亀田大隅守供養塔は、和歌山県高野山奥の院31町石南西にある。
亀田高綱(かめだたかつな)(1558-1633)は、戦国時代の武将である。
柴田勝家の家臣 溝口半左衛門の子として生まれた。
溝口半之丞として柴田家に仕えていたが、柴田家を追放された後は、亀田権兵衛と名前を変えて浅野長政の家臣となった。
その後、小田原征伐、朝鮮出兵、関ヶ原の合戦に参戦して軍功を挙げ、浅野家が紀伊に移封されると7300石を与えられた。
元和元年(1615)大坂夏の陣の樫井の戦い(現在の大阪府泉佐野市)で上田重安と共に、豊臣方を撃退した。
浅野家が安芸広島に移封となり、備後双可郡東城の領主となり、因幡、出雲、備中との国境守備を担った。
寛永元年(1624)藩主浅野長晟の命で、亀田高綱の娘を上田重安の子息に嫁がせることになったが、高綱が拒否して和泉堺に勝手に隠遁した。
そのため、水野勝成らが調停を試みたが奏功せず、浅野長晟は、「他家に仕官しないなら去っても良い」との条件を出し、高綱は紀伊国伊都郡下天野(現和歌山県かつらぎ町)に移り住み、寛永10年(1633)に死亡した。
当地の墓石には、次のように刻されている。
正保三年丙戌八月十三日
(梵字)傑山萬鐡居士
施主 大崎氏長増建之
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