紀寺跡(きでらあと)は、奈良県明日香村にある奈良県指定史跡である。
紀寺跡は小山廃寺とも言われ、天香具山西麓の明日香村大字小山字キデラに所在することから遺跡名が紀寺跡とされた。
この地は、藤原京の左京八条二坊にあたる微高地である。
「続日本紀」天平宝字8年(764)7月12日条の紀寺の奴益人らの訴えの記事によって、庚午年籍(こうごねんじゃく)の造られた天智天皇9年(671)にすでに紀寺が存在し、奴婢がいたことがわかる。
紀寺は、古代の有力豪族である紀氏の氏寺であったとする説や、奈良市西紀寺町の璉城寺(れんじょうじ)が平城遷都によって飛鳥から移った紀寺の後身とする伝承などがある。
昭和48年(1973)から奈良国立文化財研究所と奈良県教育委員会とによって発掘調査が行われ、
金堂跡(東西18.5m、南北16.5m)、講堂跡(東西32m、南北19.9m)、中門跡(東西12m、南北8.2m)、回廊及び南門跡が確認され、7世紀後半の創建と考えられている。
伽藍配置は、南大門、中門、金堂、講堂が一直線に並び、回廊は中門から講堂にとりついて金堂を囲む形となっている。
文政2年(1829)卯花日記の記事で、現在は失われているが、明治10年(1877)頃までは、金堂の南東に塔心礎が残っていたと考えられることから、塔の存在も推定されている。金堂の南西では旗を立てる幢竿支柱(どうかんしちゅう)の柱跡が確認されている。
創建時の軒瓦は外縁に雷文(らいもん)を飾る複弁八弁蓮華文軒丸瓦(ふくべんはちべんれんげもんのきまるかわら)と三重弧文軒平瓦(さんじゅうこもんのきひらかわ)の組み合わせで、紀寺式と呼ばれている。
紀寺式と同じ文様の瓦は全国に分布している。
また、白鳳仏を彷彿とさせる優美な大型の独尊塼仏(粘土を凹型につめて成形し、乾燥させて窯で焼いた板状の仏像)も出土している。
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