布忍神社は、大阪府松原市にある神社である。
祭神は、速須佐男之尊(はやすさのおのみこと)、八重事代主之尊(やえことしろぬしのみこと)、武甕槌雄之尊(たけみかつちおのみこと)の三神である。
社伝によると、18町(約2km)北方の天見丘(あまみがおか)から、祭神をこの地に白布を敷いて迎えたので、この地を布忍、村里を向井(むかい)と呼ぶようになったといわれている。
昭和58年(1983年)、本殿修復時に両側面より江戸時代初期の狩野派絵師による唐獅子の壁画、脇障子から舞人の下絵、本殿下からは小絵馬と寛文3年(1663年)の奉納札が見つかった。
また、本殿正面の「布忍宮」の扁額も江戸時代初期の黄檗宗総本山宇治万福寺第5世高泉性潡禅師(こうせんしょうとぜんじ)(1633-1695)の書であることが明らかとなった。
拝殿には、宝永2年(1705年)に奉納された布忍八景扁額が掲げられている。
布忍神社周辺の宮裏白桜、孤村夕照、野塘春日、平田秋月、南山残雪、西海晩望、竹林黄雀、籠池白鴎の八景をけやき板4面に納め、漢詩、和歌、俳句などが記されている。
和歌の作者に契沖、下河辺長流、俳句は来山、一礼、園女など著名な国学者などの名がみえる。
2組作られ、現存する6面が松原市指定文化財になっている。境内に説明板が設置されている。
近鉄南大阪線布忍駅下車、徒歩5分。参拝者用の駐車場がある。
阿麻美許曽(あまみこそ)神社は、大阪市東住吉区にある神社である。
祭神は、素戔嗚尊、天児屋根命、事代主命である。
古くは、阿麻岐志(あまぎし)の宮ともいい、天美の地名の由来となった古社である。
創建は、平安時代初頭の大同年間(806-809)と伝えられ、延喜式内社である。
境内には、明治初年まで天見山の山号を持つ神宮寺があった。
南および東に建つ門は、同寺の山門である。
拝殿前の一対の狛犬の台座に「天見山」「阿闍梨快道(あじゃりかいどう)之代」「文化四年九月」の銘があり、社僧が文化4年(1807年)に建立したことがわかる。
手水舎の東側には、「行基菩薩安住之地」の石碑が建っている。江戸時代には、同地に奈良時代の高僧である行基が居住していたという伝承があった。神社北西の大和川に架かる橋を行基大橋と呼ぶのは、このためである。
近鉄南大阪線河内天見駅下車、徒歩16分。
四天王寺は大阪市天王寺区にある寺院である。
593年に聖徳太子が創建した日本最初の官寺である。
山号は荒陵山、本尊は救世観音菩薩である。
伽藍配置は、「四天王寺式」と呼ばれており、中門・五重塔・本堂・講堂を南北一直線に並べ回廊で囲む日本最古の形式である。
これまでに幾度も焼失し、再建されてきた。
現在の中心伽藍は、1963年に創建当初の様式によって再建されたものである。
大阪市営地下鉄谷町線四天王寺前夕陽丘駅下車、徒歩5分。
四天王寺庚申堂(正善院)は、大阪市天王寺区堀越町にある寺院である。
庚申堂は、四天王寺南門から南約200mの所にある境外仏堂で、本尊は青面金剛童子が祀られている。
伝承によると、白鳳時代に疫病が流行し、四天王寺の僧毫範が祈祷したところ、大宝元年(701年)正月7日庚申の日に帝釈天の使いとして童子があらわれた。
青面金剛童子の像を授かり、これを祀ると疫病が鎮まったため、ここが庚申信仰発祥の地といわれている。
60日毎の庚申参りの日には、コンニャクを北に向かって食べると御利益があり、三猿堂の加持を受けると、痛いところが治るといわれている。
大阪市営地下鉄御堂筋線及び谷町線天王寺駅下車徒歩5分。
竹本義太夫墓所は、大阪市天王寺区大道の超願寺にある。
竹本義太夫(1651-1714)は、江戸時代の浄瑠璃の大夫で、義太夫節の創始者である。
本名は五郎兵衛といい、天王寺村(天王寺区茶臼山町堀越神社付近)の百姓家に生まれた。
子供の頃から歌うことが好きで、当時人気の浄瑠璃語り井上播磨椽の弟子である清水理太夫に入門し稽古を始めたが、これらの浄瑠璃節に満足せず、昔からの謡曲や、文彌節、その他の唄の長所を取って独特の音節をつけた義太夫節を創出した。
そして、1684年に道頓堀で竹本座という新派浄瑠璃人形芝居を始めた。近松門左衛門が竹本座の脚本家となり、1703年に上演した「曾根崎心中」は、空前の大当たりとなった。
51歳の時に、朝廷に召されて義太夫節を謡い、筑後椽の號と、名前を藤原博教とする宣旨を賜った。
この墓所のある土塔山超願寺(浄土真宗本願寺派)は、614年聖徳太子の草創と伝えられ、太子が蘇我馬子の末子慧観を住まわせたとされている。
慧観は、太子から与えられた経論、仏舎利を納めるため三重塔を建てたが、舒明天皇の時代に付近で火災があったので、類焼を防ぐため泥土でこの塔を塗りこめた。
このため、人々はそれを土塔と呼んで、後に寺の山号となり、この地を土塔村と呼ばれることになったと言われている。
大阪市営地下鉄御堂筋線及び谷町線天王寺駅下車徒歩5分。
生國魂神社境内浄瑠璃神社には、竹本義太夫が人形芝居七功神と共に祀られている。(Y.N)
安居神社は、大阪市天王寺区にある神社である。
祭神は、少彦名神(すくなひこなのかみ)と菅原道真公である。
少彦名神を奉祀したのは、古文書が散逸したため詳らかでないが、非常に古い時代であると伝えられている。
この神は、医薬禁厭(医術・薬方・まじない)智慧の祖神として知られている。
菅原道真公は、大宰府に左遷される途上、海上の浪荒く暫くこの地に立ち寄って憩われた所以で、天慶5年(942年)此処に神霊を祀ったといわれている。
また、大丸の業祖 下村彦右衛門は当神社を厚く信仰したため、大丸天神と称される。
大阪夏の陣において、真田幸村が徳川家康の直前まで迫るも取り逃がし、この地で力尽きて戦死したと伝えられ、体を休める真田幸村像と戦死跡の石碑が建てられている。
4月25日には、例祭が行われ、5月には幸村祭が行われる。
大阪市営地下鉄四天王寺夕陽丘前下車、徒歩6分。
一心寺は、大阪市天王寺区逢坂にある浄土宗の寺院である。
1185年に浄土宗の開祖法然上人が、この地を訪れ、四天王寺別当の慈鎮(慈円)が、法然上人のために四間四室の庵室を建てたのが、一心寺の始まりである。
1614年の大坂冬の陣で、境内は徳川家康の本陣となった。大坂夏の陣の後、家康は大坂城の殿材で堂宇を修築し、山寺号を坂松山高岳院と改めた。
寺の本尊は阿弥陀如来像で、納骨堂には、全国から信者の遺骨を集めて作った「お骨佛」が奉安されている。
1887年に一体目が開眼し、以来10年ごとに一体造立するならわしとなっている。
境内東側の三千佛堂は、2002年に完成したもので、画家李暁剛の大壁画「雪山弥陀三尊図」をまつる講堂と、その周囲に彫刻家山田良定作の千躰佛と十二神将を安置する大廻廊がある。
また、地下の集会室は一心寺シアター「倶楽」として、演劇や伝統芸能が上演されている。
境内には、文化人、芸能人の墓も多く、本多忠朝の墓所である五輪塔は、酒封じの御利益があるとして信仰されている。
大阪市営地下鉄御堂筋線又は谷町線天王寺駅下車徒歩15分。(Y.N)
堀越神社は、大阪市天王寺区にある神社である。
聖徳太子が太子の叔父にあたる崇峻天皇を偲んで、四天王寺建立と同時に、堀越神社を建立した。
明治時代の中期まで境内の南沿いに美しい堀があり、この堀を越えて参詣したので、堀越という名がつけられた。
古くから「堀越さんは、一生に一度の願いを聞いて下さる神さん」と言われている。
祭神は、崇峻天皇で、小手姫皇后(おてひめこうごう)、蜂子皇子(はちこおうじ)、錦代皇女(にしきでこうじょ)が配祀されている。
また、境内小社として、大上神仙鎮宅霊符尊神、熊野第一皇子之宮、茶臼山稲荷神社、黒龍社、白龍社がある。
大阪市営地下鉄天王寺駅、JR天王寺駅下車、徒歩10分。