葛城の道めぐり




葛城の道

葛城の道は、奈良県にある。
奈良盆地の東側の「山辺の道」に対し、西側にある「葛城の道」は、金剛山、葛城山の麓を南北に走る古代の主要道路である。
この地一帯は、自然がはぐくむ豊かさによって早くから開け、5世紀にはヤマト政権内の有力な豪族であった葛城氏一族の根拠地として栄えたといわれる。
また神話のふるさとともいわれ、「古事記」や「日本書紀」に伝わる神々の地や高天原(たかまがはら)の伝承地などがあり、そこに登場する神々が祀られた神社などが現在も地元の信仰を集めている。
道標や案内板によって整備された散策路「葛城の道」(風の森峠~六地蔵)は、奈良盆地や大和三山を見下ろす雄大な展望、古い家並みの連なる集落など、豊かな自然と歴史が織りなす風景が楽しめる散策路である。


志那津彦神社 (風の森神社 / 風ノ森神社)

志那津彦神社(風の森神社/風ノ森神社)は、奈良県御所市にある。
当地の案内板には、次のように記されている。

   風の森神社
本社は、御所市大字鳴神、旧高野街道 風の森峠の頂上に位置しています。

御祭神には、志那津比古神をおまつりしています。志那津比古神は風の神であり、古事記、日本書紀には、風の神に因んだ事柄が記載されています。

風の神は、五穀のみのりを風水害から守る農業神としてまつられています。日本では、古くから風の神に対する信仰があり、毎年旧六月には、各地で薙鎌を立てて、豊作を祈る風祭が行われています。

 令和二年九月吉日
   御所市教育委員会
  寄贈 御所ライオンズクラブ

案内板横には、天誅組布陣百二十年記念の石碑が建立されている。





風の森道標

風の森道標は、奈良県御所市鳴神にある。
風の森は、旧高野街道沿いの神話にみちた小さな森である。
この一帯は、金剛山麓を南西から吹き抜ける風が強く、その平穏を祈るために、風の神を祭神とする志那津彦神社がまつられている。
吉田松陰の詩や天誅組の関係者が、峠で詠んだ歌で知られている。
「夕雲の所絶えをいづる月を見む 風の森こそちかづけにけり」
(「至風の森」石標の文を参照)





高鴨神社

高鴨神社は、奈良県御所市鴨神にある。
高鴨(たかかも/たかがも)神社は、「出雲国造賀詞(いずものくにのみやつこのかむほぎのことば)」に記載のある「葛城の鴨の神奈備(かんなび)」を起源とされる古社で、全国鴨(加茂)系の神社の元宮といわれる。
祭神は、阿遅志貴高日子根命(あじすきたかひこのねのみこと)(迦毛之大御神(かものおおみかみ))、事代主命(ことしろぬしのみこと)、
阿治須岐速雄命(あじすきはやのみこと)、下照姫命(したてるひめのみこと)、天稚彦命(あめわかひこのみこと)である。

正面の鳥居の先には石段があり、その上に三間社流造・檜皮葺の本殿がある。
左端の扉裏に天文13年(1545)の墨書がある室町時代の代表的な神社建築として、国の重要文化財に指定されている。
境内には、東神社本殿(県指定文化財)、西神社本殿のほか、16の小祠、拝殿、絵馬伝、楠木正成像などがある。
鳥居東側に鐘楼があり、梵鐘の銘文には神宮寺の由来などが記されており、神仏習合の名残が伺える。
鐘楼では、時を告げる鐘が撞かれてきており、現在でも夏季には、この鐘を合図に、田の水の受け渡しをする習慣が残っている。

当地はニホンサクラソウの名所としても知られる。
高鴨神社の二ホンサクラソウは、明治末期から父子4代にわたって蒐集されたものを、昭和35年(1964)に宮司が京都の自邸から持運んできたもので、約五百余種(二千数百鉢)が保存され、4月から5月にかけて社務所前で鑑賞できる。




伏見山 菩提院 菩提寺

伏見山 菩提院 菩提寺は、奈良県御所市にある。
菩提寺は、奈良時代の高僧 大僧正行基菩薩が留まり、仏法を弘めてこの地に建てられた道場「菩提院」の跡である。

「続日本紀」によると、宝亀4年(773)光仁天皇の勅により、仏法興隆のために、当郡の田三町を施入せられている。
白山の泰澄大法師、高野の弘法大師もこの寺で参籠修行をしたと伝えている。
平安時代には、子院三十余坊が並び建ち、往時は伏見寺千軒と呼ばれた。
十一面観音菩薩を本尊としており、秘仏毘沙門天、法起菩薩佛頭、金剛力士像(仁王像)などを有する。

当地の伏見の里では、仁王が井戸を怖がるので井戸を掘らず、火も怖がるので小正月のとんどを行わない。
そのため門松や注連縄も飾らない習慣が、現代も続いている。
当院南側の参拝者用駐車場からは、「御所市 山麓からの眺望」と記した案内板があり、御所市街地、若草山、高取山などの眺望が楽しめる。




高天彦神社

高天彦神社は、奈良県御所市にある。
金剛山東麓に鎮座し、「延喜式」神名帳葛上(かつじょう)郡の「高天彦神社 名神大、月次相嘗新嘗」に比定されている。
神社の背後には、美しい円錐状の御神体山(白雲峯(標高694m))がそびえており、社殿ができる以前はこの御神体山の聖林に、祭神を鎮め祀っていた。
祭神は、高皇産霊神(たかみむすびのかみ/たかみむすひのかみ)、市杵島姫(いちきしまひめ)命、菅原道真である。
高天彦神は、高皇産霊神の別称で、金剛山別当葛城家の祖神で、記紀神話の中で、出雲へ国譲りのための使者を遣わすなどとした神である。
鳥居手前には、樹齢数百年の杉並木があり、ウグイスが和歌を詠じたといわれることに由来する「鶯宿梅(おうしゅくばい)」がある。





高天寺 橋本院

高天寺 橋本院は、奈良県御所市にある高野山真言宗の寺院である。
奈良時代にあったとされる大寺院「高天寺(たかまでら)」の子院。
高天寺は、奈良時代に焼き払われたが、橋本院が唯一戦火から逃れたという。
本尊は、高天寺から持ち出されたといわれる十一面観音で、境内には「瞑想の庭」という美しい庭園がある。




佛頭山 吐田 極楽寺

佛頭山 吐田 極楽寺は、奈良県御所市にある浄土宗の寺院である。

天歴5年(951)村上天皇の御代に、南都興福寺の名僧 一和僧都によって開基され、佛頭山法眼院極楽寺という。
中世には、浄土宗第三祖 記主禅師の門弟 林阿上人が入り、領主 吐田五郎国資の帰依を受け、境内五町八反、七堂伽藍をもつ吐田氏の菩提所として、吐田(はんだ)の寺とも呼ばれた。

徳治元年(1306)北面の武士 十河図書行光が狩猟中、金剛山日の石で霊仏を授かり、出家剃髪奉祠し、夢のお告げを受けてこの霊仏を極楽寺に奉安した。
吐田の天得如来と親しまれ、現在も毎年4月15日には天得会式が盛大に営まれている。
南北朝時代には、楠木正成の祈願寺といわれ、河内吉野の連絡の要所となった。

慶長19年(1614)筒井順慶によって吐田氏が滅ぼされた折、兵火に罹り、本尊の仏頭をはじめ諸堂が灰燼に帰したが、幸い天得如来の絵像と鐘楼門が難を逃れ、後年随時再建された。





極楽寺ヒビキ遺跡

極楽寺ヒビキ遺跡は、和歌山県御所市にある。
案内板には、次のように記されている。

極楽寺ヒビキ遺跡 令和7年 御所市・御所市教育委員会
 南郷遺跡内に位置する極楽寺ヒビキ遺跡では、古墳時代中期にあたる5世紀中ごろの濠に囲まれた大型掘立柱建物跡や、内部を見られないための目隠しとして用いたと考えられる塀、濠の内部に出入りするための陸橋状の渡り堤の跡が見つかっている。
渡り堤の周辺からは須恵器や土師器が出土しており、その中には意図的に投棄されたとみられるものも含まれている。
 極楽寺ヒビキ遺跡は、供膳具として利用されることの多い高坏が多く出土したことや、区画内の建物に建て替えがないこと、濠内からの出土遺物が少ないことなどから、日常生活の場ではなく、祭祀や政治を行った公的な場所だと考えられる。
 また、宮山古墳の後円部頂から出土した埴輪のなかには、この遺跡の建物構造に似た構造の家形埴輪が含まれており、豪族葛城氏との関連性が示唆される。

*二光寺廃寺(にこうじはいじ)
 御所市西北窪でみつかった寺院跡で、伽藍配置の全体は明らかになっていないが、金堂と思われる礎石建物とそれに伴う基壇が見つかった。
出土した瓦の特徴から、7世紀後半ごろの渡来系氏族による建立と考えられている。





一言主神社

一言主神社は、奈良県御所市森脇にある神社である。
延喜式神名帳に葛木坐一言主(かつらぎにいますひとことぬし)神社として記載された神社で、願い事を一言だけ聞いてくれる「一言(いちごん)さん」として親しまれている。法人名は葛城一言主神社である。
事代主(ことしろぬし)命、幼武(わかたける)尊(雄略天皇)を祀っている。

その昔、雄略天皇と葛城の一言主とが、葛城山中で出会った時、一言主は、
「吾は 悪事も一言 善事も一言 言離つ神 葛城の一言主の大神なり」
と名乗って天皇を畏れさせたと記紀に書かれている。
今昔物語集には、役行者が諸神を集めて金峯山・葛城山間に架橋工事をした際、この神は顔が醜かったので、夜間だけ工事に従事し、行者の怒りに触れて呪縛されたとも書かれている。
社殿のあるこの地は、古くから神の降臨をしめすカミタチという名で呼ばれていることが文書などに記されている。

本殿の前にあるイチョウの巨樹は、高さ約20mで、幹の途中から乳房のようなものが出ており、「乳イチョウ」「宿り木」と呼ばれている。
この木に祈願すると子供を授かりお乳がよく出ると伝えられている。

また境内には神武天皇が葛網で捕らえた土蜘蛛を埋めたという蜘蛛塚があり、その牙と称するものを社宝としている。
謡曲史跡保存会の「土蜘蛛」と蜘蛛塚の説明板がある。

近鉄御所線近鉄御所駅からバスで宮戸橋下車、徒歩30分。参拝者用の無料駐車場がある。





九品寺

戒那山九品寺は、奈良県御所市楢原にある浄土宗の寺院である。
聖武天皇が行基に開かせたとされる寺院で、空海の戒那千坊の一つと伝えられている。
永禄年間(1558-70)弘誓が浄土宗に改宗し、楢原氏の菩提寺となった。
本尊の阿弥陀如来坐像(像高123cm)は、藤原時代の作とされ、国の重要文化財に指定されている。
本堂西側には、千体石仏と呼ばれる石仏群がある。
南北朝時代、城主楢原氏が南朝に味方し、北朝と戦った時、家族や地元の人々が身代わりに奉納したと伝えられ、「身代わり石仏」「千躰地蔵」とも呼ばれている。
近鉄御所線近鉄御所駅からバスで猿目橋下車、徒歩15分。





駒形大重神社

駒形大重神社は、奈良県御所市にある。
当社は古くから「大重神社」と「駒形神社」という別々の神社として鎮座していたが、諸般の事情により明治41年(1908)に、大重神社を駒形神社へと合併奉祀したため、「駒形大重神社」と改称された。
同時期に、神社境内には、春日神社、市杵島比売神社、八幡神社、神明神社、琴平神社の五社が鎮座している。

駒形神社の祭神と由緒
祭神は、駒形神(こまがたのかみ)(木股(きまた)の神)で、木の神、水の神、安産の神といわれる。

創立年代は不詳であるが、昔から当地ではこの山林を駒形山といい、祭神を木股様として崇敬してきた。
木股(木俣)は、「このまた」とも読むことから「こまがた」と転化したものとも考えられている。
祭神の「木股の神」は、因幡の白兎伝説で知られる大国主命と八上比売(やがみひめ)の子神で、別名を「御井の神」とも呼ぶことから、木の神、水の神、安産の神として崇敬されている。

大重神社の祭神と由緒
祭神は、滋野貞主命(しげのさだぬしのみこと)で、家内安全、学業成就、良縁成就の神といわれる。
また、大倉下照姫命(おおくらしたてるひめのみこと)も祀られており、穀物の神として知られる。

大重神社は、延喜式式内社で、「大和名所図会」にも葛木大重神社として掲載されており、シゲノサンともよばれている。
「大和志料は、「新抄格勅符抄」に「葛木犬養神」とあることから、大重は犬養の誤写で、「日本書紀」皇極天皇三年一月条にみえる葛城雅犬養連網田(645年の乙巳の変で、中大兄皇子から蘇我入鹿の暗殺を命じられた人物)らの祖神を祀った神社であろうともいわれる。
一方、穀物の神である「大倉下照姫命」を祀る「大倉神社」が「大重」と変化したという説や、大重は八重、火雷の誤写との説(神名帳考証)もある。

「滋野貞主(785-852)」は、平安時代初期に活躍した漢詩人である。
奈良時代の有名な儒学者で、当地楢原出身の楢原東人(ならはらのあずまひと)の曽孫にあたり、滋野という姓は祭神の父 家訳(いえおさ)が桓武天皇から賜ったことに由来する。
貞主公は、仁明天皇の皇太子時代「学士」として家庭教師に選ばれるなど特に学問に秀でており、「経国集(漢詩文集)」二十巻を編纂し、日本最古の百科事典といわれる一千巻の書物「秘府略」を撰集したことでも知られる。




六地蔵石仏

六地蔵石仏は、奈良県御所市大字櫛羅にある。
地名の櫛羅は、室町期には俱尸羅郷と呼ばれ、クジ・クジラは、砂丘・小丘などの地形とも崩地(急斜面)を意味する地形語であるともいわれる。

当地では古代から中世にかけて、兄川の出水等により、度々災害が発生した。
伝承によると、六地蔵が彫られた石も、室町時代に土石流が発生して現在の場所に流れ着いたといわれ、村人は、六道をもって衆生を救うという仏法の精神に照らし極楽浄土を願って彫った、と考えられている。
六体の像は、向かって右から天上道(日光菩薩)、人間道(除蓋障菩薩)、修羅道(持地菩薩)、畜生道(宝印菩薩)、餓鬼道(宝珠菩薩)、地獄道(壇蛇菩薩)といわれる。(御所市観光ホームページ)

世界大百科事典によると、六地蔵は、六道のそれぞれにあって衆生を救済するという6体の地蔵菩薩である。六地蔵の信仰は、中国などには先例がなく、、依拠すべき経典儀軌がないため、各像の形像や名称は一定しなかった。
日本大百科全書では、一般に、天上を化す預天賀(よてんが)、人間道を化す放光(ほうこう)、修羅道を化す金剛幢(とう)、畜生道を化す金剛悲(ひ)、餓鬼道を化す金剛宝、地獄道を化す金剛願(がん)菩薩の総称とされている。






鴨都波神社

鴨都波神社は、奈良県御所市宮前町にある。

「かもつわじんじゃ」として、資料等に載せられるが、地元では「かもつば」と通称することから、国史大事典では、「かもつばじんじゃ」として掲載されている。
延喜式内社で、祭神は積羽八重事代主命(都味波八重事代主命)(つみはやえことしろぬしのみこと)、下照姫命(したてるひめのみこと)で、賀茂氏の古い氏神の社とされている。
本社は、上賀茂社と呼ばれる高鴨神社に対して、下賀茂社、下津賀茂(しもつかも)神社とも呼ばれている。

夏祭りと秋祭り宵宮に、五穀豊穣、家内安全、無病息災を祈願して「ススキ提灯献灯行事」が行われており、平成12年に奈良県無形民俗文化財に指定された。

神社を中心とする一帯は「鴨都波遺跡」という弥生中期の遺跡で、土器や農具、住居跡が多数出土しており、古代には鴨族がこの地に住みついて農耕生活を営んでいた。





葛城

かつらぎ

現在、カツラギ・カツラキと発音する。葛城(古事記、日本書紀)、葛木(延喜式、続日本紀、威奈大村墓誌など)と書き、「古事記」仁徳天皇段に「加豆良紀」、「日本書紀」仁徳紀に「箇豆羅紀」の仮名で記され、カヅラキ(古今点訓抄、無名抄)と読む。また「万葉集」巻一一では「葛山」と書いてカヅラキヤマと読ませている。初見は推古天皇四年の「伊予道後温湯碑文」(釈日本紀)ということになるが、いずれにしても和銅六年(七一三)地名改定(佳字・二字)以前に発生した嘉名二字化地名と考えられる。地名の由来について「日本書紀」神武即位前紀に、

高尾張邑たかをはりむら(或本に云はく、葛城邑といふ)に、赤銅の八十梟帥有り。此の類皆天皇と距き戦はむとす。
高尾張邑に、土蜘蛛有り。其の為人、身短くして手足長し。侏儒と相類たり。皇軍、葛の網を結きて、掩襲ひ殺しつ。因りて改めて其の邑を号けて葛城かづらきと曰ふ。

とあり、葛城はごく素朴な古代地名であったが、こうした説話の発生することは葛城の国が政治的にも重視された証拠であろう。

地名に植物・天皇(豪族)を付会するという共通性がみられ、「城」は美称的意味をもつ唐風の用字である。また葛蔓は「万葉集」巻三に「延ふ葛のいや遠く、よろづ世に絶えじと思ひて」とあるように長久の意味をもっていた。金剛葛城山はカズラの産地で、「大和志」にも金剛山中の「防己藤」を土産として明記する。フジ、カズラはともに蔓性の植物で、今も葛根の採集地として知られている。大字楢原ならばら・伏見ふしみ・朝妻あさづまには小字「葛城」が残っている。

明治の市制町村制施行時に、金剛山東面山麓一帯の地域に葛城の村名を復活、隣村の巨勢こせ郷では「城」を省略して葛くず村とした。また、現北葛城郡新庄町内にある大字葛木かつらぎは、旧正道寺しようどうじ村・桑海くわうみ村が合併した新地名である。

なお、謡曲「葛城」には「あら面白やさてはこの、標しもとといふ木は葛城山に、由緒ある木にて候よなう。申すにや及ぶ古き歌の言葉ぞかし。標を結ひたる葛なるを、この葛城山の名に寄せたり。これ大和舞の歌といへり」とあり、葛の蔓を結って神籬を立てるという山岳信仰から起こったと解釈している。

元禄一一年(一六九八)一言主ひとことぬし神社に「葛城三十八景」の詩額が奉納された(現亡失)。撰定者は名柄ながら村出身で郡山藩侍講の高橋遠治、儒者藤井瀬斎が詩を題し、能書家北向雲竹が清書、全文は「葛城名区考」に収められている。



賀茂

かも

鴨とも書く。南は高鴨たかかも神社のある大字鴨神かもがみから、北は鴨都波かもつわ神社のある旧御所町に及び、金剛葛城山麓一帯の呼称であったらしい。大字櫛羅くじらの高鴨山には鴨山口かもやまぐち神社が鎮座、御所町に鴨口かもぐち町の町名、賀茂前かもまえの小字があり、大字三室みむろに「加茂の西」、大字増ましに「鴨浦かもうら」、鴨神に「カモゾヘ」の小字が遺存する。

「釈日本紀」が引く「山城国風土記」には、神倭石余比古の御前に立った賀茂建角身命は、「大倭の葛木山の峯に宿りまし、彼より漸に遷りて、山代やましろの国の岡田の賀茂に至りたまひ、山代河の随に下りまして、葛野かどの河と賀茂河との会ふ所に至」った、ゆえにその地を「名づけて賀茂と曰ふ」と記している。金剛葛城山の東麓は鴨氏族の一中心地で鴨山口神社・高鴨阿治須岐託彦根命たかかもあじすきたかひこねのみこと神社・鴨都波八重事代主命かもつわやえことしろぬしのみこと神社など出雲系有力神を祀った神社が多い。「詞林采葉抄」には「賀茂山、神山同山名也」とある。カモはカミ(神)と同義の語か。

応永二五年(一四一八)の吐田庄注進文(春日神社文書)に、「葛上郡三十三条五里三十三坪二反 西ムロ下津賀茂ノ社北浦坪」「三十三条八里三十坪七反之内二反 上津賀茂ノ東ハシ」とあり、下津賀茂しもつかもは鴨都波神社付近、上津賀茂は現鴨山口神社鎮座地の西方約二〇〇メートルの地以西をさしていることが知られる。「和名抄」の「上鳥」「下鳥」は「上鳧かみつかも」「下鳧しもつかも」で、それぞれ上津賀茂・下津賀茂の地にあたる。なお高鴨と上津賀茂・下津賀茂の中間に「中津賀茂」(現御歳神社)があったといわれる。



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