篠田(しのだ)明神は虚空蔵社・不動社・金大日社・胎大日社・阿弥陀社の五社からなり、その他境内小宮として四社があった。おそらくは本地仏の名でよばれたものと思われ、「続風土記」には「第一社天津彦火瓊々杵命、第二社天照大日貴、第三社饒速日命、第四社木花開耶姫命、第五社磐長姫命といへり、然れとも是近年いひ出たる説」と記す。土竜封じの神として信仰され、神宮寺よりその護符が出されていた。また前記四ヵ村の講による宮座があった(高野口町誌)。境内の樟樹は「続風土記」にも「楠の大樹あり囲三丈余輪陸離たり」と記され、県指定天然記念物。

竹尾村 たけおむら

[現]高野口町竹尾

紀ノ川中流域右岸の葛城(和泉)山脈の南斜面にある。東は嵯峨谷(さがたに)村、西は大畑(おおはた)村(現かつらぎ町)。室町時代初期と思われる高野政所下方田畠在家帳目録(又続宝簡集)に下方山村分の一として「竹尾」がみえ、高野山領官省符(かんしようふ)庄下方に属する村であった。慶長検地高目録によれば村高九九石余、小物成一・六九石。延宝五年(一六七七)の禿組指出帳控(大畑家文書)によると、田畑八町四反余、高一〇一石余、小物成は桑・茶・紙木で四・一六石、家数二〇(本役一三など)、人数九九、牛一〇。江戸時代末期には石高は増加しているものの家数一六、人数七六と減少し(続風土記)、中組に属した。正徳(一七一一―一六)頃、嵯峨谷村と境界争いを起こしている(→嵯峨谷村)。「続風土記」は村内の社寺として西明(さいみよう)寺(真言宗山階派)、小祠七(一言主神社・八幡宮など)を記す。

六地蔵ろくじぞう
六道(地獄(じごく)・餓鬼(がき)・畜生(ちくしょう)・修羅(しゅら)・人間・天上)のそれぞれにあって、衆生(しゅじょう)の苦悩を救済する地蔵菩薩(じぞうぼさつ)のこと。その名称・形像は典籍によって異なるが、一般には、地獄道を化す金剛願(こんごうがん)、餓鬼道を化す金剛宝、畜生道を化す金剛悲(ひ)、修羅道を化す金剛幢(とう)、人間道を化す放光(ほうこう)、天上を化す預天賀(よてんが)地蔵の総称とされる。日本では平安中期以来、六地蔵の信仰が盛んになり、岩手県・中尊寺、茨城県・六地蔵寺、新潟県・光照寺、京都府・大善寺など各地に六地蔵が安置された。六地蔵には、寺院・路傍・墓地などに祀(まつ)られた六体の地蔵や、あるいは地蔵堂に祀られたもの、六か所の寺院や堂に安置されるもの、また各所の地蔵尊のうちから六か所を選んだものなどがある。また石灯籠(いしどうろう)などに6種の地蔵を刻んだ場合などもある。

高野街道
こうやかいどう

紀州高野山に至る道。高野参詣路として用いられたためこの称がある。山城八幡(やわた)(現京都府八幡市)、和泉堺(現堺市)、摂津平野(ひらの)(現平野区)を各々起点とする三ルートがあり、第一を東高野(ひがしこうや)街道、第二を西高野街道、第三を中高野(なかこうや)街道とよぶ。西高野街道と中高野街道は錦部(にしごり)郡市(いち)村(現河内長野市)の「四(よ)つくの木(ぎ)」で合流、以後西高野街道は同郡長野(ながの)村(現同上)に向かい、同所で南下してきた東高野街道に合流する。以降高野街道は一本となり、天見(あまみ)川沿いに紀見(きみ)峠(河内長野市と和歌山県橋本市の境)に至り、峠を越えて高野山に向かう。元慶七年(八八三)九月一五日の観心寺勘録縁起資財帳(観心寺文書)の「治田野庄地肆町五段」の四至に「西限紀道川」とみえるが、この紀道川は天見川のことであろう。そうすると紀道とは高野街道のことである。中高野・西高野両街道が用い始められた時期は不明だが、平安後期―鎌倉初期には高野参詣の道として使用され始めていたと考えられる。東高野街道・高野街道は長岡京・平安京時代の官道、南海道の後身と考えられている。
東高野街道〕山城では河内街道(男山考古録)、河内では京街道ともよんだ(横内家文書)。暗(くらがり)峠越奈良街道との交差点以南を高野街道、以北を京街道とよんだ例もある(額田家文書)。起点は八幡の志水(しみず)町で、同町の南端の月夜田(つきよだ)に立つ岡(おか)の稲荷神社石碑に「右高野街道、峠十五丁、津田二里、野崎四里、柏原六里、従是高野山至ル」とある。洞(ほら)ヶ峠(現八幡市と枚方市の境)で男山(おとこやま)丘陵を越えた道は、ほぼ生駒山地の西麓を南下、郡津(こおづ)村(現交野市)で磐船(いわふね)街道、中野(なかの)村(現四條畷市)で清滝(きよたき)街道、豊浦(とようら)村(現東大阪市)で前出奈良街道、楽音寺(がくおんじ)村(現八尾市)で十三(じゆうさん)街道、万願寺(まんがんじ)村(現同上)で八尾(やお)(立石)街道、安堂(あんどう)村(現柏原市)で奈良街道と各々交差し、安堂で大和川・石川合流部を渡河、河内国衙跡の所在地国府(こう)村(現藤井寺市)に至った。国府には允恭天皇陵に治定される市野山(いちのやま)古墳があるが、古代にはその北側を東西に通る大津道と交差、のちには同古墳南側を通る長尾街道と交わった。国府から石川西岸をさらに南下した街道は、古代には誉田(こんだ)(現羽曳野市)の誉田御廟山(ごびようやま)古墳(応神陵に治定)の南を東西に通る丹比(たじひ)道と交差、近世には古市(ふるいち)村(現同上)で竹内(たけのうち)街道と交差した。その後街道は石川谷を南下、富田林(とんだばやし)村(現富田林市)で富田林街道と交わり、長野へと向かう。


東高野街道はまた軍事の道でもあった。とくに南北朝内乱期、南朝の主力楠木氏の本拠地が石川東条にあったため、この街道は両軍の対峙の場となり、しばしば戦闘が行われた。なかでも有名なのが、正平三年(一三四八)一月の四条縄手の合戦である。この合戦の様子は「太平記」巻二六(四条縄手合戦事付上山討死事)(楠正行最期事)に詳しいが、これによれば南朝軍三千を率いて東条(とうじよう)城を進発した正行は東高野街道を北上している(四條畷市の→四条縄手合戦場)。また観応三年(一三五二)三月から始まったいわゆる八幡合戦(正平戦役)を記す同書「八幡合戦事付官軍夜討事」には、北朝方が「洞峠ニ陣ヲ取ントス、是ハ河内東条ノ通路ヲ塞テ、敵ヲ兵粮ニ攻ン為也」とある。洞ヶ峠に至る東高野街道が南朝方の重要な補給路であったことがうかがわれる。応仁の乱とその後の河内をめぐる戦闘の過程で、当街道沿いには多くの城が築かれたが、このことも当街道の重要性を示している。前述のように当街道は河内の主要な東西路と交差しており、当街道を押えることが、河内を押えることにつながったと推定される。なお寛正四年(一四六三)三月一四日、嶽山(だけやま)城(現富田林市)を追われた畠山義就は当街道で紀見峠を越え、高野山へ遁走している(長禄寛正記)。明応二年(一四九三)二月―閏四月の河内合戦における幕府軍と畠山基家軍双方の陣所と行軍状況を記した明応二年河内御陣図(福智院家文書)にも、東高野街道の道筋が描かれている。下って「兼見卿記」天正一一年(一五八三)九月一日条に「河内路罷通、(中略)今夜飯盛之辺ニ一宿」、同二日条に「未明発足、至八幡五里也、巳刻至八幡屡(暫カ)休息」とあるのは、東高野街道を北上した記録である。

江戸時代にも河内を縦貫する唯一の道として、紀州高野への道として重要であった。元禄二年(一六八九)京から紀伊・大和へ向かった貝原益軒は、松原(まつばら)(現東大阪市)まで当街道で行っており、「南遊紀行」の松原の項に「八幡より松原迄四十八町道五里有。(中略)松原を出で山の根すぢの大道をばわざと通らず」と記している。「山の根すぢの大道」とは当街道のことである。帰路は国府以北で当街道を歩いているが、「是より又河内の山根道をゆく。先日くらがり道より南は見のこしたれば、今日見尽さんがためなり」と記し(「くらがり道より南」とは松原以南の意)、また「山の根道は、京より紀州へ行く大道なり。是より紀州にゆくには、河内の南のはし、木の実(み)嶺を越す」と述べている(木の実嶺は紀見峠のこと)。東高野街道・高野街道の経路は、大筋では現在の主要地方道枚方―交野―寝屋川線および同枚方―富田林―泉佐野線、そしてこれに接続する国道一七〇号に合致する。


〔西高野街道〕起点は堺の大小路(おおしようじ)(「道幅絵図」田中家所蔵)、高野山まで約一四里。大仙(だいせん)古墳(現堺市)の北で竹内街道と分れ、南東に向かい、関茶屋(せきちやや)新田(現同上)の北から河内・和泉の国境に沿って福(ふく)町(現同上)、大野(おおの)新田(現南河内郡狭山町)を経、岩室(いわむろ)村(現堺市・狭山町)から国境を離れ、茱萸木(くみのき)新田(現狭山町)を通って市村を経、長野村へ向かった。前述のように市村で中高野街道が合流する。保元三年(一一五八)九月、内大臣藤原忠親が高野参詣しているが、当街道を通ったようである(「山槐記」同月二七日・二八日条)。当街道は西国から船で堺に上陸した高野参詣客で賑ったが、明治三一年(一八九八)堺―長野間に高野鉄道(現南海高野線)が開通したため、しだいに衰退した。経路は現在の国道三一〇号にほぼ合致する。
〔中高野街道〕中高野街道には上高野(かみこうや)街道と下高野街道があったが、普通は平野より発する上高野街道をさす。三田浄久が「河内鑑名所記」を著すために作成した河内国絵図(寛文一二年、三田家蔵)に「高野海道、河内国堺()ヨリ摂津国平野一里山マテ十七町八間」とある。したがって中高野街道は平野の杭全(くまた)神社の西の泥堂(でいどう)口にあった一里塚を起点にしている。平野の流口(ながれぐち)門から南へ向かい、西喜連(にしきれ)村(現平野区)を経て、三宅(みやけ)村(現松原市)の中央を通り、阿保(あお)茶屋(現同上)で長尾街道と交差した。さらに上田(うえだ)村・新堂(しんどう)村(現同上)の西を通り、岡(おか)村・丹南(たんなん)村(現同上)の東を過ぎ(丹南村で竹内街道と交差)、黒山(くろやま)村(現南河内郡美原町)の東から太満(たいま)池・狭山(さやま)新宿(現南河内郡狭山町)の東を南下して四つくの木で西高野街道に合した。「御室御所高野山御参籠日記」によると、久安四年(一一四八)閏六月に仁和寺宮覚法法親王が五宮を伴って、高野山へ参詣するため松原庄を通っている(同月一〇日条)。これは上高野街道を利用したものと思われる。下高野街道は四天王寺(現天王寺区)より北田辺(きたたなべ)村・南田辺村(現東住吉区)を通り、矢田部(やたべ)村(現同上)から阿麻美許曾(あまみこそ)神社(現同上)を経て、布忍(ぬのせ)神社(現松原市)に至り、河合(かわい)村(現同上)、野遠(のとお)村(現堺市)、小寺(こでら)村(現美原町)を通って狭山新宿で上高野街道に合した。
〔高野街道〕東と西の高野街道が長野村で合流後は、喜多(きた)村・三日市(みつかいち)村・石仏(いしぼとけ)村・天見(あまみ)村(現河内長野市)と天見谷を南行、紀見峠に至った。近代に入っても当街道は高野参詣者に利用され賑ったが、明治三〇年代以降の近代的交通体系の整備に伴い、しだいに衰退した(河内長野市の→紀見峠)。

和泉山脈
いずみさんみやく
和歌山県と大阪府の境を東西に走り、ほぼ和泉国の南を限るので、この名がある。その東端は大阪府と奈良県の境にあたる金剛(こんごう)山(もとは葛城山といい、標高一一一二・二メートル)で、ここから府県境を北に向かい二上(にじよう)山に達する山脈が葛城山脈(金剛山地)である。もとはこの両者を含めて葛城山脈ともいい、両山脈にはそれぞれ葛城山がある。和泉山脈は東から岩湧(いわわき)山(八九七・七メートル)・燈明(とうみよう)岳(八五七メートル)・三国(みくに)山(八八五・七メートル)・葛城山(八五八メートル)などが県境ないしその南北に並ぶ。西に向かって燈明ヶ岳(五五三メートル)・札立(ふだたて)山(三四九・三メートル)・高森(たかもり)山(二八四・五メートル)としだいに低くなり紀淡海峡となるが、海峡の友(とも)ヶ島(沖ノ島・地ノ島)を経て、淡路島の諭鶴羽(ゆづるは)山につながる。東西約五〇キロ、南北平均二五キロの山脈で分水線は南にかたより、南斜面は中央構造線の断層崖となってこれに紀ノ川が沿い、北斜面は比較的ゆるやかな山地が起伏して大阪平野へと移行する。

和泉・葛城両山脈には古くから山岳宗教の行場が開かれており、その中心の金剛山はかつては葛城山とよばれていた。また両山脈を行場とする葛城修験道が成立すると、全体を単に「葛城山」とよぶようにもなった。したがって葛城修験道をいう場合、両山脈内の行場が含まれる。葛城修験道は大峯修験道同様顕著な山々と寺の独立した信仰を一本のルートで結んだ修行路を軸として成立った。おもな山に西から大福(だいふく)山・燈明ヶ岳・葛城山・牛滝(うしたき)山・経塚(きようづか)山・三国山・槙尾(まきのお)山・岩湧山・金剛山・二上山などがあり、これらの山と行場を管理する寺が山麓にあったが、現在は少なくなっている。山中には二十八宿が設定されたが、これは法華経の二十八品を山中各地に一品ずつ埋めた経塚をつくり、その地を行場としたものである。葛城二十八宿の所在については「葛城修行灌頂式」(一部は永正元年に猷助が記し、「葛城峯中記」「同宿次第」は明和四年の書写)や「葛城嶺中記」「葛城峯中記」(向井家文書)、「葛嶺雑記」(七宝瀧寺蔵)などで相違があり、的確に現在地を比定できないものが少なくない。したがっていまは考証を略して、江戸時代末期に再興を図った際のものに推察を加え、大体を述べることとする。

一の宿にあたる法華経の「序品第一窟」は友ヶ島の沖(おき)ノ島にあり、山岳信仰の葛城修験道が海にもかかわる点で特色がある。この管理は和歌山市加太(かだ)の伽陀(かだ)寺であった。二の宿からは山地に入り、和歌山市西庄(にしのしよう)の神福(じんぷく)寺(二の宿、方便品第二)を経て大福山円明(えんみよう)寺(三の宿、譬喩品第三)と滝畑(たきはた)の成願(じようがん)寺金剛童子(四の宿、信解品第四)、那賀(なが)郡打田(うちた)町今畑(いまはた)の多聞(たもん)寺(五の宿、薬草喩品)、同町神通(じんづう)の金剛童子(六の宿、授記品第六)、同粉河町の中津川(なかつがわ)金剛童子(七の宿、化城喩品第七)から燈明ヶ岳(八の宿、五百弟子受記品第八)に出る。燈明ヶ岳は峰中の有力寺院である大阪府和泉佐野市の犬鳴山七宝瀧(しつぽうりゆう)寺の管理で経塚があり、この山の火は紀淡海峡の船から見えたという。燈明ヶ岳の紀州側に下ったところが中津川の山伏村で、高祖堂(役行者堂)を中心として、葛城入峯の先達を務め、先達は和歌山藩から苗字帯刀を許されていた。燈明ヶ岳の東に連なる大阪府岸和田市と那賀郡那賀町境の山はいま葛城山というが、これは本来の葛城山(金剛山)の一言主神を移し祀ったことによる山名で、今は不明であるが「九の宿、人記品第九」の竜(りゆう)ノ宿はこれにあたるらしい。「九の宿、人記品」は「葛城修行灌頂式」の「宿次第」では「七越」となっており、これが事実ならば遥かに東の七越(ななこし)峠となり、現伊都(いと)郡かつらぎ町大久保(おおくぼ)から大阪府和泉市父鬼(ちちおに)町へ越える峠である。しかし「十の宿、法師品」が大阪府岸和田市の牛滝山大威徳(だいいとく)寺であることはうごかないので、葛城山を「九の宿、人記品」に当てるのが妥当であろう。

七越峠は三国山の西にあり「十一の宿、宝塔品第十一」にあたる。「葛城嶺中記」には七輿(ななこし)寺とあり、「葛城峯中記」には七越経護童子とある。しかし「葛城修行灌頂式」では「柳宿」とあって相違する。「十二の宿、提婆品第十二」はかつらぎ町東谷(ひがしたに)の堀越(ほりこし)の燈明岳の燈明峯(とうみようぶ)寺とするのが多いが、同町東谷の神野(こうの)の天女山正楽(しようらく)寺とするものもある。「十三の宿、勧持品第十三」は蔵王(ざおう)峠の紀州側にある同町大畑(おおはた)の一乗山勝楽(しようらく)寺であることは諸書一致している。蔵王峠の河内側が「十四の宿、安楽行品第十四」の福王山光滝(こうたき)寺で、大阪府河内長野(かわちながの)市滝畑に属する。滝畑を和泉側へ越えると観音霊場西国三十三所の第四番、大阪府和泉市の槙尾山施福(せぶく)寺で、顕著な経塚があり、もとは行所であったらしく「葛城峯中記」にあげている。「十五の宿、従地涌出品第十五」は河内長野市の岩湧山岩湧寺で、岩屋と湧水が多いことにもよるが、法華経の従地湧出品から名付けられたものであろう。この辺りは「十六の宿、如来寿量品第十六」の流谷(ながれたに)金剛童子も、「十七の宿、分別功徳品第十七」の天見(あまみ)不動金剛童子も、紀見(きみ)峠下にあたる「十八の宿、随喜功徳品第十八」の橋本市柱本小峯(はしらもとこみね)寺金剛童子も、人里に近い平地で、金剛山の山麓として行所になったのであろう。「十九の宿、法師功徳品第十九」は奈良県五條市大沢町の大沢(だいたく)寺金剛童子とも神福山神福(じんぷく)寺金剛童子(同久留野町地福寺)ともいい、「廿の宿、常不軽菩薩品第廿」は同じく五條市久留野(くるの)峠の石寺といわれる。そして「二十一の宿、如来神力品第二十一」が葛城修験道の中心、金剛山転法輪(てんぼうりん)寺である。ここからは奈良県と大阪府の境(葛城山脈)を北上して「二十八の宿、普賢菩薩勧発品第二十八」の大和川亀ノ瀬に至る。

これら二十八品の二十八行所のほかにも、多数の経塚が両山脈中に存在し、古代から如法経修行の聖地として、多くの修行者が入山、修行をしたものと思われる。これは古代の文化中心である大和・河内・和泉に近いことにもよるが、何よりも金剛山が役行者の開創と伝え、山地内の行場がすべて役行者の遺跡として神聖視されたことによるのであろう。しかも天台系の修験道が寺門派京都聖護院を中心に組織されると、この法華経の聖地が重視され、入峯修行するものが多くなった。しかし近世には、高野山の行人の入峯もあったが二十八宿全部に入峯する者は少なくなり、行場もわからなくなったところができたのである。

光滝寺
こうたきじ

[現]河内長野市滝畑

岩湧(いわわき)山西山麓の千石(せんごく)谷を越えたところに位置する。融通念仏宗、山号福王山、本尊不動明王。天保一四年(一八四三)の光滝寺覚書(寺蔵)によると、福王山光滝寺不動院と号し、葛城修験の行場で、欽明天皇の時、行満が開基したと伝え、不動院寺家として延暦年間(七八二―八〇六)弘法大師が開基したと伝える西之坊・中之坊・堂所寺を記す。また同覚書の元禄五年(一六九二)・同一四年・延享二年(一七四五)の項に若王(にやくおう)寺(現京都市左京区の若王子神社)末寺と記される。若王寺は修験道本山派の本山聖護院の院家であり、当寺が本山派の修験道寺院であったことがわかる。葛城修験二十八宿の第一四番(葛嶺雑記)。しかし明治五年(一八七二)の「神戸藩領寺院明細書」によると天台宗になっている。融通念仏宗への改宗はさらにのちである。平安末期の不動明王像・阿弥陀如来立像を蔵し、古い創建をうかがわせる。西国三十三所霊場の一つ槙尾山施福(せふく)寺(現和泉市)と近接し、同寺の奥院ともいわれ、毎月二八日には護摩会が催され、修験道寺院の面影を残す。


滝畑村たきのはたむら
[現]河内長野市滝畑(たきはた)

日野(ひの)村の南にある深い山間の村で、南は滝畑道で和泉山脈蔵王(ざおう)峠を経て紀伊国に通じた。商品流通などの町場との交流は東槙尾(ひがしまきお)川沿いに北西の南面利(なめり)村(現和泉市)へ出て、宇多大津(うだおおつ)村(現泉大津市)に向かう天野(あまの)街道を多く利用した。岩湧(いわわき)山北麓から流れ出た横谷(よこたに)川が北西流し、滝尻(たきのしり)で北流する石川に合流する。同河川のつくる谷に横谷村、石川のつくる滝畑谷に上流から東之(ひがしの)村・西之(にしの)村・堂(どうの)村・中(なか)村・清水(しみず)村・滝尻村の集落がある。「河内志」に「滝畑属邑八」とあり、寛政一二年(一八〇〇)の名寄帳(大谷家文書)には右の七村のほか垣内(かいと)村が載る。元禄八年(一六九五)の申合定(平井谷家文書)には「七ケ村立合山」とあり、滝畑七ヵ村とされるのが普通であった。永徳二年(一三八二)の僧都覚有一跡配分目録(熊野那智大社文書)に「河内国タキノハタノ旦那槙尾寺ノ先達引」とみえる。西部に猿子(さるこ)城跡がある。

文禄三年(一五九四)一二月には当村二三一石余が北条氏規領(北条家文書)。正保郷帳の写とみられる河内国一国村高控帳では高二三一石余。同帳には「同人知行所」とあり、同人とは石川主殿(近江膳所藩)をさすが、北条氏(狭山藩)の誤りと考えられる。ほかに膳所藩領山年貢高六三石が記される。以降、高・領主とも変化なし。寛永一〇年(一六三三)には高二三一石のうち七〇石余が永荒地(平井谷家文書)、延宝九年(一六八一)の家数八六(公事家六七・無足家一九)・人数五一九、牛六七(同文書)。享和二年(一八〇二)の狭山藩領村方明細帳(中之島図書館蔵)では家数七〇(公事家五四・部家一四ほか)ですべて融通念仏宗檀家、人数三五〇、出家二・大工三など、牛四五・馬二。嘉永六年(一八五三)には家数七二(大谷家文書)。前掲享和二年村方明細帳によると田方は稲・こんにゃく玉・煙草、畑方は大豆・粟・唐黍。このほか菜種も少し栽培され、天保一一年(一八四〇)には手作り菜種四石六斗を売った(同文書)。山の斜面や荒地には茶が植えられ(平井谷家文書)、寛文一二年(一六七二)の茶園之覚(同文書)には数ヵ所の茶園があげられる。茶は品質により上茶・不撰茶・仕込茶・中飛茶・ソソリ茶に分けられる(前掲享和二年村方明細帳)。年不詳の大谷家文書によると、狭山藩が茶の利益を差出すよう命じたのに村民がこぞって反対し、農繁期にもかかわらず一村残らず家出した。金剛(こんごう)寺が仲裁に入り、毎年村方より藩に上茶一〇斤を献上することで解決、金剛寺へは礼として毎年歳暮に並炭三荷を贈ることになった。明治三年(一八七〇)の物産書上帳(大谷家文書)では茶四千四〇〇斤。なお、年未詳の滝尻村百姓への申渡書(平井谷家文書)には、滝畑の茶は名産であったが、近年茶園の手入れを怠り茶株が絶えてしまったので、植付の指導に藩より出向く旨、記されている。

農業の合間に炭焼も行われた(前掲享和二年村方明細帳)。「河内鑑名所記」に「滝の畑村(中略)此谷より、くハうのたき炭うりに出る也」とあり、村内光滝(こうのたき)(こん滝ともいう)の名をとり、光滝炭といった。鹿苑寺(金閣寺)の僧鳳林承章の日記「隔記」には、狭山藩主などから光滝白炭を贈られた記事が頻出する。元禄頃これらの白炭は献上炭として他所売りを禁じられていた(平井谷家文書)。光滝白炭は茶席で使用され、鳳林承章は摂政一条昭良へも進上している。炭は品質により、より炭・並炭・ス炭の三種類に分けられた(前掲享和二年村方明細帳)。文化元年(一八〇四)には藩の御用炭一四八荷半、武士の家中、龍雲(りゆううん)寺(現富田林市)、報恩(ほうおん)寺・御使者宿越前屋(現南河内郡狭山町)などへ三九二荷半を届けていたが、翌年に炭代の値上げを要求している(平井谷家文書)。明治三年頃の平均産出量は七〇〇駄(一駄は三〇貫、大谷家文書)。寛政九年西之村が竈山を他所へ売ったため、他の六ヵ村が狭山役所へ訴え出た。文化八年紀州の村から出されていた字きやヶ谷の草山年貢を堂村が独占しようとしたので山論が起こった。杉・檜・榧など木材の産もあった(同文書)。滝畑の凍豆腐は、文化四年に紀伊国伏原(ふしわら)村(現和歌山県伊都郡高野口町)の筒井葉右衛門が当地に来て製造したのに始まる(沢田家文書)。安政五年(一八五八)専売制が実施され、このときの釜数は三六、うち滝畑一一・紀州出稼二四・その他一(同文書)。山間のため猪などの被害があり、おどし鉄砲五四挺の所持を許可されていた。文久三年(一八六三)狭山藩の農兵に五五名が徴集され、うち五〇名が鉄砲組に編入された(同文書)。

前掲享和二年の村方明細帳によると、産土神は大梵天社(現天神社)で天照大神・伊弉諾命・伊弉冊命を祀る。滝畑神社ともいう。座には小川座・中座・一族座・南座があったという(大阪府全志)。また清水村に八王子宮、東之村に山之神があった。天台宗光滝(こうたき)寺のほか、堂村の融通念仏宗地蔵堂、清水村の阿弥陀堂・観音堂・梅ノ坊(当時すでに建物なし)、中村の阿弥陀堂、東之村の観音堂・榧ノ坊・みこの谷堂(昔は阿弥陀堂)、西之村の阿弥陀堂・多聞院(当時建物なし)、滝尻村の弥勒堂、横谷村の阿弥陀堂があげられるが、ほとんどが無住の寺であった。このほか光滝寺の山林内に炭焼不動があり、後堂に炭焼の道具を納めたという。葛城修験の行場が当地にもあったと思われ、「葛嶺雑記」二十八宿のうち一三宿「むかひのたわ」は当地と考えられる。昭和五六年(一九八一)に多目的の滝畑ダムが完成して湛水面積は五二ヘクタール余となり、家数の四割にあたる七九戸と耕地の六割にあたる二〇ヘクタール余が水没。江戸時代の民家遺構が多かったが、高所に移転して近代建築となったため、昔からの景観・民俗の変化は著しい。現在当地の民俗資料館に移築される左近家住宅は、一七世紀中頃の原形をよく残した滝畑型の建築で、国の重要文化財。滝尻区有の妙法蓮華経の木版摺経(八巻一七四枚)は府の文化財。墨書の奥書によると、正和二年(一三一三)二月五日に弥勒講講衆の勧進によって完成したもの。

滝畑ダムは、大阪府河内長野市にある曲線重力式のコンクリートダムである。
石川の上流をせき止めて造った多目的ダムで昭和56年(1981年)に完成した。
堤高62m、堤頂の長さ120.5m、湛水面積52.3ha、総貯水容量934万㎥である。
建設の目的は、防災面の流量調節、灌漑面での羽曳野市、藤井寺市の耕作地への農業用水供給、上水道面では河内長野市、富田林市への給水などである。
ダム上流の光滝寺キャンプ場周辺では、バーベキュー、渓流釣り等が楽しめる。
南海高野線、近鉄長野線河内長野駅から南海バスで「滝畑ダムサイト」下車すぐ。ダムサイトには無料駐車場(900-16:00)がある。

天野山金剛寺は、大阪府河内長野市にある真言宗御室派大本山の寺院である。
寺伝では、天平年間(729-749)に、聖武天皇の勅願により、行基菩薩が開創し、のち弘法大師が密教修行をした地と伝えられている。
その後寺は衰微したが、後白河法皇の勅願により、1170年代に高野山の阿観上人が復興した。
後白河法皇の妹八条女院は、密教の信仰が厚く、阿観上人に帰依し、真如親王筆の弘法大師像を寺域内の御影堂に安置し、
一切の行事を高野山と同様にして、女性が弘法大師と御縁を結ぶ霊場とした。
また八条女院の侍女姉妹も出家して、浄覚、覚阿として寺務を行い、女人高野として栄えた。
南北朝時代初期から南朝方の勅願所となり、1354年から1359年までは、後村上天皇の行在所となり、天野行宮と呼ばれた。
境内には、光厳、光明、崇光の三上皇が使用された「北朝三上皇御座所」がある。
承安年間(1171-1175)造営の金堂内には、本尊の木造大日如来像、脇侍の木造降三世明王坐像、木造不動明王坐像が祀られている。
広い境内は、国の史跡に指定され、長い歴史を物語る諸堂が建ち並び、周囲の自然豊かなみどりは大阪みどりの百選にも選ばれている。
南海高野線河内長野駅からバス「金剛寺前」下車すぐ。参拝者用の有料駐車場がある。

天野山金剛寺
あまのさんこんごうじ
[現]河内長野市天野町
市街地の南西方約五キロの山中、天野川の峡谷に位置する。しかし門前の天野街道で和泉方面に通じるなど、交通の要地でもある。真言宗御室派。本尊大日如来。天野寺とも、また女人高野ともよばれる。

〔草創〕寺伝によれば奈良時代、行基の開創というが、当寺の歴史が文献の上で確かめられるのは平安時代後期からである。すなわち和泉国大鳥郡出身の阿観が、高野山に登って修行ののち、夢告により、承安年中(一一七一―七五)寺家別院として高野大師(空海)御影・御影堂御影第三伝を安置し、丹生・高野両所明神を勧請した(建保三年七月日付「嘉陽門院庁下文」金剛寺文書、以下特記しない限り同文書)。これが当寺の再興(あるいは草創)の事情である。

右の「承安年中」は承安二年とされ、次いで阿観は治承二年(一一七八)金堂を建立し、養和元年(一一八一)には伝法会を始行した(明応七年「僧阿観行歴」)。一方治承二年に住僧らは当寺を八条院の祈願所として寄進した(建久六年七月九日付八条院庁下文案)。阿観の門弟には大弐局(法名浄覚)・六条局(法名覚阿)の二人の比丘尼がいたが、二人は八条院・宜秋門院に奉仕しており(嘉禎三年五月日付前摂政家政所下文案)、浄覚の力によって当寺を八条院祈願所に寄進したともいう(天福二年三月九日付官宣旨案)。ただし右の官宣旨案は寄進の年次を誤っているが、八条院が阿観に帰依したことから、二人の比丘尼が門弟となったか、あるいは二人の門弟の縁によって八条院の帰依を得るに至ったものであろう。ちなみに二人の比丘尼は阿観の跡を受けて相次いで寺主となったが、このことから「女人高野」の称が起こったという。八条院の祈願所に寄進した目的は、いうまでもなくその保護を受けて興隆を期するにあったと思われるが、効果は早速に現れ、治承四年には錦部(にしごり)郡の豪族源貞弘が、「東限小山田領、南限日野境、西限和泉境、北限小山田境」の私領山野田畑を寺領として寄進した(同年八月日付「源貞弘山野田畠寄進状案」金剛寺文書)。建久元年(一一九〇)には、八条院庁に働きかけ、右の四至内寺領の所当以下国役臨時雑事免除の国司庁宣を得(同年九月日付河内国司庁宣案)、次いで八条院は翌年、院主三綱供僧六口・権学頭一口・学衆三〇口・夏衆三〇口・預二人・承仕三人の組織を定め、また院主職は阿観門弟の師資相承と定めた(同二年六月九日付八条院庁牒案)。当寺四至内田畑山野の所当官物以下臨時雑事の免除と殺生禁断については、さらに後白河院庁下文と官宣旨が下された。こうして建久二年には組織的にも財政的にも当寺の基礎が確立された。同年六月一日付で阿観が寺規に関する五ヵ条の置文を作成しているのも、当寺の基礎が確立したことの指標となるものであろう。なお置文の一項に「入峰修行を禁制すべき事」とある。入峰修行は大峯や葛城修験をさすが、当寺も阿観の中興以前から修験の道場の一つであったものかもしれない。

〔鎌倉時代〕ところで以上の時代はあたかも源平内乱期にあたり、寺領をめぐって問題が起きた。寺領を寄進した源貞弘は寿永年中(一一八二―八五)に死去したが、石川義兼が没官所と称して押領し、山内殺生・寺家狼藉を繰返した。源頼朝はすでに元暦二年(一一八五)に天野寺住僧所に宛てて寺内山狩などを禁じていたが(同年三月一三日付源頼朝下文案)、義兼の狼藉が起きたわけである。義兼はさらに「金剛寺御庄天野谷地頭并下司職」を称していたが、頼朝の意向を受けて、結局建久六年六月に避文を出した。一方源貞弘の所領長野(ながの)庄は天野遠景に与えられたが、天野谷は長野庄内だとして遠景の下人らが干渉することもあったようで、同七年六月二五日付で、今後は干渉しない旨、遠景が請文を出している。義兼の避文、遠景の請文にはともに頼朝が請文や消息を添えている。同九年二月、住僧らは「重ねて御勢を募らんがため」に、壇供一〇〇枚を負担することを条件に当寺を仁和寺北院に寄進し、その末寺となった(同年三月日付仁和寺守覚法親王庁下文案)。寺僧の解状には「国使乱入、その煩を致す」というが、以上の石川義兼らの違乱も大きな契機であろう。こうして建保二年(一二一四)頃には、五間四面の金堂に金剛界大日丈六像・両界曼荼羅二鋪各五幅・真言八祖等影一二鋪を安置し、また宝塔一基には金剛界大日等身像を安置し(建保三年七月日付嘉陽門院庁下文)、御影堂も建立され、食堂や別院三宝院など院家も整備されつつあった。

阿観は承元元年(一二〇七)に七二歳で没したが、寺主職をめぐって尼覚阿と覚心が激しく相論した(浄覚には阿観の生前に譲与)。そのため「寺僧安堵せず、修学共に廃絶に及ぶ」(貞応三年一〇月一一日付仁和寺入道道助親王令旨)という状況も出現した。尼覚阿は源貞弘の孫源三貞実を語らい、天野谷下司職に補任し、御影堂安置の文書を盗み出したともいわれる(年月日未詳阿観上人門跡寺務相論大概案など)。覚心は嘉禄元年(一二二五)頃死去し、尼覚阿は翌年帰住について文書を寺庫に納むべきことなど三ヵ条の請文を出しているが(同二年四月日付「比丘尼覚阿請文写」仁和寺文書)、以上述べてきた建久九年までの文書は、結局貞応三年(一二二四)覚心と仁和寺御室庁使覚忍作成の紛失状に付された案文二巻として、現在に伝えられている。

建保二年二月、大中臣助綱が私領の大鳥郡和田(みきた)上条・中条(現堺市)を当寺に寄進し、貞応元年立券庄号が行われた。しかし助綱の子助盛が助綱の死後同庄を改めて春日社に寄進したことから相論となったが、弘安四年(一二八一)和田庄は金剛寺の領有とし、春日社には五節日神供などを備進するよう長者宣が下されたが、相論はその後も継続した(堺市の→和田庄)。一方、前述した貞実の孫貞円は、寺領に住しながら(高向庄住人ともいう)一寺の所勘に従わず、正応三年(一二九〇)には寺僧を刃傷し公人を打擲したといわれ、正安四年(一三〇二)三月、「寺門之怨敵」として追放された(同年三月五日付仁和寺入道性仁親王庁下文案)。その翌年には、寺領の代官清弘らが近国悪党を引入れ、寺僧らを罪科にしたといわれる(乾元二年三月二一日付金剛寺寺僧請文案)。貞円もまた悪党の一員であろう。正安や乾元(一三〇二―〇三)といえば、折から悪党の高揚期にあたるが、寺内も周辺寺領も悪党の侵掠を免れなかった。とはいえ、元亨四年(一三二四)には寺中の悪行に対する条目五ヵ条を定めるなど(同年一〇月四日付金剛寺条目)、寺領や寺中の違乱狼藉を克服しながら寺観の整備が進められていったことは、正和三年(一三一四)に大門が造営されていることで知られるし(釈論第三抄出奥書)、教学の研究もきわめて盛んであったことは、現在も多数所蔵される経疏類の奥書がよく示している。

〔南北朝時代〕当寺所蔵の経疏類の奥書は「河内長野市史」に約六〇〇点が紹介されているが、そのうち約四〇〇点に禅恵の奥書がみられる。正平三年(一三四八)に正学頭となった禅恵は、当寺で最も著名な学僧であり、同時に南北朝の政治史とも深くかかわった人物である。禅恵は弘安七年和泉国南郡山直(やまだい)郷多治米(たじめ)村(現岸和田市)の生れ。正安三年一八歳で得度し、当寺にあって修行に励んだが、久米田(くめだ)寺(現同市)の明智上人盛誉を師とし、さらに紀州根来(ねごろ)寺や東大寺東南院などにしばしば出向いて真言教学の勉学に励んだ。三三歳のとき書写した「大日経疏指心新抄」第四の奥書には、河内と紀州との「往復誠ニ不易」行程を数度往復して書写したことを記した後に「根来寺往廻廿三年、東大寺往反廿年也」とみえる。とすると得度以前の一〇歳の頃から根来寺や東大寺に往復していたことになる。ところで東大寺東南院には後醍醐天皇の笠置(かさぎ)遷幸を助けた聖尋がいたし、後醍醐天皇の帰依きわめて厚かった小野僧正文観弘真はまた、禅恵自ら「予門弟随一たり」(題未詳経疏奥書)と記す師匠であった。こうした禅恵の立場と当寺の地理的位置などから、後醍醐天皇および南朝と関係の深い寺として、南北朝時代史の中に一躍クローズアップされることとなった。しかも当寺所蔵の文書とともに、禅恵奥書には政治情勢や当寺の状況を記載したものも多く、南北朝時代の当寺の歴史は比較的詳しく知ることができる。

元弘二年(一三三二)と推定される一二月九日付の二通の楠木正成自筆巻数返事から当寺の南北朝時代史は始まる。翌三年と推定される二月二三日付金剛寺衆徒宛正成自筆書状には、「関東凶徒等乱入当寺、構城、可致合戦之由、其聞候、若事実候者、以寺家一同之儀、不被入立候者、尤可宜候哉、御祈祷事、又先度被下令旨候之上者、相構面々可被懸御意候、恐々謹言」と記されている。折から正成は千早(ちはや)城(現南河内郡千早赤阪村)に籠城中であった。同年五月二一日には護良親王が播磨国西河井庄を寄付して、祈願所として仏法興隆を命じている。なおこの令旨には「依将軍家仰」と記していることが注目される。こうして後醍醐天皇方との関係を深めた当寺は、建武元年(一三三四)一二月四日の金剛寺衆徒巻数にみられるように「大施主」後醍醐天皇のために祈祷に励んだことはいうまでもないが、同二年一二月には後醍醐天皇綸旨により東寺長者弘真をして、仏舎利五粒を施入された(同年一二月二五日付東寺法務僧正弘真仏舎利施入状)。翌延元元年(一三三六)一〇月一日には勅願寺に列せられた(同年月日付権中納言奉書)。しかしその年末、天皇は吉野に移り、南北両朝の対立が始まる。同二年四月二日、後醍醐天皇は祈祷料所として新たに和泉国大鳥(おおとり)庄(現堺市)領家職を寄せ(同年月日付後醍醐天皇綸旨)、翌年には和田庄領家職を安堵した(同三年七月二三日付後醍醐天皇綸旨)。しかし「釈論第六鈔出」(三)花園院記奥書によると、同二年には武士らが当寺に乱入し、坊舎を焼いたという。

延元四年の後醍醐天皇の死に禅恵がどのような感懐をいだいたか経疏の奥書には紹介されていないが、南朝勢力の凋落とともに当寺もその影響を受けることとなった。南朝は金剛寺にも段米を課し、さらに和田庄三分の一を朝用分として提出することを命じ、楠木正儀をもって催促した(正平二年と思われる一二月八日付後村上天皇綸旨など)。これに対し金剛寺では「当庄旧領候而、被懸公用之条、難堪」と返答するほかなかった(同三年と思われる一二月二日付楠木正儀請文案)。翌四年、和田庄三分の一は勅免とされたが(同年四月一七日付後村上天皇綸旨)、この問題は同九年まで続いた。なお後村上天皇によって、正平九年に備中草壁庄西方地頭職(同年一二月二一日付後村上天皇綸旨案)、同一四年和泉横山(よこやま)庄(現和泉市)が寄進されている(同年一〇月二八日付後村上天皇綸旨)。観応の擾乱となって突出した幕府の分裂による内乱の混迷は、当寺にさらに大きな影響を与えることとなった。観応の擾乱の経過も禅恵は「日経疏愚草」奥書などに詳しく書きつけているが、その余波として、「釈論第十愚草」(末)奥書によると正平九年三月二二日、光厳・光明・崇光の北朝三上皇を当寺に迎え、さらに「薄草子口決天等末」(第二〇)奥書によると同年一〇月二八日から後村上天皇をも迎えたのである(「釈論開解鈔」奥書は二七日とする)。

主上食堂・摩尼御兼(草カ)堂御座、仙洞・持明院法王・新院観蔵院御坐之間、寺中坊々不残一宇、諸家上臈寺宿坊、殿下二殿中院父当殿下御息塔坊御座、高瀬・下里在家□□日野・高向・上原・横山マテ、官軍下部宿住と、「日経疏第三愚草」(本)奥書にみえ、後村上天皇は摩尼(まに)院と食堂に、北朝三上皇は観蔵(かんぞう)院にあり(これを天野山行宮とよぶ)、寺中坊々から周辺集落の民家にまで南朝の公卿以下軍勢までが止住した。光明上皇は正平一〇年に、光厳・崇光両上皇は同一二年に帰京したが、後村上天皇の滞在は、同一四年一二月二三日まであしかけ六年にわたった。この間「坊舎山木皆切払、損亡申すばかりなく」、たいへんな経済的負担を余儀なくされ(以上、前掲「薄草子口決」奥書)、「坊舎皆破損、寺僧逃失せ、学文能芸稽古無きなり」という状態で、教学の修学どころではなかった(「釈摩訶衍論第二」奥書)。もっとも「世間動乱無申計、雖然隙々漸々、書写此文了」と延元元年の「釈論第十愚草」(末)奥書に記している禅恵は、劇無極の間にも経疏を怠ってはいないが、右の奥書には続けて「南無阿弥陀仏、今度合戦死去人為始、三世一切衆生往生極楽矣」と記しているように、経疏の書写すなわち仏法興隆こそ、動乱に際会しての宗教家としての実践にほかならなかったであろう。正平九年九月から一〇月、禅恵はすでに大和賀名生(あのう)で出家していた光厳法皇を前に「秘鍵開蔵鈔」を講じ(同奥書)、さらに印信を授けた。法皇は貞治三年(正平一九年)丹波山国(やまぐに)庄で死去したが、九月八日に当寺に遺骨を奉納、同時に印信が返還されたという。その直後、一〇月一六日に、禅恵は八一歳で没した(「竪横鈔巻第五疏」二本奥書)。

正平一四年四月に後村上天皇生母新待賢門院(阿野廉子)が没したが、天皇は父母のため大般涅槃経を供養、宸筆の奥書を残している。同年一二月の後村上天皇の観心(かんしん)寺行幸は、幕府軍の攻撃の危機が迫ったためであったが、翌一五年三月一七日、畠山国清軍などが当寺に乱入、大門・往生講堂・禅恵の持仏堂ならびに坊無量寿院はじめ坊舎三五宇を焼払い、寺僧らは「山林に交わり逃散」する始末で、「恐怖無極、本願已来当山滅亡、曾て以てこれ無し」という状況となった(「大盧遮那成仏経疏」奥書)。ただし翌年には、禅恵の持仏堂は復興している(前掲「薄草子口決」奥書)。禅恵の死とともに史料は乏しくなるが、その後の大事件は正平二四年楠木正儀が幕府に通じ、文中二年(一三七三)細川氏春らと当寺を攻撃したことである。時に当寺は長慶天皇の行宮となっていたが、正儀らの攻撃によって天皇は吉野に移った。「文中二応安六年十一月十七日、於金剛寺無量寿院、書写了、依動乱公家武家相交間、両方之年号勒之畢」とは「釈論開解鈔巻第十七論本第九」に記された当寺の複雑な立場を端的に示した奥書である。弘和元年(一三八一)一一月八日の後亀山天皇綸旨を最後に、文書や経疏奥書の上からは南朝の姿は見いだせなくなる。

〔室町・戦国時代〕この時代で注意されることの第一は、和田庄・大鳥庄など和泉国や、摂津・備中国の庄園が史料の上では姿を消してしまうことである。南朝の消滅とともに、これらの庄園もまた退転せざるをえなかったのであろう。守護の安堵状は「四至内田畠山野以下之所当官物并国役臨時雑事」に限られている(応永一六年五月一三日付守護畠山満家安堵状など)。第二には、山内で醸造する酒が有名となったことである。天野酒の初見は「看聞御記」永享四年(一四三二)四月二九日条の「自入江殿一荷河内天野酒云々」の記事とされるが、この頃から名声も得て、京都の柳酒、奈良酒とならんで贈答用に盛んに用いられ、河内守護畠山氏は毎年将軍家に献上した。天野酒の名は関東にも聞こえ、「結城家法度」にも、客人の時以外に飲んではならぬぜいたくな酒として「あまの」があげられている。織田信長・豊臣秀吉はじめ戦国武将にも、祝儀として金剛寺は盛んに酒を贈っているが、とくに秀吉は天野酒を愛好し、次の朱印状を与えている(年未詳正月一五日付)。態被仰遣候、仍世上之酒ニあくを入之由被聞召及付而、当山之酒返を被聞召候条、成其意、誰々買ニ遣候共、進上之御酒かと相尋、入念詰候て、符を付、可相渡候、何も酒可入情事専一候也

天野酒の名声は、庄園の退転をつぐなって余りあるものであったかと思われる。もっとも酒の醸造・販売がどのように行われ、一山の経済とどのようにかかわっていたかは明徴を欠くが、室町・戦国時代に子院が田畑などを買得している例が多いのも、富裕さのあらわれといえよう。正平の回禄の後、庄園の退転にもかかわらず堂舎や法会の復興も進んだことと思われる。

第三には大峯・葛城の修験道と引続き関係を保っていたことである。応永三年(一三九六)守護畠山基国は当寺の西座衆について「建久置文并弘和請文の旨に任せて、其沙汰を致すべし」と安堵している(同年一一月二六日付畠山基国安堵状)。建久置文は前述の阿観置文をさすのかもしれないが、弘和請文は現存しない。一方西座衆とは明応四年(一四九五)六月二日の上乗院主御教書に「自往古為修験之体、令専大嶺・葛城両峯修行」とあるもので、近年退転しているが、再興すべしと命じられている。鎌倉時代初期、阿観置文にみえる禁令にもかかわらず、修験道は根強く継続していたものであろう。

〔近世〕天正一一年(一五八三)九月一日付で、豊臣秀吉は金剛寺三綱に宛てて、寺領三〇七石を安堵した。以後江戸時代を通じてこれが朱印高となった。文禄三年(一五九四)増田長盛によって行われた天野山の検地帳写が現存するが、山内の院家では菩提院・地蔵院・不動院・紅梅院・大泉院・真福院・満福院・安養院・中性院・祥徳院・常住院・中院・摩尼院・禅光院・阿弥陀院・松持院・満蔵院・満善院・行基院・無量寿院・新福院・南蔵院・新蔵院・福蔵院・虚空蔵院・修善院・無常堂が名請している。いわゆる一職の買得を行っており、作人として登録されたものとみられるが、これらが文禄三年の時点で現存した院家でもあるわけである。慶長一〇年(一六〇五)から一一年にかけて、豊臣秀頼によって寺内全般に大修理が行われた。修理は金堂(鎌倉)・多宝塔(平安)・鐘楼(室町)・楼門(鎌倉)・食堂(南北朝)について若干原形をも改造する形で行われ、御影堂は古材を生かしつつ全面改築した(以上いずれも国指定重要文化財)。さらに五仏堂・薬師堂・護摩堂・法具蔵・閼伽井屋・鎮守丹生明神社・鎮守水分明神社が全面改造、または新築された。次いで元禄一三年(一七〇〇)に岸和田藩主岡部美濃守長泰が奉行となり、寺内建物の修理および新築が行われた。この時は求聞持堂・開山堂・竜王三社・惣門・南大門などが新築または根本的に改築された(以上いずれも大阪府指定文化財)。元禄の修理には「金剛寺御修覆中万覚書」などの記録を残している(抄録は「河内長野市史」所収)。元禄の修理を経て、ほぼ今日の寺観が整えられた。

〔文化財〕建造物については以上のとおりであるが、当寺には南北朝内乱時の被災にもかかわらず多数の文化財が蔵されている。まず彫刻では、国指定重要文化財の金堂安置の本尊木造大日如来坐像・脇士木造不動明王坐像・木造降三世明王坐像(以上鎌倉、伝運慶作)、銅造観音菩薩立像(飛鳥―白鳳)、絵画では絹本著色弘法大師像(鎌倉)・同五秘密曼荼羅図(鎌倉)・同虚空蔵菩薩像(鎌倉)・同尊勝曼荼羅図(寺伝金堂三尊像、鎌倉)・紙本金地著色日月山水図(六曲屏風、桃山)、工芸では国宝の剣(平安)、国指定重要文化財の花鳥文様白銅鏡(平安)・野辺雀蒔絵手箱(平安)・蓮花蒔絵経筥(平安)・金銅装戒体箱(元応二年在銘)・金銅柄香炉(鎌倉)・蓮唐草螺鈿蝶形三足卓(鎌倉)・伝楠木氏一族所用腹巻及膝鎧計二〇両一双、書籍では国宝の延喜式神名帳(平安)、延喜式のうち三巻(平安)、国指定重要文化財の紙本墨書梵漢普賢行願讃(平安)・紺紙金泥法華経(巻八、藤原基衡願経、久安四年奥書)・紙本金泥宝篋印陀羅尼経(平安)・大般涅槃経(鎌倉、後村上天皇奥書)・紙本墨書宝篋印陀羅尼経などがある。一方文書は江戸時代に至る計四六七点が「大日本古文書」として公刊されているほか、このうち中世に関するものを「河内長野市史」が改めて校訂のうえ収載し、前述のような経疏奥書も収めている。文書のうち楠木氏関係の一巻一四通は国の重要文化財。境内一円は国の史跡に指定されている。昭和四九年(一九七四)滝畑(たきはた)ダム工事進入路造成に伴って坊院跡の調査が行われた。調査地は天野川の西岸、標高一七六メートル前後の平坦地で、金剛寺境内南端の日野口(ひのくち)門の南約一二〇メートルの地。石列・溝・瓦溜・井戸状遺構・土壙などが検出され、坊院遺構とその上層に営まれた墳墓群が明らかとなった。遺物には陶器・磁器・土師質土器・瓦器・瓦などがみられた。

すだれ資料館は、大阪府河内長野市にある展示施設である。
この資料館は、日本で継承されてきた伝統的な製法による簾や、同じ竹文化圏である中国、韓国に伝えられた歴史的に価値のある簾の資料を収集展示することで、世界のインテリアデザインとしての普及を目指している。
展示されているのは、大割機、亀甲簾、座敷簾、御簾、韓国簾、中国簾などで、座敷簾は「大阪金剛簾」という経済産業大臣認定の伝統的工芸品である。
簾の発祥から調度品としての簾まで、わかりやすく展示されている。
南海高野線、近鉄長野線の河内長野駅から、南海バスで天野山バス停下車すぐ。
入館は完全予約制となっているため、事前に電話(0721-53-1336)、FAX、電子メール(info@sudare.com)で申し込む。

今熊村
いまくまむら

[現]狭山町今熊・大野台(おおのだい)一―六丁目・西山台(にしやまだい)一―五丁目
いわむろ)村の南にある。丘陵地に位置し、三津屋(みつや)川が中央部をほぼ北流する。北東部を西高野街道が通る。文禄三年(一五九四)一二月二日豊臣秀吉が北条氏規に与えた知行目録(北条家文書)に「今くま村」がみえ、二五二石余が氏規に与えられている。正保郷帳の写とみられる河内国一国村高控帳では同高で狭山藩北条領、ほかに丹南藩領山年貢高二石余。寛文四年(一六六四)にも狭山藩領。天和元年(一六八一)の河州各郡御給人村高付帳では二六〇石余、同藩領。元禄一二年(一六九九)幕府領になり幕末まで続く。元文二年(一七三七)河内国高帳では高三六五石余・新田二九石余。明治四年(一八七一)六月の戸籍帳(奥野家文書)によると家数六七、うち地主五五・借地七・借屋五、人数三七五、余業も大工職を兼ねる四軒のほかに木綿商一軒だけの農業中心の村落だったようである。灌漑用水は溜池井水によったと思われるが、元禄以降幕末にかけて岩室村との間にすっぽ池・上池をめぐる水論が起きている(中林家文書)。嘉永四年(一八五一)には村方支配をめぐる二組の抗争が起こり、二組の統合された村方改革が進められたが、万延元年(一八六〇)に再発、文久元年(一八六一)には分裂の動きが起きている(同文書)。慶応三年(一八六七)から明治四年にかけて吉岡官平による寺子屋が設置された(狭山町史)。西部にある三都(さんと)神社は熊野三所権現を勧請したものという。西方丘陵上を金剛(こんごう)寺(現河内長野市)に通じる天野街道が通り、同社付近には西室院・金蔵院・地蔵院など寺院に関係する字名が残り、平安末期の瓦も出土する。また当村は別所(べつしよ)ともよばれたという(大阪府全志)。


大阪狭山市立郷土資料館は、大阪狭山市にある郷土文化財の展示施設である。
狭山の地名の歴史は古く、日本書紀、古事記にもその名を見ることができる。
この資料館では狭山の地域の歴史と文化に関する展示がされており、
考古学者末永雅雄博士の業績、興福寺の荘園「狭山荘」、南北朝期の池尻城、江戸時代の狭山藩陣屋などの解説がある。
南海高野線大阪狭山市駅下車、西へ徒歩10分。来場者用の無料駐車場がある。

大阪府立狭山池博物館は、大阪狭山市にある狭山池の土木遺産を保存展示する博物館である。
建築家安藤忠雄の設計で2001年に開館した。
狭山池
の平成の大改修の際に出土した遺物を保存公開している。
水と大地と人との関わりをテーマとした、土木技術史、土地開発史の専門博物館である。
館内は、安藤忠雄設計のユニークな構造で、高さ15メートル、幅62メートルの堤や分かり易い映像等で、狭山池1400年の歴史を学ぶことが出来る。
南海高野線大阪狭山市駅下車、西へ700m。来場者用の無料駐車場がある。

狭山池は、大阪狭山市にある日本最古のダム式ため池である。
発掘調査の結果、築造年は616年と考えられており、2016年に築造1400年を迎える。
奈良時代には僧行基が、鎌倉時代には東大寺の僧重源が、江戸時代には片桐且元が改修を行った。
2001
年に竣工した平成の大改修で、ダム化し、池の周囲は公園として整備され、市民の憩いの場となっている。
貯水量280万㎥、満水面積36ha、周遊路2.85kmで、国史跡に指定されている。
池の北側には、大阪府立狭山池博物館と大阪狭山市立郷土資料館がある。
堤防上の並木は、桜の名所として知られ、春には特に多くの市民が訪れる。
南海高野線大阪狭山市駅下車、徒歩10分。来場者用の無料駐車場がある。

大阪狭山市立郷土資料館は、大阪狭山市にある郷土文化財の展示施設である。
狭山の地名の歴史は古く、日本書紀、古事記にもその名を見ることができる。
この資料館では狭山の地域の歴史と文化に関する展示がされており、
考古学者末永雅雄博士の業績、興福寺の荘園「狭山荘」、南北朝期の池尻城、江戸時代の狭山藩陣屋などの解説がある。
南海高野線大阪狭山市駅下車、西へ徒歩10分。来場者用の無料駐車場がある。



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