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萱野三平墓碑は、大阪府箕面市萱野の共同墓地にある。
萱野三平重實(しげざね)(1675-1702)は、延宝3年(1675)美濃の旗本 大嶋氏の所領であった椋橋庄(現 豊中市)の代官 萱野重利の三男として生まれた。
12歳で父の主君 大嶋出羽守の推挙により、播州赤穂の浅野家に多儀清具(中小姓頭)支配下の中小姓として仕えた。
赤穂事件は、元禄14年(1701)3月14日、主君浅野内匠頭(長矩)が江戸城松の廊下で吉良上野介(義央)に対して刃傷に及んだものである。
この時江戸鉄砲洲(現在の東京都中央区湊、明石町あたり)の赤穂藩江戸上屋敷にいた萱野三平と早水藤左衛門満尭が155里(620km)を早駕籠で揺られて、事件の第一報を赤穂に知らせた。
普通は10日以上かかる道のりをわずか4日半で伝えた。
萱野三平の自邸前を通り過ぎた際、母 小満の葬式に出会ったが、主君の急務を伝えるのが大事と葬儀にも参列しなかったという。
萱野三平は、大石内蔵助らと仇討の義盟に加わったものの、赤穂城開城後、父から大嶋家に仕官するよう強く勧められ、同志との盟約、元主君への忠義と父への孝行との間で板挟みとなり、
元禄15年(1702)1月14日に自宅長屋門の一室で自刃(切腹)し、27歳の生涯を終えた。
当地の墓碑は、三平死去の37年後に伊丹の酒造家で、俳諧、連歌、茶道などに名を残す北河原好昌に嫁いだ三平の姉「おとら」の三男 北河原長好と三平の兄 萱野重通の孫 重好が建立した。
正面の「萱野三平墓」の文字は書家として著名な黄檗宗の高僧 百拙元養、側面の撰文は儒者として有名な堀南湖によるものである。箕面市の有形文化財に指定されている。
萱野三平の墓所は、豊中の妙圓寺(現 光国寺)、新福寺、東京の泉岳寺にもある。

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